NO10:冷凍惑星の煮込み時間
氷結星の砦に、最後の補給便が届いた。薄暗い通路を、軋む音を立てながら運ばれてきた段ボール箱の山。
中身はきっと、味気ない栄養チューブと、古びたバッテリーだろう。
開ける前からわかっていた。この惑星に派遣されて二年。俺たち調査隊が見つけたのは、分厚い氷に覆われた大地と、生命の痕跡が一切ない絶望的な静寂だけだった。
「隊長、来ましたぜ。最後のやつです」
若い隊員、ジークがそう言って、埃っぽい箱の一つを足で軽く蹴る。
彼もまた、希望を失いつつある一人だ。最初の頃は、どんな小さな発見にも目を輝かせ、未来を語っていたのに。
俺はゆっくりと立ち上がり、箱に近づいた。いつも通りの梱包を解いていくと、予想通りの光景が広がる。
だが、その中に一つだけ、異質なものがあった。
「なんだ、これ?」
透明な瓶に入った、真っ赤な液体。ラベルには見慣れない地球の文字で「トマトソース」と書かれている。
俺たちの凍えきった視線が、一斉にその瓶に集まった。
「トマトソース? なんでこんなもんが……」
ジークが呆れたように呟く。
「補給部隊のミスか?」
ベテランのミナが眉をひそめる。彼女はいつも冷静沈着で、感情を表に出さないタイプだったが、その声には微かな動揺が混じっていた。
俺は瓶を手に取り、じっと見つめた。ずっしりとした重み。瓶越しに、赤々と輝くソースが誘惑するように俺たちを見つめている気がした。
「食べるのか、隊長?」
ジークが唾を飲み込む。
俺は一言も発さず、調理スペースへと向かった。そこにあるのは、インスタント食品を温めるための簡素なコンロだけだ。
だが、俺は持ってきたソースを無駄にするつもりはなかった。
「まさか、本気で煮込むつもりですか?」
ミナが信じられないといった顔で問う。
「ああ」
俺は短く答えた。
「どうせ最後の補給便だ。栄養チューブだけであと数ヶ月、耐えるよりはマシだろう」
鍋に水を張り、凍った保存食のブロックをいくつか入れた。
それから、大事に持っていた瓶の蓋を開ける。トマトの甘酸っぱい香りが、凍てつく空気に一瞬、温かい彩りを添えた。
「うわぁ……いい匂い」
ジークが思わず声を漏らす。
ミナもまた、目を閉じてその香りを吸い込んでいるようだった。
ソースを鍋に投入する。赤が白い氷に溶け合い、鍋の中でゆっくりと混ざり合っていく。
ぐつぐつと煮え立つ音。普段、耳にするのは風の唸り声と機械音ばかりだったから、この音さえも新鮮だった。
「ねぇ、隊長」
ジークが遠慮がちに話しかけてきた。
「地球にいた頃、トマトソースってどんな風に食べてました?」
俺は鍋をかき混ぜながら、遠い昔を思い出した。
「パスタにかけるのが定番だったな。あとは、肉を煮込んだり、パンにつけたり……」
「肉の煮込み、ですか」
ミナが静かに呟いた。
「温かくて、美味しそうですね」
その言葉に、俺たちの頭にそれぞれの故郷の食卓が浮かんだ。
温かい家、家族の笑顔、そして、湯気の立つ料理。ここでは決して味わえない、忘れかけていた記憶だ。
「俺、子供の頃、母ちゃんがよくトマトソースでオムライス作ってくれたっけ……」
ジークの声が震えた。
「甘くて、フワフワで……」
ミナは俯いて、何も言わなかったが、その肩が微かに震えているのが見えた。
やがて、煮込みは完成した。見た目は決して豪華ではない。
凍った保存食と、真っ赤なトマトソースが混ざり合っただけの、どろりとした塊。
だが、その湯気からは、今まで嗅いだことのないような、温かく、懐かしい香りが漂っていた。
俺はそれぞれの食器に煮込みをよそった。
「さあ、食うか」
躊躇しながらも、ジークが一口、口にした。彼の表情が、驚きから、そして、ゆっくりと喜びへと変わっていく。
「う、美味い……!」
ミナもまた、恐る恐る一口食べる。そして、彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「こんな……こんな美味しいもの、何年ぶりだろう……」
俺も一口、煮込みを口に運んだ。酸味と甘みが混じり合い、口の中に広がる温かさ。
それは、ただのトマトソースの味ではなかった。そこには、地球の太陽の光が、家族の温かさが、そして、生きる喜びが凝縮されているようだった。
凍えきった体と心に、じわりと温かいものが染み渡る。たった一瓶のトマトソースが、俺たちの心を解き放ち、忘れかけていた人間らしさを取り戻させてくれた。
「これ、本当に最後の補給便なんですかね?」
ジークが煮込みをかき込みながら言った。
「もし、これが最後の補給便じゃないとしたら、もっと色々なものを送ってくれるのかな?」
ミナは涙を拭い、小さく笑った。
「そうね。例えば、採れたての野菜とか、焼きたてのパンとか……」
俺たちは無言で煮込みを食べ続けた。その間、誰もが故郷の景色を思い浮かべ、温かい記憶に浸っていた。
この冷凍惑星の、孤独な砦で、たった一瓶のトマトソースが、俺たちに最後の、そして最も大切な「希望」を運んできてくれたのだ。
食べ終わった後、ジークが静かに呟いた。
「ねぇ、隊長。俺たち、きっと帰れますよね」
俺は、空になった鍋を見つめ、ゆっくりと頷いた。
「ああ、きっと帰れるさ。そして、温かい家で、また美味いものを食うんだ」
その夜、氷結星の砦は、いつもより少しだけ温かかった。そして、凍てつく闇の向こうに、微かに、地球の光が瞬いているような気がした。最後の補給便が運んできたのは、単なる食料ではなかった。
それは、絶望の中で生きる俺たちに、再び前を向かせ、未来を信じさせるための、ささやかな、そしてかけがえのない「希望の種」だったのだ。