裏切りと信用崩壊
朝霧の立ちこめる小都市ルジェール。
その市場跡に、かつて活気あふれる青果店があった。だが今は、シャッターが下ろされ、看板は白く塗りつぶされている。
「……もう誰も、カラス商会と取引しようとしない」
若い店主が、ぽつりと呟いた。
彼――サム・レティは、かつてカラス商会と共に新流通を担う地方商人だった。
だが今、彼のもとには、アグロス財団からの通知書が届いていた。
《財団系列の市場に参入を希望する者は、誠意ある取引関係を築いてください》
誠意とは――過去の関係を清算すること。
つまり、カラス商会との絶縁。
「ごめんな……誠司さん」
サムは震える手で、契約解除届を封筒に入れた。
それが、信頼の鎖を切り裂く、第一通となるとも知らずに――
<王都・カラス商会支部>
「……やられました。ルジェール、レベック、ヴァルナ、各地方支店すべて撤退です」
ミリアの声が震える。
「バイヤーたちが、突然全員いなくなったんです。連絡も取れません……!」
「販売委託商品の回収も、物流の中断で遅れています」
カルロが続ける。
「現地に在庫が残っている状態で資金が凍結……つまり、回収も再販もできず、ただ損になる」
セイジは、無言で机の上に並べられた書簡を見つめる。
すべて、信頼していた地方商人たちからの離反の報告。
「……これは、完全な包囲網だ」
バルトが吐き捨てるように言った。
「ザカリーのやり口だ。契約の文言を突き、法の隙間から相手の生活を揺さぶってくる」
「しかも今回は法を使ってない。人の心を使ってきた」
セイジは、背もたれに深く体を預ける。
「彼らが裏切ったのは、金のためじゃない。未来の見通しが揺らいだからだ」
《信用は期待値であり、信頼は習慣だ》
セイジがよく使う言葉だ。だが今、それは真逆に作用していた。
彼らは、《アグロス財団》が勝つ未来を信じてしまったのだ。
<王女の訪問>
その夜、王都支部にセシリア王女が姿を現した。
「……顔色が悪いわね、セイジ」
「まあ。ボロ負けですから」
苦笑いで応じたセイジに、セシリアは無言で小さな革鞄を差し出した。
「それは?」
「王宮の預託資産よ。信用保証型通貨の裏付けに使って」
セイジは目を見開く。
「……本気ですか?」
「本気じゃなきゃ、あなたみたいな人を保護しないわ。私は、この国が変わる可能性に賭けたのよ」
それはつまり、王室という最大の信用を、紙幣に担保するということだ。
セイジは深く息を吐いた。
「……ありがとう。でも、これを使っても、流通が無ければ意味がない。通貨は市場をめぐってこそ価値が生まれる」
「じゃあ、回す方法を探せばいい……私たちなら、できるでしょ?」
セシリアの笑みには、ただの励ましではない、政略家としての意志が宿っていた。
<密談:闇の仲介人>
その夜、セイジはある一人の人物と密かに接触していた。
「久しいわね、カラスの坊や」
ヴィスカ。
《影の商会》の女主人。
「合法な市場から締め出されたなら、非合法な市場へ行くしかない。そうでしょ?」
ヴィスカは指を鳴らすと、部屋の奥から数枚の地図を取り出す。
「ここ。スラム街、無認可市場、港湾裏ルート……見えない市場よ。誰も統計に乗せない、でも物は動いてる」
「……闇市に流通を?」
「それが嫌なら、どうする? このまま破滅する?」
セイジは静かに、ヴィスカの目を見据えた。
「取引条件を出してくれ。裏切らないことを前提に話をする気はない」
「ふふ……おもしろい。じゃあ、こうしましょう」
ヴィスカは笑みを深める。
「この取引で得た利益の三割。あと、流通情報はうちに優先的に開示。……それが、裏切りの抑止力になると思わない?」
セイジはしばし沈黙したあと、右手を差し出した。
「成立だ。これは――相互不信による共存だな」
「そうよ。信じられない者同士だからこそ、均衡が取れるのよ」
握手のあと、ヴィスカはぽつりと呟いた。
「……でも忘れないで。信じられる世界に変えたければ、その最初の一歩は、あなたが踏み出すしかないのよ」
<再始動>
三日後、王都に突如として出現した新たな露店群――
それは《カラス商会》が主導する流通回廊だった。
正式な市場には入れない。
しかし、彼らの紙幣は使えた。
貧民街、スラム、浮浪者、商人崩れたちが、真っ先にそれを受け入れた。
なぜなら彼らには、他に選択肢がなかったからだ。
紙幣には、こう書かれていた。
「この紙は、未来を担保する」