NO2:浪人侍飯
秋の夕暮れ、冷たい風が江戸の裏路地を吹き抜ける。
かつては立派な扶持を得ていた侍、佐々木平太は、今や浪人だ。
主君の家が取り潰され、刀一本と腹の虫だけが彼の伴だった。
平太は長屋の軒先で、握り潰した米粒を眺める。
昨日、顔見知りの商人から
「腹が鳴ってるぜ」
と笑われ、米一合を恵まれたのだ。だが、火を熾す薪も、鍋も持たぬ。
空腹は我慢できるが、腹の音は我慢できぬ。
「ちっ、侍が飯ごときで右往左往とは」
と呟きつつ、平太は米を懐にしまい、路地を歩き出した。目指すは「飯屋おまつ」。
年季の入った暖簾と、漂う味噌の香りが、腹をさらに唸らせる。
店に入ると、女将のおまつが鍋をかき回しながら言った。
「おや、平太さん。顔がまた細くなったね。金は?」
「米ならある」
と平太は懐から米を見せる。おまつは目を細め、「それでいい。貸しにしとくよ」と笑った。
彼女は浪人の懐事情を察し、時折こうして米や労働で飯を食わせてくれるのだ。
おまつは平太の米を釜に放り込み、味噌汁に干し魚を加えた。
やがて、湯気の立つ飯と汁が平太の前に置かれる。飯粒はつやつやと輝き、味噌の香りが鼻をくすぐる。
平太は箸を取り、まず一口。
「……うまい」
言葉はそれだけだった。米の一粒一粒が、腹の底に染み入る。
味噌汁の塩気が、干し魚の旨味が、まるで生きる力を注ぎ込むようだ。
平太は無言で箸を動かし、瞬く間に茶碗を空にした。
「そんな急いで食べたら。お腹壊しますよ」
とおまつが笑う。だが、平太の目はどこか遠くを見ていた。
飯を食うたび、かつての主君との宴が脳裏に浮かぶ。あの頃は、腹を満たすことに悩むことなどなかった。
「平太さん、あんたさ、なんでまだ江戸にいるの?」
おまつが唐突に問う。
「田舎に帰れば、百姓でもなんでも生きていけるだろうに」
平太は茶碗を置き、答えた。
「侍だからだ。刀を捨てちまえば、ただの男だ。それが嫌なんだ」
おまつは鼻で笑う。
「刀より飯でっしゃろ?腹が空いてりゃ、侍も百姓もねえよ」
その言葉に、平太は一瞬言葉を詰まらせた。だが、反論はせず、ただ味噌汁を啜った。
翌日、平太は再びおまつの店に現れた。手に持つのは、薪の束だ。
「これで飯、食わせてくれ」
おまつは驚きつつも、「へえ、働き者になったじゃねえか」と薪を受け取る。
平太は店の裏で薪を割り、釜の火を整えた。汗を流し、飯を食う。その繰り返しが、いつしか平太の日常になった。
ある日、店に荒々しい足音が響く。地回りのやくざが、用心棒代をせびりに来たのだ。おまつが断ると、男たちは刀を抜き、店を荒らし始めた。
平太は黙って立ち上がる。腰の刀に手をかけた瞬間、おまつが叫んだ。
「平太! やめな!」
だが、平太は刀を抜かず、薪割り用の斧を手に取った。
「お前ら、飯屋を荒らす気か?」
その眼光に、男たちはたじろぐ。平太は斧を振り上げ、店の柱に叩きつけた。
木が裂ける音に、男たちは逃げ出した。
騒ぎが収まり、おまつが言った。
「あんた、刀使わなかったね」
「飯屋で血は流せねえ。飯が不味くなる」
と平太は笑った。おまつも笑い、茶碗に山盛りの飯をよそった。
「今日は貸しなしだ。食いな」
平太は飯を口に運びながら思う。侍であることは、刀を振るうことだけではないのかもしれない。
腹を満たし、誰かを守り、生きていく。それもまた、侍の道なのではないか。
夕陽が長屋を染める中、平太は空の茶碗を手に、静かに微笑んだ。




