NO38:硝煙と豆の煮込み
闇が大地を覆い、凍えるような夜風が肌を刺す。18世紀半ば、インディアン戦争の只中。
ペンシルベニアの深い森の奥、第60ロイヤル・アメリカン連隊の野営地では、くすぶる焚き火の周りに数名の兵士が身を寄せ合っていた。
彼らの顔は疲労と警戒の色に染まり、窶れた頬が火の光に赤く照らされる。
「ちくしょう、また豆かよ!」
ジョンが吐き捨てるように言った。彼は若く、入隊してまだ数ヶ月。
故郷の暖炉と母親の作るパイが恋しくてたまらない。
古参兵のトーマスが静かに答える。
「文句を言うな、ジョン。食えるだけありがたいと思え。去年の冬は、これすらままならなかったんだからな」
トーマスの声はしわがれていて、その目には幾度もの戦いを潜り抜けてきた男特有の諦めと、それでも消えないかすかな希望が宿っていた。
当番兵が大きな鉄鍋を火から下ろすと、湯気がもうもうと立ち上った。
中には少量の豆が煮込まれている。兵士たちは黙ってそれぞれの皿に豆を受け取った。
「これっぽっちで、明日まで腹がもつかよ」
フランクが不満げに呟いた。彼はいつも腹を空かせている。
「戦場じゃ、腹が減るのは当たり前だ。生き残るためだ」
トーマスは淡々と答える。
その時、遠くでフクロウの鳴き声がした。
森の奥から響くその声は、兵士たちの神経を逆撫でする。
彼らは皆、思わず銃を握りしめた。フクロウの鳴き声は、しばしば敵であるインディアンの合図として使われる。
「おい、今の…」
ジョンが震える声で言った。
「落ち着け、ジョン。ただのフクロウだ」
トーマスは言い聞かせるように言うが、彼の顔にも緊張が走っていた。
沈黙が場を支配する。豆をすする音だけが、不気味なほど響いた。
「なあ、トーマス」
フランクが唐突に口を開いた。
「故郷に帰ったら、何がしたい?」
トーマスは少し考え込んだ。
「そうだな……まずは、美味いエールをたらふく飲みたい。それから、妻と子供たちを抱きしめて、二度と離れないと誓う」
彼の遠い目には、故郷の風景が浮かんでいるようだった。
「俺は、農夫になるんだ」
ジョンが続いた。
「広い畑を耕して、自分で作った野菜を食べる。毎日腹いっぱい食って、夜は暖かいベッドで眠るんだ」
彼の声には、素朴だが切実な夢が込められていた。
フランクは黙って豆をかき込んだ。
彼の夢は、あまりにも現実離れしていて、口に出すのがためらわれたのかもしれない。
その夜は、奇妙なほど静かだった。
フクロウの鳴き声も、それ以上は聞こえなかった。
兵士たちは豆を食べ終えると、交代で不寝番につき、わずかな眠りを貪った。
翌朝、夜明けと共に斥候隊が戻ってきた。
彼らの報告は、兵士たちの間に動揺を広げた。
「インディアンの野営地を見つけた。この先、半日ほどの距離だ」
斥候の一人が息を切らしながら言った。
「かなり大規模なようだ。我々だけでは厳しいかもしれん」
司令官の指示が下された。奇襲作戦だ。
兵士たちは緊張した面持ちで装備を整える。銃を点検し、弾薬を確認する。
それぞれの顔に、死と隣り合わせの覚悟が刻まれていた。
ジョンは顔色を変えていた。
「まさか、こんなに早く…」
トーマスはジョンの肩を叩いた。
「これが、俺たちの仕事だ、ジョン。やるべきことをやるだけだ」
森の中を進む。足元には落ち葉が積もり、乾いた小枝がパキパキと音を立てる。
兵士たちは音を立てないよう、慎重に、そして素早く前進した。
朝日は木々の隙間から差し込み、光と影のコントラストが、森の奥をさらに不気味に見せた。
そして、彼らは見た。
木々の向こうに、煙が立ち上るのが見える。
インディアンの野営地だ。
司令官の合図と共に、兵士たちは一斉に突撃した。
銃声が森に響き渡り、硝煙の匂いが鼻をつく。
戦いの火蓋が切られたのだ。
激しい銃撃戦が繰り広げられた。
兵士たちの叫び声と、インディアンの雄叫びが入り混じる。
ジョンは必死に銃を撃ち続けた。
初めての実戦で、手は震え、心臓はこれまでにない速さで脈打つ。
隣ではトーマスが冷静に銃を構え、次々と標的を仕留めていく。
フランクもまた、鬼のような形相で銃剣を振るっていた。
一瞬の隙をついて、インディアンの兵士がジョンの目の前に飛び出してきた。
ジョンは咄嗟に銃を構えるが、弾丸はすでに尽きていた。彼は死を覚悟した。
その時、横から飛び出したトーマスが、そのインディアンの兵士を銃剣で仕留めた。
「ジョン!油断するな!」
トーマスの声が響く。
ジョンは息を呑み、トーマスに感謝の視線を送った。
戦いは数時間に及んだ。
最終的に、ロイヤル・アメリカン連隊は勝利を収めた。
しかし、その代償は大きかった。
多くの兵士が命を落とし、負傷者も数えきれないほどだった。
夕暮れ時、兵士たちは野営地に戻ってきた。
勝利の喜びよりも、疲労と喪失感が彼らを包んでいた。
ジョンは、負傷した兵士たちの手当てを手伝っていた。
彼の心は、これまでにないほど重かった。
彼の目には、戦場で倒れた兵士たちの姿が焼き付いていた。
その夜、再び焚き火が囲まれた。
しかし、昨夜とは明らかに雰囲気が違った。
静まり返った中に、ただ薪が燃える音だけが響く。
「なあ、トーマス」
ジョンが力なく言った。
「俺は、もう嫌だ。故郷に帰りたい」
トーマスは何も言わなかった。
彼の視線は、燃え盛る炎の先を見つめていた。
フランクは、ぼんやりと空を見上げていた。
彼の顔は煤で汚れ、虚ろな目には何も映っていないように見えた。
当番兵が、再び鉄鍋を火にかける。
しかし、中身はほとんど残っていなかった。わずかな水と、昨日食べ残した豆が数粒。
「すまない、これしか残ってない」
当番兵が申し訳なさそうに言った。
兵士たちは黙って、その僅かな豆を受け取った。
ジョンは、自分の皿の豆をじっと見つめた。数粒の、みすぼらしい豆。
昨夜はあんなにも不満だったはずなのに、今はなぜか、それが途方もなく尊いものに思えた。
「トーマス」
ジョンは顔を上げた。
「この豆、分けてやらないか。フランクにも。」
トーマスは驚いたようにジョンを見た。
そして、静かに頷いた。
ジョンは自分の皿から、慎重に豆をフランクの皿に移した。
フランクは、まるで夢でも見ているかのように、ゆっくりと顔を上げた。
「俺は、お前たちみたいに、故郷で夢を叶えることはできないかもしれない」
フランクが震える声で言った。
「でも、お前たちが故郷に帰って、幸せになるのを見届けたい。それだけが、俺の夢だ。」
トーマスは、フランクの言葉に何も言わなかった。
ただ、静かに自分の皿から豆を分け与えた。
硝煙の匂いがまだ残る夜空の下、焚き火の炎が彼らの顔を照らす。
彼らは知っていた。明日、また同じ戦いが待っているかもしれない。
故郷に帰れる保証など、どこにもない。
しかし、その瞬間、彼らは確かに生きていた。
僅かな豆を分け合うことで、彼らは互いの存在を確かめ合っていた。
それは、飢えを満たすためだけの食事ではなかった。
絶望的な状況の中で、人間としての尊厳を保ち、希望を繋ぎ止めるための、ささやかな儀式だった。
そして、彼らは気づいた。
あのフクロウの鳴き声が、インディアンの合図ではなかったことに。
ただのフクロウの鳴き声だった。
それは、彼らの警戒心を逆撫でする単なる音ではなく、この森で生きる全ての命が、彼らと同じように、必死に生きようとしている証だったのだ。
彼らは、あのフクロウと同じように、ただ生きるために、この硝煙と豆の煮込みを食らっていた。
夜が更け、彼らは再び、明日への戦いに備えて、わずかな眠りについた。
それぞれの胸に、ささやかな豆の味が、そして、確かにそこに存在する温かい繋がりが残っていた。




