第16話 契約2
「ちょっと盛り上がったけど、ここからがうち《FPW》の話よ」
机の上の図面を指先で叩きながら、カリーナは今度はきっぱりした口調になった。
「まず塗装。これはさっき見せた通りね。白の印象は残したまま、差し色で締める」
「ああ、それがいい」
「で、そこに絡む話がもう一つあるのよ」
「……もう一つ?」
「アリス、貴女がこのチームのトップスポンサー様よ。機体のどこかに、大きな意匠を入れる権利があるわ」
「え? 私がですか?」
「聞いてなかった? フィン、何やってんの?」
「すまん」
「フィンが忘れているのは仕方ないけど、マヌエラさんまでご存じないとは……」
「すみません。機体周りはフィンに任せきりで、優先度が落ちていました。広告効果の話でしたね、確認が漏れていました」
すっかり呆れたものを見る目で、カリーナは肩を竦めた。
「一晩置いてもいいわ。入れたいものがあれば教えて」
ベアトリーチェがふっと笑う。
「尾翼かノーズに女神のデザインを入れてもらえれば? 実際、サルティーナじゃもう幸運の女神って呼ばれてるそうじゃない。話題になればルナの宣伝にもなるし、悪くないでしょ」
マヌエラが帳面から顔を上げて言う。
「ええ。サルティーナでは、わりと本気でそういう扱いですよ。機体の広告としても、話題になれば悪くありません。本人は嫌がりますけど」
「あら、ならなおさら相応しいわ」
「えええ、その話はやめてください」
「まあ、機体は広告塔だから、スポンサーが埋めるのよ。幸運の女神像の図案ならいくつかあるから、後で見せる。その中から選んで」
アリスが真っ赤になっているのを見て、カリーナはわざとらしく咳払いを一つした。
「じゃあ、改めてサポート内容ね。胴体と翼には手を入れる。エンジンとプロペラもレース用に合わせるし、計器まわりとコ・パイ側、それにトイレ移設まで含めて、機体はまとめて見直すわ」
アリスは思わず目を瞬かせた。ひとつひとつの意味は分からない。けれど、今まで乗ってきたガネットがそのままではいられないのだということだけは伝わってくる。
「詳細はこっちの書類を見て。ざっくり契約として機体はうちがまとめて面倒を見るって認識でいいわ。機体周りの仕様は父と話した方が早いわ」
「その前に確認を」
マヌエラが帳面をめくった。
「どこまでが契約内で、どこから先が追加負担になるんですか?」
「塗装、機体側の改修、計器と無線の追加、そこまでは込み。大会に必要な標準装備も込み。消耗品と、予備部品の細かい積み増しは都度相談ね」
「分かりました」
マヌエラは短く書き込み、続けて問う。
「引き渡し前の確認は?」
「ベンチで初期慣らしまではうちでやっておくわ。そこはチューナーの責任。試験飛行以降は、飛行での慣らしも含めてお願い」
そこでベアトリーチェが口を挟んだ。
「試験飛行の時点で、こちら側の人員も立ち会えますか?」
「ええ。むしろ立ち会ってもらうわ。乗り手と整備側で、そこで一度噛み合わせたいもの」
フィンが腕を組んだまま口を挟む。
「整備やエンジンの載せ替えとか、ルナの整備班でできるのか?」
「今うちで勉強中ね」
カリーナはあっさり答えた。
「機体を受け取ったら、最初の載せ替えと配線の引き直しはうちでやるわ。その時にルナの整備班にも横に付いてもらって、手順を覚えてもらう」
エンツォが短く頷いた。
「それでいい」
「日々の点検と軽い調整はルナの整備班、重い判断と大きな作業はこっちで受けるわ。最初から全部は任せない」
「分かった、それならいい。まあ急造チームだからな、すり合わせていくしかない。そこはエンツォたちの経験に期待だ」
エンツォが短く鼻を鳴らした。
「急造ってのは否定しねえが、機体を見る限り本気なのは分かる。それなら付き合うさ」
ひと通り話がまとまりかけたところで、事務所の扉が遠慮なく開いた。
「まだ終わらんのか」
顔を出したのはおやっさんだった。油で汚れた手を布で拭きながら、机の上の書類と図面をひと目で見回す。
「大筋は済んでるわよ。今、細目を詰めてるところ」
カリーナが答えると、おやっさんは鼻を鳴らした。
「なら手短にな。格納庫で説明することも山ほどある。先に一つだけ言っとくが、必要な部品はもうこっちで押さえてある」
フィンが眉を上げる。
「こっちの意向は関係なしかよ」
「聞く気がねえわけじゃねえ。だが、間に合うよう先に手を打っとるだけだ。嫌なら今ここで言え」
急かされるように、机の上の書類へ視線が戻る。そこでマヌエラが帳面を閉じた。
「でしたら、先に金額と契約条件を固めましょう。後で食い違う方が面倒です」
「その前に、こっちの金の話だ」
おやっさんは机の端を指で叩いた。
「概算は先に伝えとく。後で細かく清算するが、前金で二百入れろ。ほとんど部品代だ。一部はスポンサーから現物で入る。そこはカリーナ、後でリストを渡せ」
「もうまとめてあるわ。後で控えを回す」
フィンは一瞬だけ黙った。用意できないわけではない。だが、カツカツなのは変わらない。
アリスは黙って数字を頭の中でなぞった。あの宝石を手放して得た金が、こうして一つずつ形に変わっていく。二百は軽い額ではない。けれど、惜しいとは思わなかった。
「……分かった」
「ガソリンとオイルはスポンサーを打診中だ。相手が大手でな、返事待ちだ」
「そりゃ助かる」
「では、燃料まわりは返事待ちで仮置きですね」
マヌエラが帳面に書き込みながら言う。
「次に機体を入れる頃には決まるだろう。俺の工賃はスポンサー扱いで動く。半分でいい。カリーナの分は勉強代わりだ。タダでいい」
言った瞬間に、おやっさんは軽く咳払いした。少し口が滑ったと思ったらしい。前にフィンたちが来た時から、もう腹は決めていたのだろう。レース機を仕立てる仕事が戻ってきたことが、この親父にとっても待ちわびた話だったのかもしれない。
マヌエラはすぐに帳面へ視線を落とす。
「前金二百。部品代中心、一部現物支給。工賃は減額扱い、細目は後清算ですね」
「そういうこった」
カリーナが契約書を引き寄せた。
「じゃあ、こっちの分はここで締めるわよ。細目は今確認した通りでいいわね?」
マヌエラが最後に帳面と見比べ、頷く。
「ええ、問題ありません」
フィンとカリーナが署名を入れる。ベアトリーチェはその脇で黙って成り行きを見ていた。書類が封筒へ戻されたところで、ようやくカリーナが息を吐いた。
「これで契約は済んだわね」
「最初からそう言っとる」
おやっさんはぶっきらぼうに返すと、顎で外をしゃくった。
「ほら、来い。口で聞くだけじゃ分からんだろうが」
今度は誰も止めなかった。促されるまま、一行はそろって格納庫へ向かった。
◇◇◇◇◇
シャッターの奥では、分解途中の機体や部品箱が脇へ寄せられ、空いた一角に大きな机が据えられていた。図面、計器、巻かれた配線、金属の鈍い光を返す部品が、その上に整然と並んでいる。奥の棚には番号札を付けられたエンジン部材が収められ、隣の台には洗浄と計測を終えた主要部だけが並んでいた。
「これが載せるやつの元だ」
おやっさんが顎で示す。
「フルチューン用に揃えた部材一式だ。まだ組む前だが、ここから仕上げる。エントリーが済んだら来い。それまでに組み上げて、ベンチで初期慣らしまで済ませておく」
フィンは無言で近寄り、並んだ部材を見渡した。
「で、結局どこまでやる?」
「どこまでじゃねえ。やるべきところをやる」
おやっさんは鼻を鳴らし、机の上の図面を指で叩いた。
「まず胴体だ。鉄で入ってる部品は、強度を見ながら同形状のアルミに置き換える。余計な金具は外す。見栄えは変わらんが、積み重ねりゃ効く」
「地味ねえ」
カリーナが横から笑う。
「でも、こういう地味なのが最後に効いてくるのよ」
「翼は補強を入れる」
おやっさんは続けた。
「ただ硬くすりゃいいって話じゃねえ。軽くて、硬くて、なおかつしなる翼にする。硬いだけじゃ力を逃がせん。速度が上がれば、今まで平気だったところに負担が来る。その負担を受け止めて、逃がすところまで考える」
フィンは黙って頷いた。
「エンジンも同じだ。回りゃいいってもんじゃねえ。回して、壊れず、持たせる。そこまで含めて仕立てる」
「どこまで回せる?」
「上は三千五百まで回るはずだ。だが常用は三千までだな」
「ペラは変えたのか?」
「変える。それに減速比も見直す。プロペラの長さも減速比も、二千八百あたりで最大効率が出るように合わせてある。言ったようにそれ以上もエンジンは回るが、効率は落ちていく」
「設計上の最大速度は?」
「高度一万フィート全開で二百六十ノット、ダイブで三百二十ノットまでは保証する。フルダイブならそれ以上出るだろうが、危険と引き換えだな。引き起こしで分解しちゃ元も子もない」
「そうか。前より一割以上は速いな」
「おう、軽量化と出力アップが効くからな」
アリスは部材の並ぶ棚をぼんやり眺めながら、話の半分も理解できていなかった。ふと手を伸ばした部品は、見た目の重厚さに反して驚くほど軽く、指先に冷たかった。ただ、強い部品を積む話ではなく、機体全体の噛み合わせを作る話だということだけは伝わってくる。
「エンジンの次はコクピットだ。操縦席は触るところはないよな?」
「ああ」
おやっさんは机の上の図面を指した。
「なら後席だ。左後ろはそのままアリスの航法席でいく」
「問題ない」
「航法席は大会用のビーコン受信、長距離無線、それに計器の見直しと盛りだくさんよ」
カリーナが受け、おやっさんが続ける。
「大事な話だが、トイレは貨物室の前方へ移す。お嬢さんが乗るのに何時までもオープン席はないからな」
「そりゃ助かるな」
フィンは安心したように言う。アリスも内心で深く息を吐いた。初めての空旅であの問題に直面して以来、ずっと気がかりだったのだ。口には出さなかったが、正直なところ一番ありがたい改修だった。
「空いた場所は座席を戻し三座にする」
フィンの眉がぴくりと動いた。
「戻してどうする?」
「非常時用の操縦席にする。クラス2でこの距離を飛ぶんだ、一人が倒れた時の手段がゼロってのは俺が許さん」
「待て、誰か載せるのか? アリスにはそこまで教える時間がないぞ。今でさえ、やることが多すぎる」
フィンの声が低くなる。無意識に、視線が一瞬だけアリスの方へ動いた。
「誰も乗せんし、アリスにもさせん」
おやっさんは即座に切った。
「と言いたいが、非常時に後ろで何も触れんのは話にならん。最低限、方向を変える、スロットを絞る程度はできるようにさせろ」
フィンは腕を組んだまま、図面の上へ視線を落とす。
「……本当に必要か?」
「考えてみろ、お前が意識を失った瞬間に、終わりだぞ?」
「……俺より先にアリスが気絶するだろ?」
「そんなのわからんさ、生還する可能性は数%でもあげるのは意味がある」
おやっさんは図面の右後席をタップする。
「お嬢ちゃんは何かあったらフィンを補佐するんだ。コ・パイとはそういうもんだ」
アリスは思わず息を呑んだ。
「本当に、そこまでやるんですね……」
カリーナがにやりとする。
「言ったでしょ。やるって決めたらやるのよ」
フィンが今よりずっと速い機体に乗る。その機体の後ろ席で、自分は補佐をする。言葉の半分も理解はできない。けれど、その役目だけははっきりと伝わってきた。
「前にも言ったが、勝ちたいからって馬鹿な賭けはしねえ。まず最後まで飛べることだ。その上で、詰めるところはきっちり詰める」
フィンは短く頷いた。
「ああ。それでいい」
アリスは格納庫の機体を見つめた。今日一日で、チームはもう動き始めていた。
あとは、自分たちの名前を書類に載せるだけだ。




