第14話 王族の血
「お兄ちゃん、調子はどう?」
静かな病室に、一人客人がやって来る。
夏になり、肌を焼く様な日差しをカーテンで遮るも、隙間から射したそれが、ベッドの上で読書をする春香の顔を照らす。
読みかけのページにしおりを挟み、
「もう元気すぎて困るくらいだな」
妹と顔を合わせて本を閉じる。
こうやって、春音が面会にやって来るのは二回目だ。
「そっか、それなら良かった」
そう言って、隣のパイプ椅子に腰を下ろす。
「——でも、四日間も意識がなかったんだから、もうしばらくは大人しくしておかないとね。それに、昨日目が覚めたらばっかりなんだし」
「…そうだな」
未だに、自分が四日間も眠っていたという事実を、春香は受け入れられていなかった。
それだけハイデルとの同化による負荷が大きかったのかも知らないし、魔獣との戦闘で傷つきすぎたのかも知らない。どちらが原因なのかも、そもそもどちらか一方ではなく、その両方が原因となっているのかも分からないが、彼の中になぜか虚無感があるということには変わりない。
(———あれから、ハイデルは呼んでも出て来ない…。いったい何があったんだ…)
目を覚ました昨日の夜。
一人部屋であることを良いことに、ハイデルを呼び出そうと試したが、何度繰り返そうとも、彼がやって来ることはなかった。
そしてもうひとつの気がかりは、あれだけあったはずの切り傷や打撲が一切残っていないということだった。
ハイデルが何か不思議な力で治療し、それによって消失してしまったのかも知らない。などということも考えてみたが、どれだけ仮説を立てても、それを証明する者は誰一人としておらず、ただ虚しい時間を過ごすだけだった。
「それにしても、倒れてるお兄ちゃんを見つけてくれた真白ちゃんには感謝しないとね」
「ああ、そうだな。退院したらお礼を言わないとな」
「……ねぇ、お兄ちゃん」
「どうした?」
「お兄ちゃんってさ、やっぱり強いの?」
「……?」
「ネットで見た。お兄ちゃんが闘ってるところ。血だらけになって、それでも闘って、勝ってた。でもさ、やっぱりすごく怖かった」
春音の声が次第に震え始める。
「こうやって無事に帰って来てもさ、目が覚めなかったらどうしよう…このまま話せなくなったらどうしよう…って、心配になったんだよ…っ」
「そっか。心配かけてごめんな…」
そっと、彼女の頭を撫で「やっぱり春音は反対するか…?」と問う。
「ずるいよ、そんな聞き方するの…っ。私がお兄ちゃんのこと否定する訳ないじゃん…っ」
ついに堪えきれなくなった涙が、雫となって膝の上に落ちる。それは、彼女の履いているジーンズに跡を残して、すっと生地に吸い込まれる。
どれだけ手で拭おうと零れ落ちる涙を前に、春香は静かに「ありがとな」と返した。
そんな春音のポケットの中で、スマホが震える。
「…ごめん、ちょっと電話してくるね」
「ああ、行ってらっしゃい」
部屋を出る前に必死に涙を拭い、瞼を赤く腫らして彼女は外に向かった。
その後ろ姿が見えなくなり、春香は呟く。
「———来い」
何かを期待して、その言葉を口にしたものの、しばらく待っても何も起こらなかった。
「やっぱりそうだよな……」
小さくため息を吐き、天井を仰ぐ。
自分の中にあった何かがすとんと抜け落ちたかの様な感覚がする。それまでは、ないことが当たり前だったはずなのに、いつの間にか、そこにあることが当たり前になっていたものが、大きな穴を開けて消てしまった様な感覚。
先の戦闘を思い出し、自身の無力さを痛感し、その力の一部が抜け落ちたことでさらに虚無感を抱いてしまう。
ベッドに仰向けに寝転ぶと、そのままそっと瞼を下ろして深呼吸した。
すると———。
『お呼びでしょうか、王よ』
「!?」
この一ヶ月間で聞き慣れた声がやって来る。
春香が慌てて上半身を起こして隣を見ると、そこにはハイデルの姿があった。いつもの様に、片膝をついているが、元の巨体のせいかあまり頭の位置が低くなっていない様に見えてしまう。
「ハイデル——!」
『申し訳ございません、王よ。先日の戦闘で魂が傷付き、具現化することが難しくなっておりました』
「そうだったのか…。ところで、そんなに身体が透けてるのもそのせいなのか?」
『恐らくそうでしょう。完全に復活するまでは、もうしばらく時間がかかってしまうかと…』
「戻って来てくれただけでもありがたいさ。お前にもかなり無理させてしまっていたんだな…」
『いえ、私のことはお気になさらないでください。それよりも、貴方様がご無事で何よりです。あれだけあった傷も完全に癒えているご様子で、流石は王の血を引くお方だと』
「王の血…?そう言えば、ずっと俺のことを『王』って呼んでるけど、それと関係があるのか?」
『はい。貴方様の身体には、遥か昔にお亡くなりになった先代の王の血が流れております。それ故に、こうして私の魂を従えることが出来ているのです』
ハイデルの他に、自身のことを『王』と呼ぶ魔獣がいたことを思い出した。
「じゃあ、俺は人間じゃないってことか…?それなら、母さんはどうなるんだ…?」
『いいえ、貴方様は紛れもなく人間です。しかし、お母上は存じ上げませんが、人間の血が混ざっていることは確かです。しかし、それ以外にも何か……恐らく、ヒト族の血が混ざっている様にも感じられました』
「……そうか…。もう、ここまで来ると驚かないと言うか、反応に困るな…」
『それで王よ———』
ハイデルの言葉を遮るかのように、
「お兄ちゃん…っ!!」
扉が開けられ、春音がやって来た。もうすっかり泣き止んでいるようだ。
「どうしたんだ、春音」
『——これは、王の妹君様。お初にお目にかかります、ハイデルと申します』
「……ひぇ…っ」
目の前に魔獣がいる。しかも、兄の過ごしている病室の中。春音は目を丸くし、言葉を失った。
「安心しろ、こいつは味方だ」
「えっ、でも……」
『ご安心ください。私を縛っていた肉体から解放され、今では妹君様の兄上の家臣をさせていただいております』
「へ、へえ…そうなんだ…。お兄ちゃんってさ、時代劇好きなんだっけ?」
「別にそういうのじゃないから安心しろ。——それで、何かあったのか?」
「あっ、そうなんだよ!あのねお兄ちゃん、お母さんが…お母さんが……!」
・ ・ ・
「母さん……」
慌ててやって来た春音が告げたのは、
「お母さんが目を覚ましたの…!!!」
という事実だった。
そして俺は、慌てて支度して病院を抜け出した。
後でちゃんと連絡しないとな…。
そして春音を抱えて、一軒家の屋根の上を駆けてやって来て———母と対面する。
見舞いには何度も来ていたが、こうやって目を合わせるのは何年ぶりなのだろうか。
病室の扉を開けると、そこには技術開発局長の桜井さんの姿がそこにはあった。彼女は振り返り、こちらを確認すると「あら、早かったじゃない。タクシーでも呼んだの?」と言った。
「まぁ、そんなところです」
少し雑に誤魔化し、二人で母の隣に立つ。すると、母さんはほろりと一粒の涙を流した。
「……春香、春音、大きくなったのね。今までずっと心配かけてごめんね…っ。二人とも、今までよく頑張ったね…ありがとう…っ」
目頭が熱くなるが、ぐっと堪えて答える。
「…何も大変なことなんてなかったよ」
「そうだよ、お母さん…っ。おかえり…っ」
「ただいま。私が眠っていた間のこと…二人のこと、これからいっぱい聞かせてね」
「当たり前だよ…。すごーく長くなるから、お母さんもいっぱい聞いててね…っ!」
「ええ、すごーく楽しみにしてるわね…っ!」