ポルトープランス行きの航空機の中でのインタヴュー
アンティグア-グアテマラの空港で『私』が乗り込んだのはサンダース-アヴロ製の斜め翼の航空機だった。その奇妙な外観の航空機にあっけにとられながらも乗り込んだ『私』は何とか自分の席に座ることができたが、このポルトープランス行きの航空機に乗っている人間の多くが黒い肌をしていることが僅かにだが驚いた。
大日本帝国はもとよりアメリカ合衆国においても、そうした人間は見慣れぬ存在だったからだ。そう理由を考察する中でふと自分がほんの一瞬とはいえ黒い肌を持った人々を見て驚いたという事実に『私』はいつからそのように思うようになったのかと記憶を辿る羽目になった。
何しろ音楽や映画を通じてではあっても少なくとも『私』は黒い肌を持った人々を見慣れていたはずなのだから。単に思考がこの世界に馴染んできているのか、あるいは本当に自分が生まれた世界についてのことを忘れようとしているのか、もし後者だとすれば、それはとても悲しいもののように感じた。そう自覚するとますます何か、自分の精神に空白が生じたようにも思えた。
取りあえずは気を紛らわせようと思い、端末に暇つぶし用に保存してあった小説を読み始めた。こちらのスタインベックが書いた小説で世界大戦中にダストボウルに悩まされた中西部の農民がカナダの入植地に入植するというもので『私』の世界では大恐慌時代の農民の悲哀を描いた文学者の書くものがこちらではこうも陳腐なプロパガンダなのかと落胆したが、読み進めていくと入植地でのカナダ人との愛憎入り混じった多様だがどこかぎこちない人間関係や第二次内戦に伴う家族間の分断などを見事に描き切っており、最後にはすっかり感動してしまった。
「いい顔してるな。その作品が好きなのか?」
不意に『私』に隣の席に座っていた初老の黒人が話しかけてきた。あなたも読んだことがあるのですかと聞くとすぐにそうだと答えが返ってきた。
「作者のスタインベックは当初"それ"をそのまま世に出すことができなかった。内容が平和主義的かつ第二次内戦時の反乱者たちの主張を擁護している、としてな。結局修正に修正を重ねた、ただのプロパガンダが出版された。皮肉にもスタインベックはその結果として巨万の富を得ることができたが、突如として事故死することになる。最近の研究だと自殺の可能性が高いらしいがね」
「それは何とも…」
『私』の記憶ではノーベル文学賞まで受賞した20世紀アメリカの大文学者のたどった余りにも作家としては悲惨な末路に『私』は富と引き換えに自らの"作品"を捨てざる負えなかったスタインベックの胸中は如何ばかりだったのかと考えた。
「本格的に文学者として評価されたのは死後に今、君が読んでいた本来の草稿が発見された後だ。と言っても完全なものは残っていなかったから、前半が妙にプロパガンダのようなのはそのためだ。スタインベックの他にも第二次内戦での犠牲者として英雄化が進められていたハースト大統領の愛人だった女優マリオン-デイヴィスの暴露本を基にした批判的伝記映画を撮ったウェルズは亡命する羽目になったし、あの時代は概ね芸術家にとっていい時代じゃなかった。まぁ、もっともだからこそそれを研究するのが面白いんだがな」
「失礼ですが、あなたは一体…」
「ああ、こりゃすまなかった。私はカパイシャン大学で20世紀、特に前期愛国党政権時代のアメリカの芸術及び文化史に関する研究をしているんだよ」
そういうと相手は微笑んだ。これが『私』にハイチでの宿を提供してくれた恩人でもあるジャン-ジョーンズ教授との出会いだった。以下はこの日航空機内で教授に対して行なったインタヴューを記録したものになる。
インタヴュー記録 提供者 カパイシャン大学教授 ジャン-ジョーンズ
ジャン-ジョーンズ…ですか
妙な名だと思ったろ?だがまぁ、それにはきちんとした理由があるんだ。私の先祖は元々、アメリカ人だった。
それはつまりご両親のどちらかがリベリア系なのですか?
いやいや、違うよ。もとはアメリカ人といっても第二次内戦後に"帰還"させられたわけじゃない。私の先祖があの島に来たのは19世紀の第一次内戦の方がきっかけなんだ。
第一次内戦当時の大統領だったエイブラハム-リンカーンは戦後、解放した黒人たちをどうするか考えあぐねていた。そこにカンザス州選出の上院議員であるサミュエル-クラーク-ポメロイが提案したのが、その名もリンコニア計画という計画だった。現在のパナマ北部にリンコニアという植民地を作って黒人たちを入植させようと考えてたわけだが、この計画は中南米諸国からの猛反対にあって潰れてしまった。そのせいかはわからないが後にポメロイは共和党内の反リンカーン派に属すようになっているんだが…おっと話が逸れたな。まぁ、とにかく第一次内戦時の指導者たちの多くは建前はともかく実態は同化よりも入植ないし帰還を支持しており、そうした流れが、現在のリベリアにも繋がってくるわけだが、リンコニア計画が破棄されたといっても入植地構想そのものがなくなったわけじゃない。
1869年のことだ。当時のアメリカ大統領ユリシーズ-グラントはドミニカ共和国のブエナベントゥラ-バエス大統領に対しドミニカ全体のアメリカへの併合を提案した。それに対してバエスは北のサマナ半島の租借を逆に提案したんだ。まぁ結局どちらの案も議会上院によって否決されたが、それでもアメリカ資本のサン-ドミンゴサマナ湾会社が作られてバエス政権が打倒される1874年までプランテーションが運営されていた。
私の先祖が入植したのはそのころでね。幸いにしてサマナ半島にはドミニカが独立以前にハイチに支配されていたころに入植したアメリカ南部からの逃亡奴隷の子孫たちがいたから英語も通じていたし独特なコミュニティが形成されていった。だが、そうした状況は私の祖父の時代、つまり1930年代になると大きく変わった。
何があったのですか?
それは突然だった。当時の政権はいきなり黒人たちを弾圧し始めた。多くのものが着の身着のままでハイチへと追放された。酷いものになると集団的な虐殺まで行なわれていた。だが、ハイチ側の対応も冷淡でね、命からがら逃れてきた者たちは次は飢えと病気で死んでいった。私の祖父のような入植者や逃亡奴隷の子孫、あるいは第二次内戦後の同化政策を嫌ってリベリア送りを拒否してきたルイジアナの有色クレオールやプエルトリコ出身者なんかはある意味一般的なハイチ国民より優遇されていたから、まぁ、そんな目にあうことはなかったんだが…ハイチ政府が冷淡だったのは事実だ。当時のハイチに難民を助ける余力はなかったからしょうがないともいえるが…それでも、逃れてきた者たちには明らかな優先順位がつけられていた。それはどれだけアメリカに近しいか、だった。当時の状況を考えれば仕方がないってことはわかる。結局の話、ハイチはほかの国々に比べてあまりにも異質すぎたんだよ。
…アメリカは何もしなかったのでしょうか
一応言っておくと全く何もしなかったわけじゃない。ハイチにおける"人道的な危機に対する支援"は積極的に行なわれていたし、"適切な治安維持のための部隊"創設の支援も行なわれていた。だがその結果は酷いものだった"人道的な危機に対する支援"で投入された支援金の多くは高官たちの懐に消え、創設された"適切な治安維持のための部隊"はそうした実態を批難する者たちを暗殺して回った。噂だが危機的な状況の拡大を防ぐために越境者たちをドミニカ軍とともに始末していたという話もある…あくまで噂だが。
そういうと教授は沈痛そうな表情で沈黙した。最後の噂をただの噂と断じることは出来ない、何か確信を持っているような雰囲気だったが、『私』はそこまで踏み込むことは出来なかった。
『私』は記録を止めると重苦しくなった空気を変えようと、どうしてアメリカの芸術及び文化史を研究しているのかと尋ねた。すると教授は少し考えた後にこう言った。
「どれだけ遠い昔の、遠く離れていた場所だとしてもあそこは間違いなく自分にかかわりのある場所だし、だったらそこを知りたいと考えるのは自然なことじゃないかな。たとえアメリカがそれを認めなかったとしても私にとっては心の故郷だよ」
そのあとで、冗談めかしてハイチ人としての愛国心がないわけじゃないよ、と言って笑った。
『私』にとって心の故郷はどこだろうか、生まれ育った場所ではあるが日々薄れゆく記憶でしか残っていない自分が生まれた世界なのだろうか、それとも、今こうして生きているこの世界なのだろうか、結局、疑問の答えが出ないまま航空機は空港へと着陸した。