南の地でお茶会を
キリのいいところで切ろうと思ったのですが、どこで切ってもキリが悪いと感じたので結局4500字越えになりました。これが長すぎるというのはわかりますが、いっそ短く1000文字ぐらいのほうがいいのか、文章量に関するご意見が遠慮なくどうぞ。
再び"旅"を始めた『私』はその後、空路で南へと飛んだ。南アフリカ連邦に向かうためだった。東アフリカ連邦から見て北に位置するアルワやさらにその北のケメットに対して興味がないわけではなかったが『私』の体が一つしかない以上、同時に二か国を訪れることは不可能だった。
南アフリカ連邦。大南アフリカと称されることもあるこの国は北はジュバ川から南は南極まで広がる巨大国家であったが、領土の大きさに反してその存在は世界に大きな影響を与えていたというわけではなかった。
というのも南アフリカ連邦はかつての宗主国たるイギリスの影響下を脱する過程において、旧ベルギー領コンゴおよび中央アフリカを巡る対立から欧米各国との激しい対立関係があり、現在でも他国からの訪問者に対して開放的な国ではなかった。そのため久しぶりに『私』が起動した登録してあるホストが食事や住居を提供してくれるという触れ込みのホスピタリティサービスに南アフリカの人間、それも有色人種である『私』を受け入れる人間がいたことにいくらかの驚きと疑問を感じつつも、滅多にないと思われる幸運をつかんだ喜びからそのまま南へと向かうことを決意した。
そして、この日『私』は不幸にも失敗に終わった襲撃の指導者にちなんで改名された南アフリカ連邦首都ジェイムソンに降り立った。東アフリカから一気に南下した『私』を待っていたのは白人の男性だったが、歓迎されているという感じはなく、ぶっきらぼうに母からの使いで来たと言っただけだった。
そこからは古の傑作車であるタタ-ミニに乗せられ、ジェイムソンの郊外にある農園に連れていかれた。道中、街に『オーベロン、貴方がよかった』と書かれたポスターがあり、気になって男性に質問したが答えは返ってこず、写真だけを撮った。農園で待っていたのは老婦人―というのは少し失礼かもしれない。髪は白かったがそのほかはまだ若々しかった―は『私』を見るなり、何かを思い出すようなそぶりをしていたが、やがてたどたどしい日本語でイラッシャイと言った。
「日本語ができるのですか」
「ええと、ごめんなさい。ほとんどは忘れてしまったわ。それでもこの言葉は忘れないようにしていた。いつかアナタみたいな人に会う時に備えて、ね」
そう言って、婦人エレナ-ロストヴァはほほ笑んだ。家の中に入った『私』は彼女からお茶をもらうと英語に切り替えて質問を続けた。
「忘れたということは、かつてに日本にいたことが」
「ええ、父は大阪の総領事館に勤めていたから、小さい頃は私も日本にいた。でもいきなりの戦争ですべてが変わった。極東とロシア帝国が消滅が国際社会では当たり前のものとして受け入れられた後、私たちは日本にいられなくなり、ヨーロッパにいる親戚を頼って放浪して、それからしばらくはイギリスにいた。最初はいつかロシアに帰れると思ったけれど父の考えは違った。父は何とかイギリスにとどまろうとしてた。私はそれを聞いたときに信じられない気持ちになったけれど、今思えば父のほうが正しかったんだと思う。当時のロシアはまともに帰れる状況じゃなかった。分離独立を掲げる勢力や軍閥化した旧親衛隊と軍の衝突がひっきりなしに伝えられていたから。でも、イギリスにもようやく馴染めた時になって、私たちは遠く離れた中央アフリカ連邦に送られた」
「それは…どうしてですか」
「イギリスでは当時のウィリアム5世は母がロシア出身なのもあって好意的だったけど、一般人はそうでもなかったし、どちらかといえばロシア帝国消滅後のボヘミアの騒乱を駐留していた旧帝国軍があまりにも残忍に鎮圧したことのほうが大きく報じられて、次第に好意的な見方は冷めていったから。でも、だからと言って中央アフリカも私たちにとっては安息の地じゃなかった」
「なにがあったのですか」
「……内戦。といっても火種になったのは私たちだけではないけれど。当時の中央アフリカでは南アフリカに比べて少ない白人人口を増やすべく、私たちのようなロシア人だけじゃなくて、第二次世界大戦後に南アジアからの移民増に耐えかねた一部のオーラリア人なんかも含めて移民を募っていたし、大陸ヨーロッパとの対立にもかかわらずそれまで二級市民扱いしていたポルトガル系白人を積極的に組み込もうともした。でもそんな動きに対しての反発ももちろんあった。数は少ないながらも高度な教育を受けていた黒人や白人であっても黒人に対して比較的融和的だった旧カナダ出身者がその中心で、とくに後者は技術者や実業家として中央アフリカに必要不可欠な人材が多かったから、中央アフリカ政府として見逃すほかなかった。私たちがリヴィングストン郊外に家を買ったのはそんな頃だった。今でも覚えてる。政府の支援策のおかげで何もかもがピカピカの家だった。今日、アナタが乗ってきたタタ-ミニも一緒にもらえて、父は喜んでいたわ。車までついてくるなんてここはなんていい場所なんだってね」
そういってからロストヴァ氏の顔は暗いものになり、少しの間をおいてから再び話し始めた。
「でもそれからしばらくして対立は決定的なものになった。きっかけは当時進行中だった旧コンゴでのリベリアとの紛争にポルトガル系白人の義勇兵が中央アフリカ政府の援助を受けて参戦していたことが明るみになったことだった。イギリス本国といまだに緊張関係にあるベルギーをはじめとした大陸ヨーロッパ諸国に対してそうした支援を提供するなんてありえないことだった。ところが中央アフリカ政府はそれを肯定したばかりか、本国に受け入れられないと知ると一方的に独立宣言まで行なった。勿論、中央アフリカ政府との溝が深まりつつあった反対派がこの機を逃すわけがなく自らを忠誠派と称して武装蜂起を行なった。それが内戦の始まりだった。中央アフリカの南に位置する旧南アフリカにも内戦は飛び火した。ボーア人たちが彼らの故郷である南部地域の分離独立を求めて武装蜂起したの」
「その、ボーア人の蜂起が今の否定につながっているんですね」
「ええ。彼らは常にイギリスの都合で始まった拡大よりも民族的な国家樹立を目指していたから蜂起自体は不思議ではなかったけど、逆にその主張が旧南アフリカと中央アフリカが強固に連携していて、フランスをはじめとする列強から秘密裏に支援を受けていたのに対して、武装蜂起した人々同士の連帯を難しくしたから。でも当時の私にはどっちが勝っているとか負けているとか、あるいはそもそも戦いが起こっていることすら関係なかった。大事なのは家が燃えてしまったことと、父が亡くなったことそれだけだった。そのあと私たちは自分の家には戻れずに結局ここで新しい生活を始めることになった。それからずっとここにいるわ。想像できる?この国には税金を払わない権利があるの」
重苦しくなった空気を振り払うように、少し愉快そうにロストヴァ氏は言ったが、その内容は『私』にとって衝撃的だった。衝撃を受けている『私』に対してロストヴァ氏は続けた。
「結局ボーア人や忠誠派は敗れたけど、それは勝った側に何の影響も与えないわけじゃなかった。悪い意味で、だけど」
「というと」
「ボーア人や忠誠派の主張、つまり、民族的国家だとかあるいは人種的平等という概念に対する強烈な不信感。だからこそ、今の南アフリカが戦後に再建されるときに核となったのが主意主義だった。主意主義は国家を否定しないけれどもその存在は国民、いえ自由民の自発性によってのみ保証されている。もともとの思想自体は19世紀イギリスの自由党議員オーベロン-ハーバートに由来していて、確かそれを基にしたポスターも…ちょっと待って、ね」
「あの、もしかしてこれですか」
「そう、これよ」
会話の途中で端末を操作し始めたロストヴァ氏に言葉に『私』は道中で撮ったポスターのことを思い出して、画像を見せるとロストヴァ氏は大きな声をあげながら頷いた。
「どういう意味なんですか」
「さっき話したオーベロン-ハーバートはには兄がいた。それがディズレーリ内閣植民地大臣だったヘンリー-ハーバート、第4代カーナヴォン伯爵ね。でも彼はオーベロンとは何もかも対照的だった。自由党ではなく保守党の議員だったし、無邪気なまでにイギリスの拡大を支持してその戦争を肯定した。唯一意見があったのは露土戦争への介入反対だけだったけど、それすらもオーベロンが平和主義から反対していたのに対して彼はただイスラム教徒嫌いなだけだった。そして南アフリカではヘンリーは周辺のボーア人国家の併合を目論んでトランスヴァール共和国を併合したの。ケープ植民地の意見を無視して、ね。そういうわけで、今この国でヘンリーは圧制者の代表みたいな扱いだし、逆に主意主義の考案者であるオーベロンの評価は高いわ。『オーベロン、貴方がよかった』というこのポスターはヘンリーではなく、オーベロンが植民地を統治していたら良かったという願望みたいなものね。尤も、今の統合主意主義はオーベロンの主意主義そのままじゃないし、そこまでの理想郷になったのかは疑問だけど」
「どのように違うのでしょうか」
「一つは人種主義。さっきも言った通り主意主義は国家を否定しないけれどもその存在は自由民の自発性によってのみ保証されている。だから軍は完全志願制だし、国家の歳入も税金というよりかは寄付に近いけど、それらは基本的に有色人種には適応されない。それらが適応されるのは"文明化された"市民つまり、白人とそれからインド人のみというが決まり文句になってる。もう一つは"文明化された"市民の間での格差を減らすための試みとしてのダグラスの社会信用論。それ自体は日本人のアナタにはなじみがあるかもしれないけれど、実際には大きく違うの。日本では経済的側面から受け入れられたのに対して南アフリカではその神学的側面、つまり、人間は神との結びつきによってその自由を保障された存在で分配は神の恩寵の具体化とする解釈の方を受け入れた。逆に日本のように国家が間に入った再分配は南アフリカでは決して認められなかった」
「それはなぜでしょうか」
「主意主義の自発性に反するから。代わりの解決策として選ばれたのはスコットランドの政治家スケルトンの財産所有民主主義だった。尤もそちらにしても国家による介入を肯定する部分は無視されたけど。とにかく、このようにオーベロンの主意主義を基本にそうしたほかの思想を混ぜたから"統合"主意主義なの。お茶、もう一杯入れるわね」
言い切ったロストヴァ氏は立ち上がったが、『私』は最後に聞きづらいことではあるが、どうしても聞いておきたかった質問をぶつけた。
「あの…イギリスとか日本とか、もしくは…ロシアに戻ろうとは思われなかったんですか」
「……戻ろうと思ったことはあったわ。イギリスも日本もいいところだし、何よりロシアは母なる祖国だから。でもそれと実際に戻れるのか全くの別の話。昔は余裕がなかったし、今はここに慣れすぎた。例え遠く離れていたとしてももう故郷はここなの」
ロストヴァ氏はそう寂しげに答えた。戻ってきた後『私』との間に会話は少なく、こうして『私』の南の地でのお茶会は幕を閉じたのだった。
統合主意主義は初の本世界独自イデオロギーとなります(作中で解説した通り色々と原形があるので完全にゼロからというではない)。帝都に砲声轟けば本編から80年も経てば史実で多くの思想が時とともに変質した通り、何か変化はあるだろうなぁと思っても怖くて中々手を出せませんでしたが、今回思い切ってチャレンジしました。好評だったらまた何か考えます。不評だったらどうしようか…
あと、主意主義に関してですがオーベロンにのみ言及してロスバードやルフェーブルへの言及がないのは両者が影響を受けたミーゼスおよびハイエクの人生が異なる(ミーゼスはポーランドで、ハイエクは特に本編では言及しませんでしたがもともと外交官志望らしいのでそのままか)からです。というかロスバードに関しては愛国党の反移民政策の結果生まれてこない可能性すらある…




