期待
移動すること、約一時間。
二人はトラックを置いて、薄暗い路地裏へ足を踏み入れた。
黎人は左肩の痛みゆえ、汗を滲ませ、小刻みに口呼吸をしていた。
「あの、ここのどこに病院が?」
柊花は、路地裏の気味の悪い雰囲気に圧倒されながらも尋ねた。
「もうすぐだよ」
黎人の声からは、余裕が薄れつつあった。高温で焼かれたために多量出血を心配する必要は無いが、不快な痛みが継続するというのは、想像以上に精神を疲弊させた。
そんな黎人は、看板も何も出していないボロボロの建物に、迷いなく入っていった。
「ここ、入ってもいいんですか?」
そんな声に振り返ってみれば、柊花が尻込みしていた。
黎人はそんな柊花に、「いいんだよ」と若干威圧的な口調で言った。
建物内をずんずん進んでいく黎人と、その後ろを腰が引けた姿勢で着いていく柊花。廊下らしき区間を通り過ぎると、その奥には扉があった。扉は完全には締め切っておらず、空いた隙間から光が漏れ出ていた。人がいる、という証だった。
それを確認し、黎人は安堵の息をついた。
扉を開いた。漏れ出ていた光の光源は、デスクライトだった。そして、そこにはデスクチェアに腰掛けた、白衣を着た屈強なスキンヘッドの男がいた。彼を一目見た者は、趣味かなんかで白衣を着ている、公には言えない裏稼業に手を染めた危険人物だと思うだろう。だから、彼が医者であることを知っている黎人は、何度も彼の世話になっているということになる。
「おいおいおい、こんな時間に急患かよ」
男は驚愕を露わにしながら、黎人に尋ねた。
「悪いけど、診てくれないか?」
黎人は、白衣の男にそう言った。男は、見かけによらず、怪我人である黎人を丁重に扱った。男は黎人の体を支えながら、診療台まで黎人を運んだ。
黎人は、診療台に横になった。
すると、柊花がおずおずと入室してきた。
「ん?黎人、この嬢ちゃん誰だ?」
考えるまでもなく、柊花のことだろう。「新人だよ」と答えた。
すると今度は、診療台の黎人に駆け寄った柊花が聞いた。
「あの方は誰なんでしょう?」
「九十八秀仁。俺のかかりつけ医」
柊花は、驚きの声を上げた。あの風貌から医者というのは考えられなかったのだろう。
その黎人と柊花の間に、秀仁は割り込んできた。
「お話はその辺にしといてくれ。容態を見たいんでな」
言葉の最後に「悪いな嬢ちゃん」と付け加えた。それに柊花は会釈した。
しばらくして、柊花が口を開いた。
「あの、私、この辺で失礼します」
「一人で大丈夫?少し待っててくれれば送ってくけど」
「いえ、大丈夫です。電車で帰りますので」
勢いよくお辞儀すると、柊花は部屋を飛び出した。その様子を見届けると、傍らから笑い声が聞こえてきた。秀仁が声を殺して笑っていた。
「なんだよ」と棘のある口調で、黎人は言った。
秀仁は、笑いを潜めて、言葉にした。
「いや、お前が軽い感じで話してるのが可笑しくてな」
秀仁が口角を吊り上げて笑う顔は、女子供ならば泣き叫ぶような形相だった。ただ、黎人はそんな秀仁に恐怖を抱くのではなく、反発心を抱いた。
黎人の不満に気づいたかどうかは分からないが、秀仁はその笑いを鎮めた。そして、今度は神妙な面持ちで言った。
「あの嬢ちゃん、お前の仕事を手伝うには生真面目過ぎるな」
生真面目、という言葉の裏には、向いてないという意味合いが含まれているのだろう。
その言葉に黎人はかぶりを振った。
「俺もそう思ってたけど、案外違うかもしれない」
黎人の脳裏には、先ほどの仕事の光景が浮かんでいた。柊花が自らの意志で引き金を引いた、あの光景が。