NO42:機関室のレーション、油の匂い
「おい、ケント! いつまで磨いてるつもりだ? もう昼だぞ!」
甲高い声が、熱気のこもった機関室に響き渡る。声の主は、年季の入ったつなぎを着込んだベテラン整備士、タナカだ。
彼の顔には深い皺が刻まれ、油と汗が混じり合った独特の匂いを漂わせている。
「すみません、タナカさん! あと少しで終わりますから!」
ケントはそう言いながら、手に持ったウェスで懸命にバルブを磨き続けていた。
彼はまだ20代前半の若者で、この船に乗り込んで半年になる。
船の機関室は彼の職場であり、生活の場でもあった。
機関室の空気は常に重く、ディーゼルエンジンの唸り、金属が擦れる音、そして熱が皮膚にまとわりつく。
油の匂いは、最早ケントの鼻には馴染みきっていた。
しかし、時折、故郷の潮風の匂いを思い出すと、この濃密な油の匂いが無性に恋しくなることもあった。
「ったく、真面目なのはいいが、飯も食わずに倒れられても困るんだぞ」
タナカはため息をつきながら、機関室の隅にある休憩スペースへと向かった。
そこには、簡易的なテーブルと椅子が置かれ、今日の昼食であるレーションがすでに並べられていた。
ケントも作業を終え、手を洗い、休憩スペースへとやってきた。
テーブルの上には、無機質な銀色のパックが人数分置かれている。今日のメニューは「チキンライス」と書かれていた。
「またチキンライスかよ…」
隣に座った同僚のユウタが、うんざりしたように呟いた。
ユウタもケントと同じくらいの若者で、いつも軽口を叩いている。
「文句言うなよ、食えるだけありがたいと思え」
タナカがパックを開けながら言う。
中から現れたチキンライスは、冷たくて固まり、見るからに食欲をそそらない。
しかし、空腹には勝てない。ケントはフォークを手に取り、黙々と食べ始めた。
油の匂いが充満する空間で食べる冷たいレーションは、いつも独特の味だった。
チキンの味はするものの、その下には常に微かな油の風味が隠れているような気がする。
それは、決して嫌な味ではなかった。
むしろ、この機関室で働く自分たちの生活そのものを表しているようだった。
「なあ、ケント。お前、彼女いるのか?」
突然、ユウタがケントに問いかけた。
ケントは口の中のチキンライスを飲み込み、少し照れたように答えた。
「いや…いないですよ」
「そりゃそうだよな。こんなとこで働いてたら、女っ気なんかねえよな」
ユウタは自嘲気味に笑った。
機関士の仕事は、一度船に乗れば何ヶ月も陸に上がれない。
恋愛どころか、家族と会うことすらままならないのだ。
「でも、お前もいつかは結婚して、幸せな家庭を築くんだぞ」
タナカが、遠い目をしながら言った。彼の言葉には、どこか寂しげな響きがあった。
タナカには妻と娘がいると聞いているが、彼が家に帰れるのは年に数回だけだ。
食事が終わり、三人はそれぞれの持ち場に戻っていった。
再び、機関室にはエンジンの唸り声と金属音が響き渡る。
ケントは、ふと、タナカの言葉を思い出していた。
いつか自分も、この油の匂いのしない場所で、温かい食事を大切な人と囲む日が来るのだろうか。
数週間後、船は大きな嵐に巻き込まれた。
激しい揺れと轟音の中、機関室のエンジンが不調を訴え始めた。
ケントたちは必死で修理にあたったが、状況は悪化する一方だった。
「だめだ…このままじゃ…」
タナカの声が震える。
その時、突如として船体が大きく傾き、激しい衝撃音が機関室に響き渡った。
「ぐっ!」
ケントはバランスを崩し、目の前の配管に頭を強く打ち付けた。
視界が歪み、意識が遠のいていく。
次に目を覚ました時、ケントは病院のベッドにいた。
腕には点滴が刺され、頭には包帯が巻かれている。
「ケント君! 目を覚ましたか!」
看護師の声が聞こえる。
そして、ベッドの横にはタナカとユウタの姿があった。
二人の顔には疲労の色が濃く、油と汗の匂いが微かに残っていた。
「船は…」
ケントが掠れた声で尋ねた。
「ああ、なんとか助かったよ。港にたどり着いたんだ」
タナカが安堵したように言った。
ユウタも頷き、ケントの肩を軽く叩いた。
「よかった…」
ケントは心底ホッとした。
あの機関室で、油の匂いの中で死んでいくのは嫌だった。
数日後、ケントは退院し、実家へと帰省することになった。
空港で、タナカとユウタが見送りに来てくれた。
「しっかり休んで、また戻ってこいよ」
タナカがケントの肩をポンと叩いた。ユウタはにやにやしながら言った。
「次は、もっと美味いレーションを用意しといてやるからな!」
ケントは笑って二人に手を振った。
空港のガラス窓からは、青い空と白い雲が見える。潮風の匂いはしない。
油の匂いもしない。
飛行機に乗り込み、窓の外を眺める。
雲の上を飛ぶ飛行機の中で、ケントはふと、今日の昼食のことを考えた。
空港で買ったサンドイッチは、冷たくなく、油の匂いもしない。
しかし、なぜか物足りなく感じた。
あの機関室の熱気と油の匂い。
そこで食べた冷たいレーションの味。
それは、決して美味しいものではなかったけれど、確かにケントの中に深く刻み込まれていた。
それは、彼が命を賭して働いた証であり、共に苦楽を分かち合った仲間との絆の味でもあった。
「次はいつ、あの油の匂いを嗅ぐことになるんだろうな…」
ケントはそう呟き、目を閉じた。
彼の脳裏には、熱気と油の匂いが充満する機関室で、レーションを頬張る自分たちの姿が鮮やかに蘇っていた。
そして、それはきっと、彼にとって、かけがえのない記憶として残っていくのだろう。




