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NO34:防空壕のまあるい食卓


 うだるような夏の熱気が、地下へと続く急な階段を降りるごとに薄れていく。

 湿った土の匂いと、微かに漂う生活の匂い。ここが、私、山田和子と、見知らぬ大勢の人々が身を寄せる防空壕だった。


 空襲警報が鳴り響かない限り、私たちはこの薄暗い空間でひっそりと息を潜めていた。

 配給は質素なものばかりで、皆の顔には疲労と諦めが貼り付いているようだった。


 ある日、私はふと、ポケットに入れていた古びたお守りを握りしめた。

 それは、母がよく作ってくれた「けんちん汁」のレシピが書かれた小さなメモだった。


 「ねぇ、おばあちゃん、それ何?」


 隣に座っていた、まだ幼いミツル君が不思議そうに私の手元を覗き込む。


 「これはね、おばあちゃんの故郷の味だよ。昔、おばあちゃんのお母さんがよく作ってくれたんだ」


 「ふーん…おいしいの?」


 ミツル君の澄んだ瞳が、私を見上げた。その瞳に、何か希望の光を与えたい。

 そう思った時、私の心に小さな火が灯った。


 「よし!みんなで、それぞれの故郷の味を教え合わないかい?」


 私の突然の提案に、最初は皆が戸惑った表情を浮かべた。

 しかし、日々の単調な生活に飽き飽きしていたからだろうか、一人、また一人と、興味を示す人が現れた。


 「私、九州の者だけど、かしわ飯なら得意だよ!」


 と、恰幅の良い田中さんが手を挙げた。


 「あたしは東北だから、芋煮の作り方、知ってるよ」


 と、物静かな佐藤さんが恥ずかしそうに言った。


 「俺は関西出身や。たこ焼きは作れんけど、出汁の取り方なら任せとけ!」


 と、ひげ面の山本さんが豪快に笑った。


 その日から、私たちの防空壕は「レシピ交換会」の場と化した。

 日中は空襲の恐怖に怯えながらも、夜になると、皆が持ち寄ったレシピを囲んで話に花が咲いた。


 「けんちん汁はね、ごぼうの香りが決め手なのよ」


 「かしわ飯は、鶏肉をしっかり炒めるのがコツなんだ」


 「芋煮はね、里芋を煮崩れさせないようにするのが難しいんだよ」


 食材は限られていたけれど、私たちはそれぞれの記憶の中に眠る故郷の味を語り合った。

 時には、具体的な材料が手に入らないことに嘆き、時には、どうにかして似た味を再現できないかと知恵を絞った。


 ある日、配給で手に入った大根と油揚げを見て、私は閃いた。


 「これなら、けんちん汁が作れるかもしれない!」


 皆で協力し、小さな薪で火を起こし、わずかな味噌と醤油で味付けをした。

 煮詰まるにつれて、懐かしい香りが防空壕いっぱいに広がっていく。


 「わぁ…いい匂い!」


 ミツル君が目を輝かせた。他の人たちも、まるで故郷に帰ったかのように、じっと鍋を見つめていた。


 出来上がったけんちん汁を皆で囲んだ。

 熱気を帯びた湯気が、皆の顔を柔らかく照らす。一口、口に含むと、温かくて優しい味が体中に染み渡った。


 それは、決して豪華な料理ではなかったけれど、私たちが分かち合った喜びと希望が詰まっていた。


 「おいしい…」


 ミツル君が涙を浮かべながら呟いた。私も、田中さんも、佐藤さんも、山本さんも、皆が同じように静かに涙を流していた。


 それは、空襲の恐怖の中で忘れかけていた「食の喜び」であり、見知らぬ人々が心を一つにした「連帯」の味だった。

 その夜、私はミツル君に言った。


 「ねぇ、ミツル君。いつか、この戦争が終わったら、おばあちゃんが本物のけんちん汁を作ってあげるね。その時は、ミツル君のお母さんにも食べさせてあげよう」


 ミツル君は小さく頷いた。

 その日から、防空壕の食事は少しだけ豊かになった。誰かが覚えているレシピを元に、限られた食材で工夫を凝らし、時には意外な組み合わせで新しい味を生み出した。


 私たちはお互いの故郷の味を知り、それぞれの人生の断片に触れた。

 そこには、言葉だけでは伝えきれない、深い絆が生まれていた。


 そして、終戦の日。


 空襲警報が鳴り止み、外から歓声が聞こえてきた。私たちは恐る恐る、地下から地上へと向かった。

 焼け野原となった街並みは、私たちの心を打ち砕くほど悲惨だった。

 しかし、私の隣には、ミツル君が、田中さんが、佐藤さんが、山本さんがいた。


 「おばあちゃん、本当にけんちん汁、作ってくれる?」


 ミツル君が私の服の裾を引いた。


 「もちろんさ。そして、ミツル君も、いつか誰かに、この防空壕で作った料理のことを話してあげるんだよ」


 数年後、復興の槌音が響く街で、私は小さな食堂を営んでいた。

 店のメニューには、かつて防空壕で皆と語り合った、様々な故郷の料理が並んでいた。


 けんちん汁、かしわ飯、芋煮、そして、出汁の効いた味噌汁。

 ある日のこと、懐かしい顔が店の戸をくぐった。


 成長したミツル君と、彼の隣には美しい女性が立っていた。


 「おばあちゃん!覚えてる?ミツルだよ!」


 ミツル君は屈託のない笑顔で私に駆け寄った。そして、隣の女性を紹介した。


 「こちらは、僕の妻です。彼女に、おばあちゃんのけんちん汁を食べさせてあげたくて」


 私は嬉しくて、胸がいっぱいになった。

 彼らの顔には、あの防空壕で見た、諦めと疲労の色はなかった。


 そこには、未来への希望と、温かい愛情が満ち溢れていた。


 「さあ、上がって。今、とびっきりのけんちん汁を作るからね」


 私はそう言って、台所へと向かった。

 鍋から立ち上る湯気は、まるで、あの防空壕で交わされた、温かい言葉と笑顔を思い出させるようだった。




 あの時、私たちは「食の喜び」を分かち合うことで、見知らぬ人との間に確かな「連帯」を築き、そして、未来へと繋がる希望を見出したのだ。


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