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碧海のサルティーナ  作者: あんさん
第3章 挑戦
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第32話 追い上げ

 Day+9の朝は、驚くほど風がなかった。

 マリーナ・グランデの桟橋に繋がれたガネットは、まだパルクフェルメの封印が解かれるのを待っていた。

 解除と同時に、整備班が機体の点検に入る。


「エンジンは左右とも異常なし。いつでもいけるわ」


 私は翼の下に立って、昨夜のうちに描き直したルナの図面を広げていた。二つの小島と、その間の狭い水路。そこを抜けた先の入り江の奥へ続くゲート。フィンさんと決めた進入の脇に、風が北へ振れたときの入り方も並べて描いてある。

 前か来たフィンさんが図面を受け取った。


「ここ、北へ振れたらどうなる?」


「小島へ寄せる前に修正します。次の進入がきつくなります」


「戻しの角度は?」


「上から南端の張り出しを見て出します」


 フィンさんは図面をもう一度眺めてから、そのまま私へ返してきた。


「わかった、OKだ」


「はい」


(昨夜、私が一人で詰めた分もOKが出た……残り、四本。まだ終わりたくない。けどもうミスはしない)


「行くぞ」


「はい!」


 フィンさんが操縦席へ上がり、私も後席へ乗り込んだ。



 ◇◇◇◇◇



 SS15、ルナ。

 待機列が進んで順番が来る。水面を離れて高度を取り、全速でスタートゲートを切った。ルナは、この大会で初めて飛ぶコースだけれども、ゲート1の白い岩も、ゲート2の赤い標識も、昨夜の図面のとおりに現れてくれた。


「次、ゲート3です。二つの小島の間。目印は左の小島、南端の白い岩」


「見えた」


「距離八百。今の方位を維持してください」


 左の小島が近づいてくる。ところが図面で見た輪郭よりも、南端の岩が海面へずいぶん長く張り出している。基準にする先端がずれれば、戻しの角度もずれる。私は張り出しの先端と水路の入口を素早く見比べて、角度を出した。


「四百。右、四度」


「四度だな」


 フィンさんが機首を動かす。四度だけ戻したガネットは、張り出しの先を越えたところで水路の延長線に乗った。そこから先は真っ直ぐだった。振り直しは一度もない。開けた視界の先に、入り江の奥が見えた。


(抜けた……! 通ったわ!)


「ゲート3、通過」


「次は?」


「正面です。入り江の最奥、黒い崖の手前」


 機体はそのまま最終ゲートへ伸びていく。ゴールを抜けると、無線が通過時刻を二度告げた。私は息を継ぐ間も惜しんでフライトブックに書き留める。


「SS15完了。区間はクラス2のトップよ」


 カリーナさんの声だった。私は一瞬、聞き違えたのかと思った。


(トップ……? クラス2で、私たちが一番だなんて!)


「現時点で九位よ。トップとの差も詰まってる、上出来だわ」


「了解」


 フィンさんの声はいつもと変わらない。それから少しだけ間を置いて、こう言った。


「いいタイミングだったぞ」


(区間トップより、そっちの方が嬉しい……)


「はい」


 返せたのは、それだけだった。



 ◇◇◇◇◇



 SS16、カーラ。

 TC20を抜けて、カーラのスタート水域へ向かう。カーラはこれで三度目なので、島の輪郭も、入り江の深さも、どちら側から見れば目印が岩陰に消えてしまうかも、頭に入っている。

 順番が来て、ガネットは再び空へ戻った。スタートゲートを切る。


「ゲート1、左前方。赤い崖の切れ目です。距離一千二百。通過後、右へ二十度」


「わかった」


 返事を聞くよりも早く、フィンさんの右手が操縦桿へわずかに力を加えているのが見えた。目印と距離と、次の旋回方向。この三つを一組にして出すと、フィンさんの操縦はその先までつながっていく。私のコールを待ってから動いているのではなく、声が来る事を前提にして、機体がもう次の姿勢へ入り始めている。長い説明はもう要らない。


(同じ判断を、二人で分けている)


 そう思っているうちに、最後の直線へ入っていた。


「SS16完了。区間二位」


 カリーナさんの声が弾んでいる。


「八位に上がったわ。首位との差も随分縮まったわ、入賞の目もあるわよ」


 八位! Day+4で二桁に落ちてから、ずっと届かなかった位置だ。それでもまだ遠い。フィンさんは順位を聞いただけで、すでにTC21へ機首を向けていた。私はフライトブックを閉じる。


(……でも残り、二本で終わってしまう)


(順位が上がってるのに……どうして減る方ばかり考えてしまうの……)



 ◇◇◇◇◇



 サービス。マリーナ・グランデ。

 TC21を抜けてマリーナ・グランデへ戻り、ガネットが桟橋へ着くと、整備班が左右へ分かれた。誰もが無駄口を叩かず、それでいて驚くほど手が早い。

 私が後席から降りると、マヌエラさんが水筒を差し出してくれた。


「飲んで。次もあるわよ」


「はい」


 蓋を回して、半分ほど一息に飲んだ。

 マヌエラさんが結果表を広げた。


「クラス2で現在八位、首位差七百七十三よ。二本で三百四十四縮めたわ」


「上は?」


 フィンさんが聞いた。


「首位がローン・ウルフからシルバー・ライニングに替わったけど、上の三つは今日も落ちていません。SS17で取れるだけ取っておきたいところね」


 桟橋の奥から声がした。


「フィン!」


 マリエッティさんが歩いてくる。革のジャケットを肩に掛け、サングラスを頭の上へ押し上げていた。


「うちの連中が騒いでたわよ。区間トップですって?」


「まだ八位だ」


「順位の話じゃないわよ」


 マリエッティさんは、フィンさんから私へ視線を移した。


「あなた、いい顔になったわね」


「そう、でしょうか……」


「そうね、前は全部を間違えないように読んでいたでしょう。今は、飛ばすために読んでる。違う?」


「……いえ」


 答えながら、私は思わずフィンさんの方を見てしまった。


(……どうして今、フィンさんを見たの?)


 フィンさんは結果表から顔を上げた。


「今さらだな」


(前から決まっていた、みたいな言い方……!)


「あと二本ね。しっかり追いなさいよ」


 マリエッティさんはそう言い残して、自分の区画へ戻っていった。

 入れ替わるように、区画の入口で足を止めた男の人がいた。仕立ての良い上着に、革の書類鞄。油と工具の並ぶ桟橋では、その姿はどうしようもなく浮いている。マヌエラさんが用件を聞きに出て、すぐにフィンさんを呼んだ。

 フィンさんは結果表を持ったまま、入口まで出ていく。


「チーム・ガネットのフィンさんですね。ノルト・ヴィントのケラーと申します」


「用件は?」


「今夜、三十分でけっこうです。お時間をいただけませんか」


 ケラーさんはそれだけ言って、名刺を差し出した。フィンさんは名刺を一度だけ見て、上着の内側へしまった。


「ビバークでいいか?」


「伺います」


 ノルト・ヴィント。HQの掲示で、クラス1の上の方にいつも並んでいる名前だった。確か、四番手のはずだ。

 ケラーさんが去ると、桟橋には再び工具の音だけが戻ってきた。私は水筒を持ったまま、その場に立ち尽くしていた。

 カリーナさんがカウルの下から顔を出す。


「点検終わり。どこも問題ないわ」


 フィンさんが結果表を折って、ポケットへ入れた。


「行くぞ」


「……はい」



 ◇◇◇◇◇



 SS17、セラ。

 サービスを出たガネットは、セラのスタート水域で待機列についた。順番が来て離水し、高度を取り、ダイブから水平へ移る。私の読み上げに合わせて、スタートゲートを全速で切った。

 セラも順回りと逆回りで二度通っている。地形は覚えていた。

 最初の目印は灯台だ。白い塔が、午後の陽射しの中にくっきりと立っている。ただし昨日フィンさんが言っていたとおり、手前の岩場が塔の足元に重なりかけて見えた。


(……重なる前に)


 私は灯台と、右手の岬とを続けて見た。二つの方位がまだ大きく開いているうちに結んでしまえば、位置ははっきり出る。昨夜ノートに書いた一行が、そのまま手の順序になっていた。


「ゲート1、灯台の右。岬との交わりで位置を取りました。岩場の手前です」


「了解」


「距離七百。このまま入れます」


 旗が灯台の右手から現れて、そのまま後ろへ流れていった。灯台の高さも、影の伸び方も、今日は位置を決める材料にはしなかった。決める前に、角度の開いた方を選ぶ。


(それだけの事が、あの日はできなかった)


 残りのゲートでも、フィンさんは私の出した進入角へ機体を正確に置いていく。手前で角度が決まっているから、旋回で作り直す必要がない。そのままゴールを通過した。呼吸を整える間もなく、無線が入る。


「SS17完了。区間二位」


 カリーナさんの声には喜びがあった。けれどそのあとに、ほんのわずかな間ができた。


「順位は変わらず八位よ。首位とは少し開いたわ」


 私は数字を聞き返しそうになった。区間二位を取ったのに、差はト広がっている。首位の機体も、それだけ速かったという事だ。


「……広がったんですね」


「ああ」


 フィンさんの返事は短い。私はフライトブックに目を落とした。SS15で一位、SS16とSS17で二位。出せるタイムは出したはずなのに、順位は八位のまま動かない。


「もっと縮められたかもしれません」


「どこで?」


 問い返されて、言葉が止まった。ゲートの見落としはない。進入も外していない。フィンさんの操縦にも、大きなロスはなかった。


(それでも足りないなら、どこを削れば……)


「……ごめんなさい、やはりわかりません」


「ああ、だが取れるタイムは取ったから間違っちゃいない。欲を出せば足をすくわれるぞ」


「……はい」


 風防の向こう、空の北東側に、朝にはなかった薄い雲が広がり始めていた。



 ◇◇◇◇◇



 ビバーク。マリーナ・グランデ。

 TC22を抜けてマリーナ・グランデへ戻り、ガネットを桟橋へ固定する。整備班が外から一通り確かめたあと、機体は再びパルクフェルメの封印を受けた。今日は異常が一つもなかった。

 夜。テントの机には、SS18のコース図と気象図が並べられていた。


「ノアの夕方の予報だ」


 エンツォさんが気象図を指で叩く。


「夜半から北東の風が強まる。朝には雨域が諸島へ入って、雲底も下がるそうだ」


「中止は?」


 カリーナさんが聞いた。


「今のところ予定どおりだな。だが視界次第でブルテンが出る。開始時刻の判断は明朝だ」


 私は気象図と海図を見比べた。SS18は今日飛んだルナの周辺を大きく使う。外洋へ張り出す区間と、入り江へ深く入る区間の両方があるコースだ。


「雲底が下がれば、高度を取った機体は地形を見失います。ただ、海面付近まで塞がってしまうとは限りません」


「読めるか?」


 フィンさんが聞いた。


「明朝の雲底と雨量が出ないと、どこまで下りられるかは決められません。数字が出たら、すぐに引きます」


 フィンさんは地図を見たまま頷いて、それきり何も言わなかった。

 テントの外で、足音が止まる。ベアトリーチェさんが布を持ち上げた。


「フィンさん、お客様です」


 仕立ての良い上着を着た男の人が、ランタンの明かりの中へ入ってきた。フィンさんが立ち上がる。ベアトリーチェさんが書類の束を抱えて後に続いた。


「アリス、気象図を頼む」


「……はい」


 布が下りて、私だけが机に残された。

 鉛筆を持ち、明朝に確かめるべき項目を余白へ書き出していく。雲底、雨量、風向。三つ書いたところで、手が止まってしまった。

 クラス1の四番手が、わざわざ夜に時間を取りに来る。理由なんて一つしかない。そしてその席に、私は呼ばれなかった。


(……当たり前だわ)


 素人のコ・パイを一緒に引き取ってくれるチームなんて、どこにもない。フィンさんが受けると言うのなら、それで決まりだ。理屈はすぐに出てくるのに、鉛筆の先は同じところで止まったままだった。気がつくと私は、風向、ともう一度書いていた。さっき書いた行のすぐ下に。



 ◇◇◇◇◇



 桟橋の端。


「アリス」


 カリーナさんだった。後ろにマヌエラさんとベアトリーチェさんがいる。ベアトリーチェさんの手には、もう書類はなかった。


「テントで固まってたわよ。ほら、座りなさい」


 言われるまま板の上へ腰を下ろすと、私は少し迷ってから口を開いた。


「あの人は、フィンさんを……」


「誘いに来られました」


 ベアトリーチェさんがあっさりと言った。


「クラス1の四番手です。次の大会からの契約で、条件も悪くありませんでした」


 私は膝の上で指を組んだ。


「フィンさんは、なんて」


「お断りになりました」


 私は思わず顔を上げた。ベアトリーチェさんは表情を変えずに続ける。


「拠点が北大陸ですから。島の仕事がありますし、両方やれば移動ばかりになる。そう言って、それきりです。三十分もかかりませんでした」


 ふっと息が抜けた。


(……よかった。え、私、そんなに)


 カリーナさんが横目でこちらを見ている。


「ずいぶん力が入ってたわね」


「……いえ」


「いえ、じゃないでしょう。何が怖かったの?」


 答えられなかった。マヌエラさんが淡々と言う。


「フィンさんが移籍すれば、チーム・ガネットの体制は変わります。心配して当然です」


(違う。……そこに乗れば楽になるって、分かってるけど)


「……違います」


 声が出た。


「体制の話では、ありません。……レースが終わっても、あの席にいたいんです。フィンさんが飛ぶ隣で、私が読みたい。それが無くなると思ったら、手が止まってしまって」


 三人とも、すぐには何も言わなかった。ベアトリーチェさんが小さく息を吐き、カリーナさんが笑いをこらえるように口元を押さえた。マヌエラさんだけが、表情を変えずに頷いている。


「そう」


 カリーナさんが言ったのは、それだけだった。


「明日、飛べるわね?」


「はい」


「なら、それでいいわ。もう休みなさい」


 三人が戻っていった。



 ◇◇◇◇◇



 テントへ戻って、私は気象図を引き寄せた。

 止まっていた鉛筆が動き出す。雲底、雨量、風向、それに退避へ使える方位。明朝に確かめるものを順に並べながら、私はさっき自分の口から出た言葉を思い返していた。


(大会が終わるのが嫌なんだと、昨日までは思ってた。……違う。飛びたいのは明日だけじゃない。その先も、ずっとなんだわ)


 フィンさんが断った理由の中に、私は入っていなかった。島の仕事と、移動の負担。それだけだった。


(安心したはずなのに……これは、何なのかしら)


 その気持ちに名前は出てこなかった。私は鉛筆を持ち直して、余白の続きを埋め始めた。




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