NO14:銃声とスープのあいだで
小隊は壊滅状態だった。泥と血にまみれた塹壕の底で、俺は凍える体を震わせながら膝を抱えていた。
遠くで機関銃の音が断続的に響き、時折、唸るような砲弾の飛来音が頭上を掠めては、近くで土煙を上げる。
ここがどこなのか、もうとっくに感覚は麻痺していた。
ただ、生きていること、それだけが現実だった。飢えと渇きがひどく、喉はカラカラに乾いていた。
何日まともに食事を口にしていないだろう。胃袋が痛むほどだった。
「おい、アキラ」
掠れた声に顔を上げると、そこにいたのはジョンだった。
彼もまた、顔を煤で汚し、疲弊しきった顔で俺を見ていた。
その手には、使い古された水筒と、小さな携行用ストーブが握られている。
彼の目は、いつもは陽気な光を宿しているはずなのに、今は深く窪んでいて、その奥には底知れない疲労が滲んでいた。
「まだ諦めてねぇのか、それ」
俺がそう言うと、ジョンは小さく笑った。その笑みは、ひどく乾いていた。
「馬鹿言うなよ。こんな時だからこそだろ。温かいモン、食いてぇんだよ。この寒さじゃ、凍え死んじまう」
ジョンは、いつもそうだった。
どんな絶望的な状況でも、小さな希望を見つけ出し、それにしがみつく。
俺たちがここに来てから、何度彼のその楽天的な態度に救われたか分からない。
彼は近くにあった水たまりから、泥水すれすれの水をすくってストーブに乗せた。
どこから手に入れたのか、ボロボロのバックパックから取り出したのは、インスタントのチキンヌードルスープの袋だった。
「奇跡だろ?こんなもん、よく持ってたな。最後の一個なんだぜ」
ジョンは無邪気に笑った。その笑顔の裏には、かすかな興奮と、同時に、それが最後の望みであるかのような切なさが混じり合っていた。
俺はただ黙ってその作業を見ていた。銃声がひっきりなしに聞こえる中で、コンロの小さな炎が揺れる。
その光景は、あまりにも現実離れしていて、まるで夢の中の出来事のようだった。
戦場の喧騒の中で、小さな炎が発する暖かさが、唯一の現実感を伴っていた。
「なぁ、アキラ。故郷のスープ、覚えてるか?」
ジョンが尋ねた。彼の声は、遠い記憶を辿るように、どこか寂しげだった。
「ああ……」
俺の脳裏に、母が作ってくれた味噌汁の湯気が浮かんだ。あの温かさ、あの味。
遠い日の記憶が、この凍てつく戦場で、なぜか鮮明に蘇った。
「俺はな、ママが作ってくれたクラムチャウダーが忘れられねぇんだ。あの、クリーミーで濃厚な味わいと、ゴロゴロ入ったアサリ。それに、焼きたてのサワードウブレッドを浸して食うんだ。最高だぜ。帰ったらさ、たらふく食ってやるんだ。たぶん、一週間はクラムチャウダー漬けだな!」
ジョンはそう言って、目を細めた。その瞳には、故郷への強い憧れと、わずかながらも未来への希望が宿っていた。
彼の故郷の町の風景、賑やかな港の市場、そして何よりも家族の笑顔が、その目に浮かんでいるようだった。
やがて、小さな鍋から白い湯気が立ち上り始めた。チキンヌードルスープの、あの独特の香りが、血と硝煙の匂いが混じり合う空気に、わずかながらも温かい彩りを与えていく。
グツグツと音を立てるスープの泡が、まるで命の鼓動のように見えた。
ジョンは慎重にスープをカップに注ぎ、まず俺に差し出した。
「ほら、アキラ。先に飲めよ。お前、顔色悪いぞ」
俺は震える手でそれを受け取った。温かいカップの感触が、凍り付いた指先にじんわりと染み渡る。
湯気で曇る視界の向こうで、ジョンの優しい目が俺を見ていた。一口飲むと、舌の上に広がる優しい塩気と、チキンブイヨンのコク、そして細いヌードルの柔らかい食感が、体の奥底まで染み込んでいくようだった。
この瞬間だけは、銃声も、死の恐怖も、飢えも、すべてが遠のいていくようだった。
俺はゆっくりと、まるでこの一口が永遠に続くかのように、スープを味わった。
「うまいだろ?これ、向こうじゃ風邪引いた時とかに飲むんだぜ。体があったまるんだ」
ジョンが満足げに笑った。俺はただ頷くことしかできなかった。
心臓が、久しぶりに暖かさを取り戻したように、ゆっくりと鼓動を打つのがわかった。
俺がカップの半分ほどを飲み終えた頃、ジョンは自分の分をカップに注ぎ始めた。
彼の顔には、ようやく安堵の表情が浮かんでいた。あと少しで、彼もこの温かいスープにありつける。
そう思った、その時だった。
「伏せろっ!」
誰かの叫び声が響いた。それは、聞き慣れた戦友の声だった。
直後、凄まじい爆音が耳をつんざき、地面が激しく揺れた。俺は反射的に地面に伏せた。
土煙が舞い上がり、視界を遮る。体が浮き上がるような衝撃に襲われ、意識が遠のきかけた。爆風が俺の体を吹き飛ばすように感じた。
頭上を瓦礫が飛び交う音が聞こえ、耳元で何かが破裂するような音がした。
どれくらいの時間が経っただろうか。耳鳴りが徐々に引いていく中で、俺はゆっくりと顔を上げた。全身が痛み、手足の感覚が鈍かった。
目の前には、信じられない光景が広がっていた。ジョンが、そこに横たわっていた。
彼の体は、原型を留めていなかった。爆発の衝撃が、彼を直撃したようだった。
カップは無残に砕け散り、温かいはずのチキンヌードルスープが、冷たい泥の中に染み込んでいく。
「ジョン……?」
俺は震える声で彼の名を呼んだ。返事はなかった。彼の瞳は、虚ろに空を見上げていた。
その顔には、先ほどまで浮かべていた優しい笑顔が、凍り付いたように残っていた。
彼の指先が、空を掴むようにわずかに開いていた。まるで、最後に何かを掴もうとしていたかのように。
俺は、彼の傍らに転がっていた、まだ湯気の立つカップの破片を拾い上げた。
その中には、飲みかけのチキンヌードルスープが、わずかに残っていた。
ジョンが、最後に口にしようとしていた、温かいスープ。それは、まるで彼の最後の希望の断片のように、俺の掌の中で冷たくなっていく。
再び、遠くで銃声が響く。しかし、もう俺には何も聞こえなかった。
ただ、目の前の泥の中に広がる赤い染みと、冷たくなったチキンヌードルスープの残骸だけが、俺の網膜に焼き付いていた。
俺は彼の傍らに座り込み、その冷たい手を取った。彼の体から、少しずつ温かさが失われていくのが分かった。
戦場の片隅で沸かされた、命の合間の小さな温もりは、あっけなく、無慈悲に、奪い去られた。俺の胸には、絶望だけが、深く、深く、刻み込まれた。
そして、二度と故郷の味噌汁を飲むことも、ジョンのクラムチャウダーの夢を聞くこともないのだと、冷たい現実に打ちのめされた。