NO40:プロペラの向こうの故郷の味
1944年、夏。南太平洋上を低空飛行する日本海軍の一式陸上攻撃機「隼」の機内は、熱気と機械油の匂いで満ちていた。
爆音にまぎれて聞こえるのは、無線士、山本の故郷、佐賀の訛り混じりの声だ。
「おい、源太。今日のおかずは何だ? まさかまた乾パンってことはねえだろうな?」
操縦桿を握る源田は、苦笑いしながら振り返った。
「まさか。今日は特別だ、山本。とっておきの材料が手に入ったんだからな」
整備兵の田中が身を乗り出した。
「おお、源田さん! ついに例のブツを?!」
「もちろん。だが、まだ誰にも言うなよ。特に隊長には絶対だ。バレたら一週間、食事抜きにされる」
皆の顔に期待の色が広がる。
食料が限られた戦場では、故郷の味は兵士たちの唯一の慰めだった。
源田は、出撃のたびに故郷の母親から送られてきた小包の中から、こっそり食材を抜き取っていた。米、味噌、醤油、そして時には乾物や漬物。
それらを少しずつ集め、仲間たちと分け合うのが、彼らにとっての密かな楽しみだった。
今日の獲物は、奇跡的に手に入った豚肉の缶詰と、畑で採れたばかりの新鮮な玉ねぎとジャガイモだ。
これらを組み合わせれば、故郷の味が再現できる。源田は、着陸後の夕食に思いを馳せ、胸を高鳴らせていた。
夜。滑走路の片隅で、小さな焚き火が燃えている。
その周りに集まった源田たち数人の兵士が、ひそひそ声で話していた。
「源田、本当にうまいもん作ってくれよな。最近、ろくなもん食ってないから、味覚がおかしくなりそうだ」
と、偵察員の佐藤が言う。
「任せとけ。俺の母親直伝の味だからな。お前ら、一口食ったら故郷が目に浮かぶぜ」
源田は得意げに笑った。
鍋からは、香ばしい匂いが立ち上ってくる。
豚肉と野菜を炒める音、醤油と味噌の混じり合った匂いが、疲弊した兵士たちの胃袋を刺激する。
「うわあ、いい匂い! これは何の匂いっすか、源田さん!」
最年少の下士官、中村が目を輝かせた。
「豚肉と野菜の味噌炒めだ。隠し味に生姜も入れてある」
源田は鍋の中をかき混ぜながら答えた。
それぞれの故郷の思い出話に花が咲く。
家族のこと、地元の祭り、初恋の相手……。
普段は口に出すことのない、ささやかな幸せの記憶が、故郷の味とともに蘇ってくる。
「俺の婆ちゃんが作ってくれた芋の煮っ転がし、もう一度食いたいなあ……」
田中が遠い目をした。
「俺は、親父が釣ってきたアジのたたきが忘れられねえな」
佐藤が呟く。
「俺は、母さんの作ったおはぎが食いてえなぁ……」
山本が寂しそうに言う。
源田は、そんな仲間たちの声を聞きながら、静かに鍋を見つめていた。
彼の脳裏には、いつも笑顔で料理を作ってくれた母親の姿が浮かんでいた。
料理が完成し、各自の飯盒に盛り付けられる。湯気を立てる豚肉と野菜の味噌炒めは、まさに「ご馳走」だった。
「いただきます!」
一斉に箸が動く。一口食べると、皆の顔に満面の笑みが広がった。
「うまい! なんだこれ、めちゃくちゃ美味いじゃないですか、源田さん!」
中村が感動したように叫んだ。
「ああ、この味だ! まさに故郷の味だよ!」
山本が涙ぐんだ。
「これがあれば、あと100回は出撃できるぜ!」
佐藤が拳を握りしめる。
源田は、仲間たちの喜ぶ顔を見て、じんわりと胸が温かくなるのを感じた。
彼らが故郷の味に飢えていることを知っていたから、危険を冒してまで食材を持ち込んだ甲斐があった。
その時、遠くで爆発音が響いた。空襲警報が鳴り響き、焚き火の周りにいた兵士たちは一斉に立ち上がった。
「敵襲だ! 全員、退避!」
源田は、まだ温かい飯盒を抱きしめ、空を見上げた。
夜空には、サーチライトの光がいくつも交錯し、その中に米軍機の影が不気味に浮かび上がっていた。
「くそっ、こんな時に!」
だが、彼らの顔には、先ほどの食事で得た活力が宿っていた。
故郷の味は、彼らの心に希望の灯をともしてくれたのだ。
翌日、激しい空戦が繰り広げられた。
源田の乗る「隼」も、敵機との壮絶なドッグファイトを繰り広げた。
機体が大きく揺れ、機銃掃射の音が耳をつんざく。
「源田さん、右翼に敵機!」
田中の叫び声が聞こえる。
源田は冷静に操縦桿を捌き、敵機の背後を取った。
機銃を連射し、敵機は火を噴きながら墜落していく。
その瞬間、自機の後方から強烈な衝撃が走った。
「被弾! 右エンジンがやられました!」
山本の声が焦りを帯びる。
機体が大きく傾き、コントロールを失いかける。
「源田さん! なんとか持ち直してください!」
中村が必死に叫ぶ。
源田は必死に操縦桿を握りしめ、機体を立て直そうと試みる。
だが、損傷は深刻で、プロペラの回転も鈍くなっていた。
「くそっ、このままじゃ……」
その時、ふと、昨夜食べた味噌炒めの味が口の中に蘇った。
故郷の味が、彼を奮い立たせた。
「皆、諦めるな! まだだ! まだやれる!」
源田は叫び、最後の力を振り絞って機体を制御しようとした。
しかし、力尽き、隼は無情にも海上へと墜落していった。
数日後。基地では、源田たちの安否が確認できないまま、捜索活動が続けられていた。
皆、沈痛な面持ちで、彼らの帰りを待っていた。
「源田さん、生きててくれよな……」
山本が、空を見上げながら呟いた。
その日の夕食は、いつもの乾パンと塩漬けの魚だった。
味気ない食事を前に、誰もが言葉を失っていた。
その時、一人の兵士が、自分の飯盒から何かを取り出した。
それは、しわくちゃになった一枚の紙だった。
「これ、源田さんが残していったものです」
皆がその紙をのぞき込む。
そこには、拙い字でこう書かれていた。
「母さんへ。おかげで皆に故郷の味を届けられたよ。みんな、本当に喜んでくれた。ありがとう。俺は、きっと帰るからな」
その言葉を読んだ瞬間、皆の目から涙が溢れ出した。
故郷の味は、ただの食事ではなかった。
それは、兵士たちの心を故郷と繋ぎ、明日への希望を与えてくれる、かけがえのないものだった。
プロペラの向こうに広がる故郷への想いを胸に、彼らは再び戦場へと向かうのだった。




