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NO3:塹壕のポトフ

 1944年、冬。フランス北部、霧の立ち込める戦場。泥に塗れた塹壕の奥で、ルイ兵長は錆びた鍋に湯を沸かしていた。


「今日は、人間らしい夜にしたいもんだな」


 彼はそう呟き、懐から乾いたパンくずと、一片の人参、塩漬けの牛肉を取り出した。

 仲間たちは火のまわりに集まり、肩を寄せ合ってその様子を見つめている。

 弾丸が飛び交う昼の顔とは違い、夜の塹壕には、わずかな安堵と希望があった。


 「それ……ポトフか?」


 若いアンドレが訊く。まだ十八歳の、母親の手紙を肌身離さず持ち歩く少年兵だ。


 「正確には“なんちゃってポトフ”さ。でも、心が温まれば本物だろ?」


 くつくつと鍋が音を立てはじめる。兵士たちは無言のまま、その音に耳を澄ませていた。

 まるで故郷の台所にいるような錯覚。寒さが骨に染みる夜、彼らにとってそれはただのスープ以上の意味を持っていた。


 ルイはスプーンで味を見て、静かに頷いた。


 「出来たぞ。順番にすくってくれ」


 兵士たちは一人ずつ鍋にスプーンを入れ、小さな器にすくい取っていく。アンドレは最初の一口で目を丸くした。


 「……うまい……!嘘みたいに……うまいです、兵長……」


 その言葉に、皆の頬が緩む。誰かが口笛を吹き、誰かが笑った。戦争は終わっていなかった。明日また仲間が一人減るかもしれない。

 それでも今夜だけは、人間として過ごせる夜だった。


 ポトフの湯気の向こうに、母の笑顔を思い出す者もいた。恋人の面影をなぞる者もいた。

 塹壕の中で、確かに何かが溶けていく音がした。心の奥にこびりついた凍てついたものが、ゆっくりと、静かに。


 「ありがとう、兵長」


 アンドレの声は震えていたが、それは寒さのせいではなかった。


 ──銃弾の届かぬ小さな奇跡。

 塹壕の夜に、ポトフが灯した希望の火は、確かにそこにあった。



 夜が更けるにつれ、塹壕の空はいよいよ重く沈みこんできた。月明かりさえ隠れ、聞こえるのは鍋の底をさらう金属音と、時折遠くで響く砲声のみ。


 ルイ兵長は最後に鍋の底をさらい、自分の器に注いだ。


 「まったく……これがパリのレストランなら、星の一つや二つ、取れるな」


 そう言って笑うと、皆が一斉に笑った。塹壕の中での笑いは、乾いた空気に染み渡るように心地よかった。

 だが、そんな一瞬のぬくもりにも終わりはある。


 突然、塹壕の端にいた見張りの兵士が叫んだ。


 「光弾!敵だ、伏せろ!」


 空に白い閃光が走り、静寂は一瞬で破られた。機関銃の音が、空腹の獣のように唸り声をあげる。


 アンドレが振り返ったとき、ルイ兵長はすでに立ち上がっていた。


 「アンドレ、火を消せ!鍋を蹴れ、煙が出る!」


 「でも、兵長――!」


 「命を守れ。それが命令だ!」


 ルイはアンドレを突き飛ばすようにして塹壕の壁際に伏せさせ、自分は逆方向に走った。

 敵の照明弾の光に、兵長の姿が白く浮かび上がる。それはほんの数秒の出来事だった。


 銃声。短く、乾いた音。


 そしてまた、静寂。


 数分後、敵は去った。砲火のあとに残ったのは、崩れた土と、ひとつの鍋。そして──ルイ兵長の遺体だった。


 胸を撃たれた彼の手には、小さな木製のスプーンが握られていた。最後の一口を味わうように。


 アンドレは震える手で鍋を抱き上げた。もう中身は空だったが、彼にはその湯気がまだ見える気がした。

 塹壕の寒さの中で、それは確かに、温かかった。



 数日後、戦線が動き、彼らの部隊は別の地点へと移動することになった。

 出発前夜、アンドレは小さな木箱に何かを詰め、土に埋めた。

 それはルイ兵長のスプーンだった。泥と血のついたそれを、彼は白い布にくるんでいた。


 ──また、いつかこの場所で、人間らしく食事ができる日が来るように。


 そう願いを込めて。







 終戦から十年後。

 一人の男が、かつての戦地を訪れた。草に覆われた塹壕跡を前に、彼は静かにスコップを取り出す。そして、ある一点を掘り返した。


 出てきたのは、古びた木箱。その中には、今もなお温もりを秘めたような、あのスプーンが眠っていた。


 男はそっとそれを手に取ると、微笑んだ。


 「ただいま、兵長」


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