NO30:電脳街の闇鍋屋
薄暗い裏路地、ひしめき合う雑居ビルの一角に、「闇鍋屋」とだけ書かれた提灯が揺れていた。
電脳都市<サイバーネティカ>では、すべての情報が巨大企業<クロノス・インダストリーズ>によって統制され、人々の生活はデータで管理されていた。
街中に張り巡らされた監視網の目を掻い潜り、この店にたどり着く者は限られていた。
今日の客は、細身の青年、ユタカだ。彼は、<クロノス>のデータセンターで働くプログラマーだが、密かに真実を求めていた。
店の扉を開けると、土鍋から立ち上る湯気と、香ばしい出汁の匂いが彼を包み込む。
店内はカウンター席がいくつかあるだけの狭い空間で、中央に置かれた大きな土鍋がぼんやりと光を放っていた。
「いらっしゃい」
低い声が響いた。店主は顔の半分を布で覆った、年齢不詳の男だ。
彼の目は鋭く、この街のあらゆる嘘を見抜いているようだった。
「いつもの、お願いします」
ユタカは震える声で言った。
店主は無言で頷き、お玉で土鍋の中をかき混ぜた。
「今日の具材は、特別だ」
ユタカはごくりと唾を飲み込んだ。この店が特別なのは、提供される「食材」が、<クロノス>によって厳しく管理されたデータ上の食料ではなく、出自不明の「本物」だからだ。
それは、味覚だけでなく、忘れていた感情まで呼び覚ます力があった。
店主が取り出したのは、見たこともない、鮮やかな緑色の葉野菜だった。
「これは、かつて『ほうれん草』と呼ばれたものだ。土の恵みをいっぱいに吸い込んでいる」
土――ユタカの世代では、絵本の中でしか見たことのない響きだ。
彼は箸でその葉をつまみ、口に運んだ。シャキッとした歯ごたえ、口いっぱいに広がる豊かな土の香り。
データ化された食料では決して味わえない、生の感覚が彼の全身を駆け巡った。
「うまい……!」
ユタカは思わず声を上げた。その声は、感動と、そして微かな悲しみに満ちていた。
「どうした?」
店主が問いかけた。
「僕たちは……こんなにも偽物の世界で生きてきたんですね」
ユタカの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「この味が、あまりにも本当すぎて、自分が今まで何を食べてきたのか、わからなくなりました」
店主は静かにユタカを見つめ、別の具材を鍋から取り出した。
それは、不揃いな形をした、茶色い塊だった。
「これは『じゃがいも』だ。泥の中から掘り出される」
ユタカはそれを受け取り、ゆっくりと口に入れた。ホクホクとした食感、素朴でありながら奥深い甘み。
それは、彼が<クロノス>のデータセンターで見た、過去の映像記録に映っていた「笑顔」と重なった。
人々が、偽りなく笑い、共に食卓を囲む姿。
「店主さん、どうしてこんなものが手に入るんですか?」
ユタカは抑えきれない好奇心をぶつけた。
店主は土鍋の湯気を眺めながら、ゆっくりと口を開いた。
「この街の外には、まだ、<クロノス>の目が届かない場所がある。そこから、運び込まれてくるんだ」
「街の外……!」
ユタカの心臓が大きく跳ねた。
それは、<クロノス>のプロパガンダでは荒廃し、人間が住めなくなったとされていた場所だ。
「真実を求める者には、真実の糧が必要だ」
店主は静かに言った。
「そして、真実の糧は、真実の場所からしか生まれない」
その夜、ユタカは店を出て、見慣れた電脳都市の明かりを見上げた。
しかし、彼の目に映るものは、以前とは違っていた。華やかなネオンサインも、効率化されたデータも、すべてが薄っぺらい虚像に見えた。
彼の脳裏には、闇鍋屋で味わった「本物の味」と、店主の言葉が深く刻まれていた。
数日後、ユタカは<クロノス>のデータセンターで、ある極秘ファイルを発見した。
それは、街の外に広がる豊かな自然と、そこに生きる人々の記録だった。
そして、その記録の最後に、一つの座標が記されていた。闇鍋屋の店主が言っていた、「真実の場所」を示す座標だ。
ユタカは、闇鍋屋の扉を再び叩いた。
「店主さん」
ユタカは決意に満ちた目で言った。
「僕は、この街を出ます。真実の場所へ行きます」
店主は何も言わず、ただ静かに頷いた。そして、いつものように、土鍋から特別な具材を取り出した。
それは、これまでで一番、色鮮やかな野菜だった。
「これは『トマト』だ。太陽の光をたっぷり浴びている」
ユタカはそのトマトを口に含んだ。弾けるような酸味と甘み、そして、言いようのない温かさ。
それは、まるで、彼が進むべき未来を照らす光のようだった。
「ありがとう、店主さん」
ユタカは深く頭を下げ、闇鍋屋を後にした。彼の足取りは軽く、顔には希望に満ちた笑みが浮かんでいた。
電脳都市の裏路地に、小さな光が灯った瞬間だった。
そして、それは、決して<クロノス>には制御できない、新たな抵抗の始まりだった。




