NO35:塹壕のレシピノート
薄暗い塹壕の中で、エリックは埃っぽい背嚢から古びたノートを取り出した。
表紙は使い込まれて擦り切れ、ページは油染みや乾いた土で汚れている。
しかし、彼にとってこれは何よりも大切な宝物だった。
故郷に残してきた家族のレシピノート。
遠くで砲弾の炸裂音が響き、塹壕の土壁が小刻みに震える。
だが、エリックの視線はノートに釘付けだった。
ページをめくるたび、焼き立てのパンの香ばしさ、母の得意なアップルパイの甘い香り、そして暖炉のそばで家族と食卓を囲む穏やかな光景が目に浮かぶ。
「チキンとマッシュルームのパイ……」
彼は声に出して呟いた。
隣にいた同胞のマークが顔を上げる。
「なんだ、エリック?またそのノートか?」
エリックははにかみながら頷いた。
「ああ。これを見てると、家に帰ったような気分になるんだ。母さんのパイは最高でな……」
マークは苦笑いしながらも、その表情には理解の色が滲んでいた。
この最前線では、誰もが何かしらの「故郷」を抱きしめていた。
その夜も、空には絶え間なく砲弾が飛び交っていた。轟音と閃光が闇を切り裂く。
エリックは身を伏せ、耳を塞ぎながらも、やはりノートを広げていた。
「『家族全員で作るラザニア』……」
彼は指でレシピをなぞった。
「父さんと俺が肉をこねて、母さんと妹がソースを作って……」
その時、一際大きな爆発音が間近で響いた。塹壕が激しく揺れ、土砂がエリックの肩に降り注ぐ。
彼は咄嗟にノートを胸に抱きしめた。身体が吹き飛ばされるような衝撃。
意識が遠のく中、彼の頭の中には、あの食卓の光景だけがあった。
温かいラザニアを囲み、家族の笑顔が弾ける……。
次に目を覚ました時、エリックは野戦病院のベッドにいた。
腕と足に包帯が巻かれ、鈍い痛みが身体中に走る。
「気がついたか、エリック!」
マークの声がした。彼の顔には安堵の色が浮かんでいる。
「マーク……」
エリックは掠れた声で言った。
「ノートは……あのノートは無事か?」
マークは優しく微笑んだ。そして、ベッドサイドのテーブルに置かれたものを指差した。
そこには、埃と土にまみれ、端が少し焦げたレシピノートがあった。
中心部分には、弾丸が貫通したような、きれいな丸い穴が開いている。
エリックはゆっくりと手を伸ばし、ノートを手に取った。
穴は、ちょうど「チキンとマッシュルームのパイ」のページの、材料リストの真ん中に開いていた。
だが、彼の目に映るのは、弾痕ではなかった。
「これ……弾が貫通してるけど、大事なところは読めるな……」
彼は震える声で言った。
「ありがとう、母さん。このノートが、俺を守ってくれたんだ」
マークは何も言わず、ただ静かにエリックを見つめていた。
ノートの弾痕は、エリックの身体を貫くはずだった弾丸の痕だった。
弾丸はレシピノートに当たり、そこで止まっていたのだ。
エリックはノートを抱きしめ、静かに涙を流した。故郷への想い、家族の絆、そして日常への回帰願望。
それらが詰まったこのノートが、彼を死の淵から救い出した。
彼は誓った。この戦争が終わったら、必ず故郷に帰り、このレシピノートの料理を家族と共に作るのだと。
その日を夢見て、エリックは静かに目を閉じた。彼の胸には、温かい家族の食卓と、香ばしいパイの香りが満ちていた。




