モンテレイの散策と二人へのインタヴュー
国境を越えた『私』はしばらく回廊からメキシコの景色を見ていた。実のところこうして足を踏み入れるまでメキシコという国家について『私』はとくにイメージを持っていなかった。
『私』がメキシコと聞いて思い浮かべるのは、麻薬だとか不法移民やカルテルのようなダーティーなものかそうでなければマヤやアステカのような古代文明かそれを植民地化したスペインの文化的遺産、あとはタバスコソースかチワワ犬―もっとも共に名前の由来がメキシコということを雑学として知っているだけでそこがどういう場所なのかは全く分からない―ぐらいのものだ。
そもそも、こうしてメキシコを訪れるきっかけになった逃避行は予定外のもので、本当ならば今頃はまだ行ったことのなかった中西部や深南部、それにワシントンや旧カナダを見ているはずであり、それができなかったことへの悔しさが私の中にはあった。だがその感情は実際にメキシコを見ると吹き飛んだ。『私』はそうした感情を忘れてミゲルにあれこれと聞いたが、暫くして『私』それまで抱いていたものがメキシコという場所を知らなかった事、いわば無知からくるものだったことに気が付いて途端に恥ずかしくなって質問を止め、メキシコの景色を見ることに専念することにしたのだった。急に黙り込んだ『私』をミゲルは奇妙なものを見る目で見てきたが、特に何も言わなかった。
そのような経緯があったとはいえ実際にその景色は興味深かった。
『私』のイメージと違って雑然とした感じはあまりなく、かといって観光のために特別きれいにしているというわけでもなく、人々の生活が感じられた。そんな中で目を引いたのが聳え立つ巨大な塔だった。
「……あの、あれ何ですか?」
「ああ、あれか。あれは太陽の熱で暖められた空気が中を上昇することで発電する発電所らしい。よくは知らん。学がないからな。こうしてみるとただの塔だが出来るときはそりゃ驚いたもんだ。地面からゆっくりと上に向かって伸びてきてな、まるで昔のアメリカ人の映画で見た奇怪な新植物か何かかと思ったよ。デンマークのアクセル-レンナルト-ヴェナー-グレン自動計算機の系列会社が作ったらしいが、あの光景には未来を感じたよ。まぁ、といっても今やここだけじゃなくてメキシコのあちこちで電力不足解決のための自律的な電源としてもてはやされているんだがな」
「太陽熱ですか、確かにメキシコにはぴったりかもしれませんね」
「まぁ、これだけの太陽の光と熱だ。活用しない手はないだろうさ。何しろ太陽の光は何もしなくても降り注いでくる。イギリス人とかは軌道上で宇宙発電なんかやってるが、こっちのほうがよほど楽だ。あいつらきっと曇り空ばっか見すぎて世の中には晴れって天気があるのを忘れちまってんだろ…そろそろ降りるぞ」
そういうとトラックは回廊を降りた。こうして『私』は名実ともにメキシコの大地を踏みしめたのだった。降りてすぐの検査を通過したのち『私』はミゲルと別れた。去り際になにかあったら連絡してくれと言ってくれたのを無性にうれしく感じた。
そうして、私はモンテレイの街を散策しながら宿を探した。昔に見た麻薬戦争を題材とした映画とは違って通りに死体が転がっていることもなければ、街中で銃声が聞こえることもない。けれど決して静かというわけでもなく熱気に満ち溢れていた。
その熱気の正体はすぐに分かった。家々には何やら横断幕が張られ、無政府主義の象徴である黒旗をふっている人々もいれば、グアダルーペの聖母の肖像を掲げて何かを叫んでいる集団―その中には堂々とした聖職者―もいた。だが、明らかに思想信条が異なるであろう2つのグループは対立し、今にも暴発寸前というわけでもなく、どちらかといえば露店の呼び込みのような競争意識はあってもそれなり穏やかな空気をまとっていた。
どちらかにインタヴューを試みようとしたところ、捕まった。といっても手荒なことをされたわけではなく、単純に両グループの中からインタヴューを受けようとした人間が集まってきただけだった。以下が記録したその時の様子である。
あー、とにかく落ち着いてください。…でしたらそこの帽子をかぶられている貴方とそれから…そこの神父様、そう貴方です。来ていただけますか。まず順番にインタヴューを行います。いいですか?…ありがとうございます。えー、では神父様からお願いします。
私からか…私はアマデオ-ゴンザレス。この町で生まれ育ち、この町で神父をしている。
ゴンザレス神父、あなたはなぜ政治的活動に参加しているのでしょうか?
教会の人間が政治にかかわるというのはおかしなように感じるかもしれないが、少なくとも今のメキシコでは当たり前のことだ。この国の行政責任者である3人の国家奉仕者の内の一人は我がメキシコカトリック使徒教会の教皇イノケンティウス14世猊下だ。
…それでは、今のメキシコは教皇領であるともいえるということですか
まぁ、形式的にはそうとも言えるが、もちろん実質的にはそうではない。何故ならば決定の多くは4か月ごとの交代が義務付けられた行政府ではなく、各司教区の司教と先住民、農民または労働者の代表、そしてそれらとは別に選出された女性の代表によって構成された議会が行なっているからだ。
どうも、議会に対して政府の役割が小さ過ぎるように感じるのですが?
アパチンガン憲法にそう書いてあるから、と言ってしまえばそれまでだが要は"以前"の政府はあまりにも権限が大きすぎた、と多くの人間が感じているからだろう。もちろん全てがかつての憲法のままではない。例えば女性の参加もそうだし、十分の一税は教会ではなく国家によって徴収され、教会のためだけではなくすべての貧しき人々を癒すための、いわば連帯のための税となっている。このように我々は常に進歩している。亡命者など一部の人たちが喚き散らすような、懐古的で後進的な存在では決してない。しかし、だからと言って恋愛税を徴収して自由恋愛という名の不道徳を人口増加のためとはいえ推進する南アメリカ隣保同盟の政策を認めるような東西合同教会、貧者との連帯と救済を掲げても実質的にはアメリカ企業による形を変えた経済支配の尖兵であったアメリカ自由典礼教会、そのどちらも我々からすれば唾棄すべき存在なのは変わりない。彼らが我が教会を異端と呼ぶならば喜んで異端のままでいるつもりだ。
こうして、とりあえずメキシコカトリック使徒教会の神父であるアマデオ-ゴンザレス神父―もっとも、東西合同教会からは破門されているためメキシコカトリック使徒教会の権威はメキシコ国内でしか通用しない―へのインタヴューを終えた『私』は要点を纏めてから再びインタヴューを再開した。
ありがとうございました。では続いてそちらの帽子をかぶられている、ええと…
アレハンドロ、アレハンドロ-ヒメス。この地区の相互信用金庫の職員をしています。
相互信用金庫とはなんですか?
相互信用金庫はフランスの無政府主義者であるピエール-ジョセフ-プルードンの提案にさかのぼるもので地域の住民は自由に資金を出し入れできます。従来型の資本主義における銀行による信用創造の否定に関してはそう珍しいものではありませんが、我々が大日本帝国をはじめとする社会信用体制やアメリカの旧体制であるテクノクラシーと違うのは国家によって管理されているのではなく完全に個々人による民主的なシステムであるということです。
間違っていたら申し訳ないのですが、たしか、プルードンは既存の資本主義を代替するために労働者を組織化しようとしていた人物…だった気がしますが、あなた方も最終的には体制の打倒を考えているのでしょうか
いいえ、我々が打倒すべき体制はすでに打倒されました。何とも奇妙な話ですが無政府主義者である我々が議会に参画しているのもそういう認識であるからです。少なくとも全世界がこの黒い旗で覆われるか、あるいは教会との関係が破綻するまではこのままでしょう。そういう意味では我々も異端者なのです。
ええと、では例えば革命を輸出する気はない、と?
…まるで我々を社会主義者か何かだと勘違いをしているようですが、歴史上の伝説的な指導者であるマゴンやサパタあるいはマフノが生きていればどうだったかわかりませんがそのつもりはありませんよ。自由地区の人間たちは40年も革命を忘れていたんです。旧政府と戦ったのだって身を守るためだったし、そのあとこうして政権を握ったのだって偶然…そう、神の思し召しというやつです。そんな我々がどうして革命戦争など打って出ることができましょうか?ああ、だからと言って我々の役割が終わったわけではありませんよ。いまだ反抗を続ける旧体制支持の亡命者や貧困への対策に、"アメリカ人"各部族語での教育体制の充実とその文化維持に関しての教会とのすり合わせなど、とにかくいろいろありますから。
"アメリカ人"ですって?
ええ、"アメリカ人"です。モレーロスは原住民という呼び方を嫌って代わりにそう呼んでいました。勿論、アナタが何をイメージしたかはよくわかりますがね。
それは…ええと国の方のアメリカ人と区別するときに大変ではないですか?
別に問題ないですよ。アメリカと我々の関係はますます冷え込んでいますし、何よりそもそもそのアメリカの主は彼らのはずです。過去にとらわれ国内にしか目を向けないそちらのアメリカ人よりこちらのほうがよほど将来性があるというものです。ご自慢のテクノクラシー体制は倒れ、連邦政府はただの州の寄り合い所帯になりつつある、そんな国にどこにも未来はないでしょう。アレ以来彼等がした前向きなことといえばメートル法の採用ぐらいでしょう。
そう言って話を打ち切ったヒメスは周りに向かって、そうでしょう、と同意を求めるとみな可笑しそうに笑った。思想信条に関係なくメキシコという国の未来を信じている、そんなことを感じさせるような心からの笑いだったが、『私』はその朗らかな笑みに何処か宿敵への暗い感情を感じずにはいられなかった。
アクセル-レンナルト-ヴェナー-グレン自動計算機社製の塔の元ネタは史実でコンラート-ツーゼが構想していたヘリックス-タワーです。ツーゼ自身は風力発電機としての運用を意図していたそうですが、どうせメキシコで使うんなら太陽を利用しない手はないなと思ってソーラーアップドラフトタワーにしました。