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碧海のサルティーナ  作者: あんさん
第2章 始動
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第14話 雑音

 入口に立っていたのはルーカスだった。後ろに見知らぬ男がいる。

 相変わらず隙のない身なりで、鼻につく余裕を身に纏っている。


「あーあ、寄せ集めて、持ち寄って、応援ごっこか? ストラトス・グランプリってのは、いつからそんな温い遊び場になったんだ?」


 店の空気がぴりついた。

 フィンは椅子に座ったまま顔を上げる。


「何しに来た」


「挨拶だよ。俺も出るからな。もっとも、お前とはクラスが違うせいで競えないけどなぁ」


「競えないなら関係ないだろ、なおさら帰れ」


「つれないな。せっかく顔を見せてやったのに」


 ルーカスは肩を竦め、顎をしゃくって後ろの男を呼び寄せた。


「もっとも、こいつは同じクラスだぜ。気を付けるんだな。随分とお前をライバル視してるぞ」


 前へ出てきた男は、痩せぎすの体に高そうな上着を引っかけ、蛇みたいに細い目で店内を舐めるように見回した。口元だけが妙に歪んでいて、笑っているのに全く愛想がない。


「久しぶりだな、死にぞこない」


 ねっとりした声だった。


「ちっ、ヴィペラ《毒蛇》かよ。お前ら、ツルんで何企んでやがる」


 その名を聞いた途端、店の何人かがあからさまに嫌そうな顔をした。

 アリスはこの男が、ただ感じが悪いだけではないことを理解した。嫌われ慣れている人間の空気をしている。


 アリスはフィンにだけ聞こえる声で囁いた。


「……フィンさん?」


 フィンは視線を前から外さないまま、低く返す。


「軍時代の知り合いだ。そりが合わずに取っ組み合いになったこともある。粘着質で危ないやつだ。相手にするな」


 アリスは眉を寄せ、露骨に嫌そうな目を向けた。

 ヴィペラ《毒蛇》はそんな視線など意に介した様子もなく、肩を揺らして笑った。


「人聞きが悪いな。話がうまくまとまってな。一緒のチームで出るだけだ。なあルーカス?」


 ルーカスは軽く笑う。


「運よく利害が一致しただけさ」


「それにしてもお前は相変わらず愛想がねえなぁ。昔からそうだったが」


「お前らとは馴れ合う趣味はねえよ」


 ヴィペラ《毒蛇》の目が、今度はアリスの上で止まった。

 値踏みするみたいに、頭の先から足元までじろじろと眺める。


「へえ、本当に連れてるじゃねえか。噂じゃ聞いてたが、こんな別嬪さんをコ・パイにするとはな」


「見世物じゃありません」


 アリスが冷たく返すと、ヴィペラ《毒蛇》は面白がるように目を細めた。


「気も強いのか。そりゃ長旅も退屈しないだろうな」


 アリスの眉がぴくりと動く。


「で、どうなんだ? レース中もよろしくやってんのか? 長旅だしな。同じ機体で寝起きしてりゃ、退屈しのぎくらいにはなるだろ」


 店の空気が一気に冷えた。


 フィンが椅子を鳴らして立ち上がる。

 その動きは速くはなかったが、静かすぎて逆に怖かった。


「その口を閉じてろ」


 低い声だった。

 さっきまでの応酬とは明らかに温度が違う。

 ヴィペラ《毒蛇》は面白がるように口角を上げる。


「なんだ、図星か? 機体の中でよろしくやってるってんなら、別に驚きはしねえが──」


 言い終わる前に、カウンターの奥でジュリアが皿を強めに置いた。乾いた音が店内に響く。


「下品な話なら外でやってくれる?」


 笑っていない声だった。

 ヴィペラ《毒蛇》は肩を竦める。


「おっと、怖い怖い」


 それでも口元は緩んだままだ。

 その視線がなおもアリスにまとわりつくのを見て、マヌエラが帳面を閉じた。


「お帰りはあちらです。うちは今、忙しいので」


「うっへー、キツイねぇ」


 ルーカスがわざとらしく両手を上げる。

 マヌエラは視線も動かさない。


「ええ。貴方バカに割く時間があるなら、書類を一枚でも片づけたいので」


 店の隅で何人かが噴き出しかけ、慌てて咳払いで誤魔化した。

 ヴィペラ《毒蛇》だけはなおも居座るようにフィンを見たが、今度はマイケルが無言で一歩前へ出る。倉庫仕事で鍛えた肩と腕が、黙っていても十分な圧だった。


「聞こえなかったのか?」


 短い声で言う。

 さすがにそこで、ヴィペラ《毒蛇》も舌打ち混じりに踵を返した。


「……へいへい。寄せ集めにしちゃ威勢だけはいいな。ま、レースでは後ろに気をつけろよ」


 ルーカスも肩を竦めて後に続く。


「まあいい。せいぜい恥をかかない程度には形にしろよ」


 去っていく背中を見送りながら、フィンは鼻を鳴らした。


「相変わらずだな」


 アリスはまだ腹の奥に残る不快感を押し込みながら、小さく息を吐いた。ジュリアが何も言わず、目の前に水の入ったコップを置く。


「……ありがとうございます」


「悪いな、ジュリア。俺のせいで迷惑かけた」


「謝罪はいらないわ。ああいうのは店に持ち込まれると迷惑なの」


 そう言いながら、ジュリアの目は少しだけ優しかった。


「……ああいう人も、同じレースに出るんですね」


「出るだろうな。速けりゃ出るし、金があっても出る。性格までは審査しねえよ」


 アリスは小さく息を呑んだ。

 夢の舞台だと思っていた場所が、急に生々しく感じられる。


 マヌエラが帳面を開き直す。


「嫌がらせに付き合ってる暇があるなら、書類を一枚でも片づけましょう」


 誰も冗談めかして返さなかった。

 その場の全員が、マヌエラだけは本気だと分かっていた。


 ◇◇◇◇◇



 翌朝、事務所の机には昨夜の続きを待つ書類の束がそのまま積まれていた。

 付箋が貼られ、島側で埋められる欄と、北大陸へ行かなければ確定できない欄とがきっちり分けられている。


 マヌエラは眼鏡の位置を直し、真っ先に切り出す。


「島側で埋められる欄は、ほぼ埋まりました。残るのは北大陸側──正式な契約書、サポートチームの最終名簿、責任者の記載です」


「ああ、後はエンツォたちに会ってからだな。急ぎの仕事も無いし明日にでも行ってくる。電報を打っておこう」


 フィンが言うと、マヌエラは首を振った。


「書類仕事をフィン一人に任せる気はありません。契約には私が行きます」


「私も行っていいですか?」


 アリスが言うと、マヌエラは頷いた。


「ええ。もちろん。一緒に来てもらわないと駄目だもの」


「三人で行くなら旅客便だな。次の就航便は何時だっけ」


「そうじゃありません」


 マヌエラは即座に切って、トーノへ向き直った。


「トーノ、貨物室に補助シートを取り付けられる?」


「予備のシートはありますし、貨物室のレールに固定すりゃ形にはなります」


 トーノはそこで少し言いよどみ、困ったように頭を掻いた。


「……ただ、あくまで応急です」


「やめとけ。貨物室なんて乗れたもんじゃない」


 フィンがすぐに口を挟む。


「揺れるし、うるさいし、落ち着く暇もない。人を長時間乗せる場所じゃねえ」


「移動できればいいんです」


 マヌエラは即答したが、顔は明らかに嫌そうだった。


「非常に不本意なのだけど、それで行くわ。旅客便でのんびり動くほど余裕も予算もないもの。それにアリスの練習時間はいくらあっても足りないでしょ?」


「そりゃ、まあそうなんだが……悪いことは言わん、旅客便にしよう。必要経費だ」


「時間も経費です」


「身体も経費だろ」


「そこは気合いで何とかします」


「無茶を無茶で押し通すなよ」


 フィンがかなり渋っているのを横目に、マヌエラはトーノへ話を戻した。


「で、今日中には取り付けられる?」


「半日ももらえりゃ、取り付けます」


「じゃあ、それでお願い。明朝出発にしましょう」


「いや、でも……」


 翌日出発だと決まると、あとは早かった。

 結局マヌエラに押し切られたフィンは、機体をタイド整備工房へ回送する。

 トーノはその日のうちに補助シートを取り付け、マヌエラは帳面と睨み合いながら必要な控えを揃え、サポートチームと詰めるべき事項をまとめ上げた。



 ◇◇◇◇◇



 翌朝、三人はガネットに乗り込み北大陸へ向かった。

 南の島を発ってから、海と雲しか見えない時間が延々と続く。前席のフィンとアリスはまだいい。だが後ろの貨物室に押し込まれたマヌエラにとっては、空の旅というより、延々と揺すられ続ける苦行でしかなかった。


 夕方、ようやく北大陸の水路へ降り、係留を終えて地面に足をつけた瞬間、マヌエラは無言で眼鏡を外し、こめかみを押さえた。


「……二度と嫌です」


「帰りもあるぞ。諦めて旅客便で帰るか?」


 一拍置いて、マヌエラの動きが止まった。


「……今さら旅客便に変えるのも癪です」


「無駄な意地だな」


「承知の上です」


 言い切ってから、マヌエラは深く息を吐いた。


「私が選んだ手段とはいえ、最悪でした。揺れるし、寒いし、うるさいし、書類は膝の上で暴れるし、こんなの人が乗る環境じゃありません」


「トーノが気を使って、一番旅客よりのシートにしてくれただろ」


「ええ、そこは認めます。椅子そのものは悪くありません」


 マヌエラは眼鏡を掛け直しながら、じろりとフィンを見る。


「その上で最悪なんです。貨物室に人を詰め込んで長距離飛ばすこと自体が間違ってます」


「だから旅客便を勧めたんだが」


「却下したのは私です。そこは認めます」


「なら文句は言うなよ」


「言います。判断が正しかったことと、最悪だったことは別です」


 アリスは思わず口元を押さえた。


「……すみません」


「謝らなくていいわよ」


 そこまで言って、マヌエラはもう一度深く息を吐いた。一通り文句を吐き出して、それで終わりらしい。服の皺を軽く払う。


「──で、書類は無事です。私も一応無事です。今日は食事とシャワーを済ませて休みます。続きは明日です」


 フィンは鼻を鳴らした。


「そうだな」


「分かりました」


 そうして三人は荷を持ち直し、夕暮れの水路沿いを宿へ向かった。



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