狂気の理由
親しい人に面と向かって「殺す」と言われた人間はどう振舞うのが正解なのだろう?
殺そうとする方が必死なのだから、それに合わせて過剰反応するのも一興だが、そもそもこちらに殺される理由もないのにつまらぬ脅しに屈するのは不愉快だし、何しろそんな自分の姿を想像すると馬鹿馬鹿しい。
じっと相手の目を見つめ、要求をのむ意思は一切ないと伝えること10分、綾は致命的な傷を負った鹿のように膝を折り、泣き伏した。どうやら俺の振る舞いは満点に近かったらしい。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
人を殺そうとしておいて、許しを乞うとは神経を疑う。あきれて物が言えないとはこの事だ。
「そんなつもりはなかったの」
そう。絶対にそう言うだろうと思っていた。悪意はないと訴える哀れな羊。綾の表情は涙で醜く歪んでいる。
「大丈夫だよ」
口に出した瞬間、頭をつかまれたような不快感が起きる。気まぐれに愛しただけの女に同情の言葉をかけたのは、手元に落ちている包丁を安全な位置に移動させるためにすぎない。綾を椅子に座らせ、義務の延長で話を聞いてやる。
夜マンションの近くで追い回された、男と別れろと電話がかかってきた、無視すれば職場に自分を中傷する手紙が送られてくる、それが毎日のように続き愛されている自信がなくなった、できれば他の女と別れてほしい……
支離滅裂だと思いつつ、ふと疑問がわく。
そこまでする人間に心当たりがない。
だが、綾の携帯の履歴に並ぶ非通知表示を眺めるうち、ある記憶にぶち当たる。
いた。同期で入社した痩せた小柄な女。酒に酔った勢いで一度関係を持った後、しつこくつきまとわれたので警察に相談した。噂が広まるとすぐに会社を辞め姿を消した。
だがまさか。あれはもう3年も前の話だ。なんでいまさら……
背筋に冷たいものが走る。
「ねえ、約束だよ」
思い出した。最後に会ったとき女は笑顔でこう言った。
「わたしのこと忘れたら許さないから」
冬の終わりを告げる雨のなか、ベランダには闇に紛れ、身を小さくしている人影がある。寒さに震え、それでも窓ガラス越しに聞こえてくる男女の諍いを楽しんでいる。なまっちろい腕を懐から出し、どうやらそのときが来たようだ。そこには本物の刃が不気味に光っている。(了)