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"大陸"に渡るその前に

アイルランド島から戻った『私』は再びロンドンにいた。これから、イギリス人の言うところの"大陸"に渡ろうと考えていたが、その前にどうしても訪れておきたかった場所があったからだ。


『私』は飛行機の予約を済ませてから、まだ少し暗い時間にワーテルロー公園に隣接したハイゲート墓地にいた。多くの著名人が葬られている墓地の一角に特に簡素なつくりの、その墓はあった。ほかのものとは違い透明なケースで覆われた墓は一見すると誰の墓かはわからないが、その中に葬られているのは()()()()()()では一つの思想潮流を形作った大思想家として、そして()()()では世界に災いを振りまいた思想を生み出した悪魔のような人物として知られている人間だった。


その名はカール-マルクス。科学的社会主義の祖として知られている人間だったが、社会主義革命が彼の祖国であるドイツで実現し、そして多くの破壊行為を行なった末に敗れたこの世界において、彼の思想の居場所はなかった。


『私』が近づくと墓を覆っているケースにスプレーでグラフィカルにも見える落書きがされているのが見えた。『私』がそれに気が付いたのと、『私』が懐中電灯の光で照らされたのはほぼ同時だった。


「全く…やってくれたな」

「いや、私ではなくてですね…そもそも、何が書かれているかわかりませんし」

「そうはいっても…なぁ、とりあえず荷物を見せてくれよ」


やってきた警備員の男にそう言われて『私』は渋々とカバンを差し出した。


「なるほど旅行者か……リベリアに南アフリカに…それにアイルランドだと、ロクデナシどもの住処を訪ねるのが好きらしいな」

「ロクデナシかどうかは感じ方次第だと思いますが…興味深い場所ではありましたよ」

「そうかい……まぁ、たしかにアンタがやったっていう証拠はないな」

「誤解が解けてうれしいです。ところでついでに教えてほしいのですがアレはなんて書いてあるんですか」

「本当にわからなかったのか…アレはな『暴徒或いは無法者(キングモブ)ここに眠る』って書いてあるんだよ」

「キングモブ…ですか」

「ああ、もともとは大昔の反カトリック暴動の時の暴徒の落書きに由来する言葉らしいがよくは知らん。ただ、今じゃキングモブって言ったら社会主義者のことだな」


そういうと警備員の男は煙草に火をつけた。その煙が鬱陶しかった『私』は警備員に少し意地悪な質問をぶつけてみた。


「それは労働党もそうなんですか?」

「…おい、とんでもないこと言うなよ。そんなわけないだろうが。それともアンタには一緒に見えてるのか?…もしかしてこの落書きを書いたのはやっぱアンタなのか?」


咽せながら答えた警備員に対して、『私』は笑いをこらえながら否定した。


「まさか、そんなことはないですよ…もしかして、労働党支持なんですか」

「まぁ、一応はな。といっても選挙以外じゃ特にかかわりがないが。で、だ。さっきの質問に答えるなら労働党はキングモブとは呼ばれない。少なくとも公では、な。例外的にそう呼ぶ連中もいるがそいつらは労働党を社会主義者(キングモブ)として批判すること自体を目的化しているような連中だから気にしなくていい」

「社会主義ではない…とすると今の労働党は名前だけなんですか」

「おいおい、こっちは不真面目党員なんだがな…まぁ、わかってる範囲で説明すると、いまの労働党は"科学的社会主義"ではないってだけで社会主義ではある。ギルド社会主義だよ」

「それはどういうものなんでしょうか」

「ああ、えっと、つまりだな"科学的社会主義"だと産業はプロレタリア国家だとか党の指導によって統制されるわけだが、労働党のジョージ-ダグラス-ハワード-コールが提唱したギルド社会主義では中世のギルドに範をとった組織によって管理される。中世のギルドがそうだったように完全な職能団体だから、革命のような思想とは無縁だ、というのがそもそもの思想だった。まぁ、現実はそこまでうまくいかなかったがな」

「なぜでしょうか」

「やはりというか、社会主義という面が足を引っ張ったんだろうな。結果として名目的なものにしかならなかったし、そもそも歴代の労働党政権にしても植民地への産業移転策を進めていたしな。だから南アフリカ及びローデシアの一方的独立宣言で労働党政権は大打撃を受けたし、その後誕生した自由党出身の首相については陰謀論が囁かれてるわけだが…とにかく、政権復帰後の労働党政権下では産業界とともに産業体制を一新するべくギルド社会主義を本格的に導入したわけだ」

「反発はなかったんですか」

「もちろんあった。例えばアンタが旅行してきたアイルランドなんてまさにその名残さ。アイルランドでも行なわれた同様の試みはイギリス人からもアイルランド人からも拒絶されて、結果として"北"じゃまるで企業に国が支配されたような有様になってるんだろう?ほかにも海外に逃避した企業もそれなりにあった。裁判は数えたらきりがなかった。だがまぁ、結局、俺たちはイギリス人なんだ。今もこうして何とかやってる」

「…スコットランド、ウェールズとかはどうなんでしょうか」

「テロのニュースを見たのか?…まぁ、確かに産業的に衰退しているのは事実だが、だからと言ってテロリスト共が言うほどひどくない、はずだ。政府はイングランド南部からの移転策に補助金をつぎ込みまくってるし、よく言われる教育政策にしたって"伝統文化"保全のためにいろいろやってる。これ以上何が不満なのか、正直よくわからん」


本当によくわからないという表情で警備員の男はそう言うと煙草をもみ消した。じゃあな、と言って去っていくその背中を見ながら『私』はホリーヘッドで出会ったケネディ氏の悲しそうな顔と先ほどの警備員のよくわからないという表情を交互に思い浮かべた。離れる前になってイギリスという国の溝が如何に深いかを実感したのだった。

ハイゲート墓地は慣用表記的にはたぶんハイゲイト墓地と書くのが正しいのかもしれませんが、地区の名はハイゲートなのでハイゲート墓地としました。


キングモブは1780年のゴードン暴動由来の言葉です。特定の思想をさすというよりかは暴徒そのものを指すような言葉です。社会主義者をキングモブ扱いするのは気に食わない存在をファシストとかナチ扱いするのと同じような理屈です。


ジョージ-ダグラス-ハワード-コールは史実ではフェビアン協会に属してはいても労働党に属してはいませんでした。一応、帝都に砲声轟けば本編で出そうと思っているうちに出せなかった人物だったりします。

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