第12話 チーム
サルティーナ諸島を発ってから、ほぼ一日。
双発機は休みなく北へ飛び続け、やがて水平線の向こうに陸影が浮かび上がった。北大陸──アリスにとっては、つい先日お忍びで逃げ出した、懐かしくも因縁深い故郷だ。
港湾のクレーン、煤けた倉庫群、運河沿いに並ぶ工場の屋根。以前はただ見知らぬ景色として目に映ったそれらが、今は帰ってきた場所の輪郭として胸に迫ってくる。懐かしい、というには落ち着かず、怖い、というにはもう遅かった。
「……こんなに早く帰ってくるとは思わなかったわ」
その呟きは、感慨深いものでありながら、どこか潜むような響きを持っていた。逃げるためではない。隠れはするが、今回は自分で選んでここへ来た。
フィンは計器に目を落としたまま、静かに応じた。
「そのための変装だ。遠目には飛行機乗りにしか見えん。堂々としていろ」
「……堂々と?」
「少なくとも、お嬢様みたいな歩き方はするな。この辺りじゃ、見慣れない顔はすぐ浮く」
パイロットスーツの裾を握る指先に、かすかに力がこもる。長い髪はまとめてカツラの下へ押し込み、透けるような肌にはジュリアが日焼けしたように見える化粧を施してくれていた。遠目には、まずアリスだとは気づかれまい。
やがて機体は運河に着水し、水路を滑って『フォージド・プライド・ワークショップ』の前に横付けされた。
プロペラの回転が止まると同時に、格納庫の影から二人の人影が飛び出してきた。
アリスは言われた通り、優雅に見えないよう気をつけながらタラップを降りる。懐かしい顔ぶれを前に頬は緩んだが、胸の奥には別の緊張が残っていた。
真っ先に駆け寄ってきたのは、作業服姿のカリーナだった。彼女はアリスの顔を見るなり、いたずらっぽく笑って手を振った。
「元気そうで安心したわ。サルティーナで優雅に保養してるのかと思ったら、まさかフィンと組んで飛んでくるなんて」
「お久しぶりです、カリーナさん。……最初の飛行が、思った以上に忘れられなくて」
「それでフィンに食らいついたのね?」
「ええ。かなり無理を言いました」
「はは、そりゃ電報を読んでから落ち着かないはずだわ」
フィンもタラップを降り、片手を上げた。
「元気そうで何よりだ。……で、フィン」
低い声でそう言ったのは、おやっさんだった。
「電報の件、詳しく聞かせてもらおうか。立ち話も何だ、中へ入れ」
「了解、おやっさん」
FPWの事務所は、油と紙の匂いが染みついていた。
部屋の隅には使い込まれた工具箱が積まれ、窓際には読みかけの技術誌まで無造作に置かれている。初めてここへ来た時には油臭くて息苦しいだけだったが、今のアリスには不思議と落ち着く場所に思えた。
椅子に腰を下ろしたフィンは、回りくどい前置きを省いて言った。
「おやっさん、カリーナ。電報で伝えた通りだ。俺はストラトス・グランプリに出る。クラス2でな」
「クラス2か。派手なところへ行くな。派手ってだけじゃねえ。あれは金食い虫だ。資金はどうした」
「一番の問題は金だったが、目処は立った。……アリスの協力がなければ無理だった」
そう言ってフィンは一度だけアリスを見た。おやっさんの眉がぴくりと動く。
「……なるほどな」
おやっさんはアリスをまっすぐ見た。
「覚悟はあるか」
一拍置いて、アリスは頷いた。小さくではあったが、視線は逸らさなかった。
「よし」
おやっさんは口元を緩める。
「出るってんなら、うちも協力は惜しまねえ。カリーナ、応募要項を持ってこい」
カリーナが持ってきた書類を机に広げる。
「締切は一ヶ月後。本番は三ヶ月後か」
「ああ。機体登録と、パイロットにナビゲーターの申請が必要だ。急がなきゃ間に合わん」
「選考は?」
「お前なら通るだろうさ」
おやっさんはそこで一度言葉を切った。
「……嫌な言い方になるが、実績ってやつがあるからな」
「軍歴か」
フィンが舌打ち混じりに吐く。
「どこまででもついてくるな」
「そりゃそうだ。世間様にとっちゃ、お前は英雄様だ」
「やめろ」
今度は、はっきり嫌そうだった。
「あれは俺一人の話じゃない」
おやっさんは肩をすくめた。
「世間は、そうは見ねえさ」
◇◇◇◇◇
「で、肝心のサポート部隊だが……ちょうど運河の向こう側に連中が来ている。あいつらを使えるだろ」
「あいつら?」
「ああ、ストラトス・グランプリの常連なんだが、今年はちょっとな。行けばわかる」
おやっさんに促され、一同は運河沿いの別の区画へと向かった。そこには、一機の中型貨物機が翼を休めていた。機体には、三日月の紋章が描かれている。
「おい、エンツォ! 居るか? 話がある!」
おやっさんの怒鳴り声に、貨物機のハッチから這い出してきたのは、煤けた顔の屈強な男たちだった。
「おやっさんか……悪い、今は立て込んでる」
エンツォと呼ばれたリーダーが現れ、油で汚れた手で額の汗を拭い、力なく吐き捨てた。
「雇い主のスポンサーが倒産してな。チームは解散だ。機材もスペアも揃えてたのに、今じゃ倉庫代のかかる重りだよ」
機体の塗装はところどころ剥げ、腹の下には仮補修の跡が見える。それでも放り出された感じはなかった。使い込まれてはいるが、まだ飛ぶ機体だ。ハッチの周りに集まった男たちの顔つきにも、投げた空気はなかった。金が尽きただけで、腕まで鈍ったわけではない──そうフィンには見えていた。
「……機材を売る気はないんだろう?」
フィンの問いに、エンツォが鋭い眼光を向けた。
「当たり前だ。……だが、倉庫に置くにせよ、翼を動かすにせよ金がかかる。今年はこのまま、倉庫の肥やしにするしかなさそうだ」
「それなら、俺たちと組まないか。ストラトス・グランプリ、クラス2でエントリー予定だ。……俺は今、優秀なサポートチームを探している」
その場の空気が変わった。
「……正気か?」
エンツォが一歩近づく。
「クラス2だぞ。生半可な体制じゃ話にもならん」
「正気だ」
フィンは目を逸らさない。
「機体はある。資金も、潤沢じゃないが目処は立てた。あとは現場を回せるサポートが要る」
フィンが右手を差し出す。エンツォはすぐには握らず、その手を見た。
「……話は悪くない」
「なら」
「だが、こっちにも人数がいる。情で飛べる話じゃねえ」
その時、隣の女が一歩出た。
「条件があります」
ベアトリーチェと呼ばれた女がノートを開いた。
「私たちは十人。人も機材も一式あります。受けるなら、サポートチームとして正式にエントリーすること。それと契約料」
「いくらだ」
「五百」
アリスは思わず息を呑んだ。宝石を手放して捻り出した金額が頭をよぎる。
「そりゃ前の契約額だろ?」
「ええ。だから下げるわ。四百五十」
彼女は淡々と言う。
「これでも利益はかなり削ってる。さすがに持ち出しで飛ぶ気はないの」
アリスは黙ってその数字を頭の中でなぞった。自分が差し出した金が、こうして具体的な人員と機材の単位に変わっていくのを聞くと、ようやく“スポンサー”という立場の重さが実感できた。
フィンはしばらく考えてから口を開く。
「……わかった。二週間後、もう一度ここに来る。その時に正式に契約しよう」
改めて差し出したフィンの手をエンツォが固く握った。
「フィンだ」
「エンツォだ、よろしく頼む」
フィンはおやっさんを見る。
「立会人を頼めるか」
「おう」
「紹介する、コ・パイのアリスだ」
アリスは一歩前へ出ると、教えられた通り簡潔に頭を下げた。ぎこちなさは残るが、少なくとも以前のようなお嬢様然とした所作ではない。
「このお嬢ちゃんがコ・パイ? お前正気か?」
エンツォは目を丸くする。
「あいにく正気だ、こう見えて俺に認めさせるくらい根性あるぞ。何よりスポンサー様だ」
「マジか……ふぅ、まぁ良いだろう、俺らを飛ばさせてくれるのなら悪魔とだって手を取るさ」
それで、ようやく輪郭だけは見えた。
フィンとアリスだけだった挑戦に、チームの形が生まれ始めていた。
◇◇◇◇◇
事務所へ戻るなり、カリーナが身を乗り出した。
「それで、監督はどうするの?」
返事を待たずに続ける。
「私にやらせて。ルナの連中が腕利きなのは分かる。でも、フィンの機体を一番知ってるのは私よ」
フィンはすぐに首を振った。
「反対だ」
「どうして!」
「監督は機体を見るだけじゃない。人も工程も止める役だ。お前は感情で突っ走る」
おやっさんも腕を組み、唸るように言った。
「俺もフィンと同意見だな。お前にはまだ早い」
カリーナは唇を噛んだ。反射的に言い返しかけて、それを飲み込む。悔しいのは確かだったが、フィンの言うことにも覚えがないわけではない。機体のことになると、自分が視野を狭くするのは誰より自分が知っていた。
その沈黙の横で、アリスが静かに口を開いた。
「……私は、カリーナさんに賛成です」
全員の視線が集まる。
「アリス、何を言ってる」
「ストラトスは、フィンさんの夢です。でも、私にとっても挑戦です」
アリスはフィンから視線を逸らさなかった。
「私はフィンさんの操縦を信じています。ですが、このチームには、フィンさんに遠慮なくブレーキをかけられる人が必要です。カリーナさんなら、それができます」
スポンサーとしてのその一言は、軽くなかった。
フィンは天を仰ぎ、深く息を吐く。
「……わかった。だが、いきなり本採用じゃない」
カリーナが身を乗り出す。
「この一ヶ月で見せろ。人をまとめて、工程を回して、チームを機能させられるってな」
「望むところよ!」
カリーナは不敵に笑い、アリスと力強く視線を交わした。
「もちろん、うちもただ働きじゃねえぞ」
「分かってる。そこも含めて組む」
おやっさんは鼻を鳴らしたが、口元は少しだけ緩んでいた。
◇◇◇◇◇
外へ出ると、運河の水面が夕陽を受けて赤く光っていた。
まだ契約書に判を押したわけではない。機体も、金も、人も、これから詰めなければならないことだらけだ。
それでも、フィンとアリスだけだった挑戦は、もう二人きりの話ではなくなっていた。
「一ヶ月だな」
フィンの呟きに、アリスは頷く。
「ええ。ここからですわ」
穏やかな返事だった。だがその声には、島を飛び出した時にはなかった芯があった。
ストラトス・グランプリへ向けたチーム作りが、北大陸で静かに動き始めていた。




