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NO29:忘れられた戦場の味


 焦げ付いた油の匂いが鼻腔をくすぐった。それは、トウジの脳裏に焼き付いた、忘れられない記憶の断片だった。


 戦場から帰還して三年。日常生活は取り戻したはずなのに、あの日の、あの味だけが、心の奥底にへばりついて離れない。


 「また、あの飯のこと考えてるのかい、トウジ」


 喫茶店のカウンターで新聞を広げていたマスターが、温かいコーヒーカップを差し出しながら声をかけてきた。

 トウジは苦笑いしながら首を振った。


 「ええ、まあ。変な話ですよね。あれだけ地獄みたいな場所だったのに、あの一皿の味だけが、妙に鮮明で」


 マスターは優しい目でトウジを見つめた。


 「人間ってのは不思議なもんだね。どんな過酷な状況でも、小さな希望を見つけようとする。それが、食だったってことだろう」


 トウジが求めているのは、戦場で仲間と分け合った「ブッシュミートの煮込み」だった。

 いや、正確にはブッシュミートではなかった。手に入った獣肉を適当に煮込んだ、名もないごった煮。


 だが、あの味は、恐怖と隣り合わせの日々の中で唯一、トウジと仲間たちに安らぎを与えてくれた。

 トウジは軍を退役後、いくつかの職を転々としたが、どれも長続きしなかった。


 夜になるとフラッシュバックに襲われ、食欲もわかない日もあった。

 そんなトウジを支えていたのは、あの「味」への渇望だった。


 ある日、トウジは古い手帳を開いた。そこには、戦場で出会った料理好きの兵士、ケンジが書き残した、あの煮込みのレシピらしきメモがあった。


 走り書きで、判読しにくい部分も多かったが、それでもトウジは希望を見出した。

 

 「これだ……。これを再現できれば……」


 トウジは貯金をはたき、旅に出た。ケンジの故郷であるという、九州の小さな町を目指して。


 ケンジの実家は、昔ながらの小さな食堂だった。トウジが恐る恐る引き戸を開けると、香ばしい出汁の匂いが店いっぱに広がっていた。


 「いらっしゃい!」


 奥から出てきたのは、白髪交じりの優しそうな老婦人だった。ケンジの母親だとすぐにわかった。

 トウジは自己紹介をし、ケンジが戦場で亡くなったことを伝えた。老婦人の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。


 「ケンジが……ケンジが……」


 老婦人は泣きながらも、トウジを店に招き入れた。トウジはケンジが残したレシピを見せ、あの煮込みのことを尋ねた。


 「ああ、あれはケンジがよく作ってた『まかない』だよ。店で余った野菜とか、肉の切れ端とか、何でも放り込んでね。ケンジはよく言ってたね。『どんなもんでも、愛情込めて煮込めば美味くなる』って」


 トウジは胸が締め付けられる思いだった。あの煮込みには、ケンジのそんな温かい思いが込められていたのか。


 「あの……もし差し支えなければ、その『まかない』を作っていただけませんか?」


 トウジの懇願に、老婦人は快く応じてくれた。厨房に入っていく老婦人の背中を見つめながら、トウジは戦場の光景を思い出していた。


 「おい、トウジ! これ食ってみろよ。今日のは自信作だぜ!」


 薄汚れた野戦服を着たケンジが、アルミの皿に盛られた煮込みを差し出してきた。

 土埃にまみれた顔に、泥だらけの手。それでも、ケンジの笑顔はいつも明るかった。


 「お前、本当にこんなとこで料理人やってるみてえだな」


 トウジは冗談めかして言った。


 「ははっ、まあな。でもな、トウジ。飯ってのは、どんな時だって大事なんだよ。特にこんな場所じゃ、美味い飯食って、少しでも元気出さなきゃやってらんねえだろ?」


 あの日の煮込みは、獣臭くて、決して美味いとは言えなかったかもしれない。

 それでも、仲間と分け合う温かさと、ケンジの優しい笑顔が、あの味を忘れられないものにしていた。


 「さあ、できたよ」


 老婦人が差し出したのは、素朴な土鍋に盛られた煮込みだった。

 湯気からは、懐かしい、そして少し寂しい香りがした。

 トウジは一口、ゆっくりと口に運んだ。


 「これは……」


 味が、違う。確かにケンジのレシピ通りに作られているのだろう。

 しかし、あの戦場で食べた煮込みとは、どこか違う。


 老婦人はトウジの表情を見て、優しく言った。


 「あのね、トウジさん。同じレシピでも、作る人や、食べる場所、その時の気持ちで、味は変わるものなんだよ。ケンジの『まかない』は、ケンジが家族を思って、この店で毎日作ってた味。そして、あなたが戦場で食べたのは、ケンジが仲間を思って、命がけで作ってくれた味。きっと、同じものにはならないわ」


 トウジはハッとした。自分が求めていたのは、あの味そのものではなく、あの味と共にあった「記憶」と「感情」だったのだ。


 恐怖の中で仲間と分かち合った安らぎ、ケンジの優しさ、そして失われた日常。

 それらが全て合わさって、「忘れられない戦場の味」となっていたのだ。


 トウジは静かに涙を流した。それは、後悔や悲しみだけではない、温かい涙だった。


 「おばさん……ありがとうございます。俺、やっとわかりました。俺が求めてたのは、味だけじゃなかったんだって」


 トウジは、残りの煮込みをゆっくりと味わった。それは、戦場で食べた味とは違うけれど、ケンジの温かさが確かに感じられる、優しい味だった。


 そして、その味は、トウジの心の奥底に深く沈んでいた、PTSDという名の重い鎖を、少しだけ緩めてくれたような気がした。


 食堂を出る頃には、雨が上がっていた。空には、うっすらと虹がかかっていた。トウジは、ケンジの故郷で、ようやく心の整理をつけることができた。




 彼が探していたのは、単なる料理の味ではなかった。それは、過去と向き合い、未来へと歩き出すための、大切な記憶の再生だったのだ。


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