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碧海のサルティーナ  作者: あんさん
第2章 始動
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18/27

第18話 コ・パイ

 エントリーが受理された翌朝、サルティーナの港はまだ少し冷えていた。潮の匂いに、重たい油の香りが混じる。昨日感じた高揚感は、まだ胸の奥に熱として残っていた。

 桟橋の脇に繋がれたガネットは、水面の揺れに合わせて小さく身を揺らしていた。フィンは桟橋の板の上に海図を広げ、その横に時計と鉛筆、それから無線方位を書き込むための紙片を並べていた。


「来たか」


「おはようございます」


 アリスが歩み寄ると、フィンは海図の端を押さえたまま言った。


「エントリーが決まった以上、後戻りはできないぞ」


「……正直少し怖くなりました」


「それは普通だ。が、時間が無いので、急いで詰め込むぞ」


「よろしくお願いします」


「コ・パイの仕事は、つまるところ二つだ。自分の位置を把握する。その上で、パイロットに『次』を指示することだ。SSでもリエゾンでも、それは変わらん」


「……はい」


「SSでは、この先どう飛ぶか、一歩先の指示を出す。指示書はパイロットと一緒に作る」


「指示書、ですか」


「地形を見て、どこを目印に入るか、どこで抜けるか、その次に何を拾うか。先に決めておく。飛んでる間は、今どこまで来たか照らしながら次を出す」


「……見えているものを、そのまま言うだけででは、いけないんですね」


「駄目だ。目の前は俺も見てる。コ・パイが指示するのは、その先だ」


 アリスは小さく頷いた。


「とにかく自分の位置を把握しろ。ロストするな。その上で、どっちへどう飛ばすか指示を出せ。無線で方角を取る。速度と風で見込みを出す。地文が使えるなら、それも使う」


「……はい」


「一度に全部は覚えられん。一つずつでいい。大事なのは状況を共有する事だ。位置を見失ったら隠さずに言え」


「……はい」


「まずは短いリエゾンだからいくぞ。無線である程度、向かう方向を掴む」


「はい!」


「計算尺の使い方は覚えてきたな?」


 アリスは膝の上の円形計算尺を見下ろし、こくりと頷いた。


「無線で方角取るのは覚えてるな。乗るぞ」


 ガネットに乗り込むと、水面の照り返しが風防の下から差し込んだ。機体が滑走を始め、浮き上がる。港の屋根がゆっくり低くなっていく。フィンは島の外れへ機首を向け、そのまま沖へ出した。


「今どこだ」


 アリスは海図を見て、窓の外へ目をやった。


「……まだ岬の手前、です」


「次に向かうのは」


「……五海里先の小島、です」


「飛ぶ方向は」


「〇八九……です」


「あとどれくらいだ」


 アリスは膝の上の海図の脇に置いた円形計算尺へ目を落とし、ぎこちない指つきで速度の目盛りを合わせた。


「……二分、くらいです」


「そうだ。そこまでは出せるな。今の風なら、その二分でどうなる」


 止まる。窓の外では白い波頭が斜めに流れている。けれど、それが答えにならない。


「……すみません。そこが、まだ」


「いい。もう一回だ。今どこだ」


「……岬の先端を、過ぎるところです」


「次に向かうのは」


「……小島です」


「飛ぶ方向は」


「〇八九です」


「あとどれくらいだ」


「……一分半、くらいです」


「風は」


 アリスは唇を噛んだ。


「……右から、です」


「そこまでは見えてるな。それで、どうなる」


「……分かりません」


「風に流されるから方向を補正する。〇九〇だ」


 さらに少し進んだところでもう一度やらせたが、答えは同じだった。位置と針路と時間までは追える。けれど、風が入ると、その先が途切れた。


 いったん戻って着水すると、フィンは桟橋の端にガネットを寄せた。


「昼だな。一回切ろう」


 そう言って先に降りる。アリスも後を追ったが、足を下ろした瞬間、まだ身体の奥に揺れが残っているのが分かった。フィンは店で買ってきたらしい固いパンを半分よこした。


「無理でも食っとけ。午後はSSだ」


 受け取っても、すぐには口へ運べなかった。頭の中が、まだ散らかったままだった。フィンは水筒の栓を抜き、ひと口飲んでから言った。


「今のは、どこで止まった」


 アリスはパンを持ったまま少し黙った。


「……時計を見たところ、です」


「その前だな」


「え……」


「時計を見る前に、今どこを飛んでいるか見失っただろ。そこが抜けたまま、時計で埋めようとしたはずだ」


 そう言われて、アリスは唇を噛んだ。反論は出来なかった。


「まず今どこか。それから次だ。分からんなら、黙る前に言え」


「……はい」


 ようやくパンをかじる。味はよく分からなかった。



 ◇◇◇◇◇



 少し休んでから、また二人は機体へ戻った。戻りで機首が返ると、飛び方が変わった。高度が少し下がり、海岸線が近づく。さっきまで穏やかに流れていた景色が、急に手前へ詰め寄ってきた。


「ここからSSだ。見えてから考えるな。次に使うものを持ってこい」


「……はい」


「入りの目印は」


 白い灯台が見える。見えるが、それが何の始まりか分からない。


「……灯台、です」


「その次」


 止まる。


「……分かりません」


「見ろ。岬の陰だ」


 言われてから、黒い岩が見えた。見えた頃には、もう遅い。


「……黒い岩」


「その先」


「……」


「慌てるな。次を探せ」


 そう言われても、景色の方が速かった。灯台はもう後ろへ消えている。黒い岩も流れ去った。新しい地形が入ってくるたび、さっきまで追っていたものが全部崩れる。


「白波」


「……白波」


「その先に何がある」


「……待って、ください」


「待つ暇はない。だから今のうちに持っとけ」


 胸の奥が冷えた。見えているのに、言葉にならない。海図へ目を落とすと前が飛ぶ。前を見ると、もう次が来ている。

 海岸線を回って戻る頃には、背中に汗がにじんでいた。着水して機体が静かになると、止まったはずなのに身体の中だけまだ揺れている気がした。


「……どうでしたか」


 訊いた声は、自分でも情けないくらい小さかった。フィンは工具箱の上に海図と紙を並べた。


「リエゾンは順番が見えてない。SSは、その前だ。目の前のもんで手一杯になってる」


 アリスは何も言えなかった。


「今日はここまでだな。明日もやるぞ」


「……はい」



 ◇◇◇◇◇



 部屋へ戻った頃には、もう日が落ちていた。ベッドに腰を下ろすと、そのまましばらく動けなかった。頭の中で、さっきの灯台や黒い岩がまだ散らばったままだった。飛び始めた途端に、全部飛んだ。


 ……全然、駄目だ。


 口に出した途端、余計に息が詰まった。昨日の高揚は、もう消えかけていた。そこまで考えて、アリスは唇を噛んだ。やめたい、とは言えなかった。


 窓の外で、波の音がしていた。ベッドへ倒れ込んでも、目を閉じると灯台と黒い岩と白波が、ばらばらに浮かんだかと思えば、消えていく。


 ……私で、よかったのかな。


 ただ、明日もまた同じところで止まる気しかしなかった。



 ◇◇◇◇◇



 次の日も、その次の日も、うまくはいかなかった。朝は短いリエゾンを飛び、戻れば海図を広げた。午後は海岸線へ出て、夕方には紙とにらみ合った。無線で止まり、見込みで詰まり、SSではまた次が飛んだ。


「違う」


「遅い」


「その先だ」


「今のままだと足りん」


 フィンの声は毎回同じだった。詰まれば切り直し、止まればもう一度やらせる。夜になるたび、アリスは紙を前に座り込んだ。昼間の飛行を思い返して、どこで止まったのかを辿ろうとする。ここで無線を聞いた。そのあと時計を見た。そこまでは思い出せる。その先が、どうしてもつながらない。


 エントリーは済んでいる。ここまで来たらもう引き返すことはできない。いずれ、北大陸へ渡る日は来る。その日までには——と、膝の上の拳に力が入った。



4/17 日程にミスがあり最後のパート削りました。失礼しました。

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