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NO32:本能寺の甘味


 天正十年、六月二日。京都、本能寺。

蒸し暑い夏の夜気は、不穏なざわめきに満ちていた。

 織田信長は、いつものように書を読み耽っていたが、その耳には、徐々に近づく騒音が届いていた。


 「申し上げます! 毛利の手の者か、寺が囲まれております!」


 近習の声が震える。信長はゆっくりと顔を上げた。

 その顔に焦りの色はなく、むしろ静謐な光が宿っていた。


 「ほう……毛利、か。では、秀吉はまだ高松にいると?」


 信長は問うた。


 「は、はっ。おそらく……」


 信長は一度目を閉じ、そして開いた。

 彼の脳裏には、数日前の出来事が鮮明に蘇っていた。

 安土城での茶会。そこで出された、京の老舗が作ったという甘菓子。


 それは、ほんのりとした苦みと上品な甘さが絶妙に調和した、信長好みの逸品だった。


 「蘭丸」


 信長は静かに呼びかけた。


 「は、はい!」


 森蘭丸は、血の気が引いた顔で信長の前に跪いた。


 「余は、今宵、死ぬ」


 蘭丸は息を呑んだ。信長の言葉は、まるで明日を語るかのように淡々としていた。


 「しかし、その前に、一つだけやり残したことがある」


 信長は立ち上がり、ゆっくりと部屋の中央に歩み寄った。

 彼は、文箱の奥から小さな木箱を取り出した。蘭丸はその箱に見覚えがあった。


 数日前、信長が特別に手に入れたと言っていた菓子だ。


 「この菓子、最後の時に食べようと決めていたのだ」


 信長は箱を開け、中から小ぶりな練り切りを一つ取り出した。


 それは、夜空に浮かぶ月のように淡く、繊細な細工が施されていた。


 「しかし……敵は毛利ではないな」


 信長は練り切りを口元に運びながら、呟くように言った。

 その声には、確信が込められていた。


 蘭丸は信長の言葉に耳を疑った。毛利ではない? では、一体誰が……。


 信長は目を閉じ、ゆっくりと菓子を味わった。甘さが口いっぱいに広がり、その後に微かな苦みが追いかけてくる。


 まるで、彼の人生そのもののようだと信長は思った。

 栄光と苦難、その両方が混じり合った人生。


 「ああ……美味い」


 信長は静かに目を開け、蘭丸を見た。その瞳は、深淵な湖のように静かだった。


 「蘭丸。貴様は、生きてこの味を後世に伝えよ」


 蘭丸の目から、大粒の涙が溢れ落ちた。


 「な、何を仰せられますか! 私めは、最後まで殿と……」


 「馬鹿者」


 信長はぴしゃりと言った。


 「それが、余の最後の命だ。生きろ。そして、この甘味を忘れるな」


 信長は残りの練り切りを蘭丸の掌に乗せた。蘭丸は熱い涙が流れる目で見上げた。


 「殿……」


 その時、襖の外で激しい怒号が響いた。


 「信長はおわすか!」


 蘭丸ははっと顔を上げた。信長は静かに刀に手をかけた。


 「蘭丸。行け」


 蘭丸は迷った。しかし、信長の目は、彼に選択の余地を与えなかった。

 蘭丸は信長に一礼し、走り出した。彼の脳裏には、信長の最後の言葉と、掌に残る練り切りの感触が焼き付いていた。


 蘭丸が寺の裏口から抜け出し、振り返った時、本能寺は既に炎に包まれていた。

 炎は夜空を赤く染め上げ、信長の最期を告げるかのようだった。


 数年後。天下は豊臣秀吉の手にあった。

京の片隅で、小さな菓子屋がひっそりと暖簾を掲げていた。

 店の名は、「甘月庵」。その店の主人は、どこか憂いを帯びた目をした、しかし芯の強そうな男だった。


 彼の作る菓子は、どれも上品な甘さで、特に「本能の月」と名付けられた練り切りは、京の都で評判となっていた。


 ある日、店に一人の老武士が訪れた。彼は、店の主人の顔を見て、はっと息を呑んだ。


 「お、お主は……蘭丸殿ではござらぬか!」


 老武士は、かつて信長の家臣であった者だった。蘭丸は静かに微笑んだ。


 「ご無沙汰しております。今は、蘭丸ではございません。この店の主でございます」


 老武士は蘭丸の前に並べられた「本能の月」をじっと見つめた。

 その練り切りは、あの夜、信長が口にした菓子と寸分違わぬ姿をしていた。


 「この菓子は……」


 老武士の声が震えた。

 蘭丸は静かに答えた。


 「これは、亡き殿から託された、本能寺の甘味でございます」


 老武士は涙を浮かべながら、その練り切りを手に取った。

 一口食べると、甘さが口いっぱいに広がり、そして微かな苦みが追いかけてきた。


 その味は、彼らの心に深く刻まれた、あの悲劇の夜を呼び覚ますかのようだった。

 蘭丸は、信長から託された味を、そして彼の無念を、この菓子に込めていた。


 


 彼の菓子は、歴史の闇に消え去った信長の、最後の願いを伝える甘い証として、静かに京の都に生き続けていた。


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