第11話 スポンサー
更新がかなり遅くなりましたが、再開します。
歓迎会の喧騒は、夜が更けるとともにさらに熱を帯びていた。テーブルには地元の酒と魚料理が並び、ランプの灯りが集まった面々の顔を赤く照らしている。
しかし、壁に張り出された一枚のポスターが放つ存在感は、その酔いをも醒ますほどに強烈だった。
「ストラトス・グランプリ……」
アリスはその文字を指先でなぞる。極彩色で描かれた飛行艇たちが、雲を切り裂いて進む様は、彼女がこれまで知っていた穏やかな「空」とは決定的に違っていた。
「そう、正式名称を『インターストラトス・グランプリ・チャンピオンシップ』。二年に一度開催される空の祭典よ」
マリエッティが、自慢げに胸を張って解説を始めた。彼女の瞳には、真剣な鋭い光が宿っている。
「世界中から腕利きが集まる大イベントで、今年はここ、サルティーナ諸島が舞台なの。何日も掛けて各地を飛び回り、スピードやナビゲーション能力を競うのよ。規模も大きくて、地域全体がこの熱狂に浮かされるの!
ちなみに――私も出場する予定よ」
「えっ! 本当ですか? 凄い……!」
アリスが身を乗り出す。マリエッティは少し照れくさそうに笑った。
「女性パイロットは数少ないから、運よくスポンサーが付いてくれてね。機体の整備費と燃料代を持ってもらえることになったの。ラッキーだったわ……」
「でもフィン、あなたストラトス・グランプリのことをアリスには話してないの?」
ふいにジュリアが話題を振った。カウンターの隅で黙々と地図を眺めていたフィンは、一瞬だけ顔を曇らせたが、すぐに平静を装ってグラスを傾けた。
「おい、ジュリア。せっかくの歓迎会だ、そんな話はいいだろう」
「何よ、隠すことじゃないでしょうに。アリスにも教えてあげなさいよ」
フィンはあまり触れられたくないのか返事をしなかったが、ジュリアは構わず話を続ける。
「フィンも昔から出たがっているのだけどね、まだ準備が整ってないのよ。あいつ、自分の古い愛機にこだわりすぎていてね。最新のエンジンに載せ替える金もなければ、予備のパーツを買う余裕もないんだから」
「おい、やめろって……」
フィンは苦笑いしながら手を振ったが、流石にアリスも普段の彼の態度でないことは感じていた。いつもは冷徹なまでに冷静な彼が、今はまるで図星を突かれた子供のように視線を泳がせている。
「素敵ですね……。こんな大きなレースに出場するのが夢なんて、素晴らしいです」
それでもアリスが感嘆すると、フィンは自嘲気味に鼻で笑った。
「夢としては素晴らしいかもしれないが、現実は厳しいもんさ。参加費用も機体の調整費用も、何もかもが足りないんだ」
「フィンも資金を貯めているのだけど、まだ参加費用の半分にも満たないって聞いているわ。だからまぁ、今回は諦めるんじゃないかな?」
ジュリアが追い打ちをかけるように言うと、マリエッティも残念そうに頷きながら続ける。
「それにフィンが出場できても、私とはクラスが違うのよね。私は単発のクラス1だけど、フィンの機体だと双発だからクラス2。あそこは『モンスター・クラス』とも呼ばれる激戦区よ。一人で御すには荷が重すぎる場所だわ」
「出られたら!の話だよ。でも俺にはまだ無理だ。金も準備も、山積みなんだ」
「それで――出場するのには、資金はどれくらい必要なのですか?」
アリスの静かな問いに、フィンは天井を仰ぎ、指を折りながら計算し始めた。
「エントリーフィーだけで金貨百枚だ。燃料やオイル代に百枚、事前整備に百枚。諸経費などで五百枚。さらにサポートチームの雇用やスペアパーツ……諸々合わせれば、最低千枚ってとこだろうな」
千枚。この島で慎ましく暮らすなら、一生を遊んで暮らせるほどの額だ。
「そんなに必要なのですね……」
アリスはしばらくポスターを見つめた後、何かを決意したようにフィンの方へ向き直った。その瞳には、今まで見せたことのないような、澄み渡った、しかし強固な光が宿っていた。
「私が残りを負担するなら、一緒に挑戦してくれますか? 条件は、私が同乗することです」
「……は?」
フィンは一瞬、何を言われているのか理解できなかった。呆然とする彼を横目に、アリスはジュリアに声をかける。
「ジュリアさん。この街で、宝石の買い取りをして貰える店を知っていますか?」
「えっ? ええ、本通りに大きな宝石店がいくつかあるけど……まさか、アリス?」
「ありがとう、ジュリアさん。……フィンさん、明日の午前中、ちょっと付き合ってください」
歓迎会の喧騒が遠のいていく中、アリスの揺るぎない声だけが、フィンの耳に残っていた。
◇◇◇◇◇
翌朝。潮風が心地よく吹き抜ける中、案内されたのは、街でも一際重厚な石造りの高級宝石店だった。臆することなくアリスが入店するので、フィンは不自然にならないよう気を付けながら、用心棒のように彼女の後ろについていった。
「ようこそいらっしゃいませ。本日は何をお求めでしょうか?」
パリッとした身嗜みの男性店員が声をかけてくる。びっくりするような美少女が、宝石を買いに来るには不釣り合いな男をお供に連れて入店したのだ。店員は、客かどうかを値踏みしかねているようだった。
「これを買い取って貰えないかしら」
アリスは迷いなく、身に着けていたイヤリングとネックレスを外し、掌に載せて差し出した。
「……失礼。お預かりいたします」
店員は恭しくそれらを受け取ると、懐から拡大鏡を取り出し、軽く下見をする。その瞬間、店員の背筋がわずかに伸びた。
「こちらへどうぞ。……応接室へご案内いたします」
それなりの物と判断したようで、フィンは内心で舌を巻きながら、アリスと共に豪華な革張りのソファへ通された。ほどなくして、壮年の男性鑑定士が現れる。「失礼します」と席に着くなり、拡大鏡を目に装着し、丹念に調べ始めた。
沈黙が流れる中、フィンはアリスに小声で囁いた。
(おい、アリス。ちょっと待てよ。……いいのか? 大事な物じゃないのか、それ)
(もちろんよ。でも昔に贈り物として貰った物というだけで、特に思い入れはないもの)
アリスは事もなげに言った。やはり相当なお嬢様なのだろうが、あまりに淡白な物言いに、フィンは彼女の背負ってきた複雑な境遇を察せずにはいられなかった。
やがて協議を終えた店員が、こちらを向いた。
「これは見事なアレキサンドライトですね。カットも見事ですし、細工も完璧です。何より、これだけの大ぶりのペンダントとセットとなっている点は大変素晴らしいものです。……失礼ながら、簡単に手放していい物ではないと思われますが?」
店員は、家から勝手に持ち出してきた品ではないかと、暗に確認しているのだ。
「近々に、少し纏まった金額が必要なのですが。今ちょっと、手元の持ち合わせが足りませんので、足しにしようと思います」
堂々としたアリスの受け答えに、店員は満足そうに表情を緩めた。
「左様でございますか。……それでは、当店の査定ですが。金貨八百枚で如何でしょうか?」
その言葉を聞いて、フィンは目を丸くした。あれだけで八百!? ちょっとした飛行機が手に入る値段だ。
「あら。自分の持ち物の価値くらいは判ってましてよ?」
アリスはにっこりと微笑んだ。その微笑みには、不思議な威圧感があった。
店員は一瞬、その気迫に気圧されたように見え、額に薄く汗を浮かべた。しかし、相手も百戦錬磨だ。一つ咳払いをすると、プロの顔に戻った。
「……失礼いたしました。お嬢様。これほどの品となりますと、次に買い手がつくまで数年は当店の在庫として眠ることになります。そのリスクを鑑みれば……金貨千枚。これが私どもの出せる、誠意のすべてでございます」
店員はそう言い切り、背筋を伸ばしてアリスを見据えた。千枚。フィンにとっては想像もつかない大金だ。これで十分すぎる、そう言おうとしてフィンの口が開きかけた。
だが、アリスは静かに、そして優雅に首を横に振った。
「いいえ。言ったでしょう、価値は判っていると。だって、この細工には当時の王室御用達を示す隠し彫りも施されていますもの。それにこの石の希少性と合わされば、千枚に留まらないことくらい、貴方なら重々ご承知のはずでしょう?」
アリスは店員の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「千二百。それ以下のお話であれば、今日は失礼させていただきます。他のお店……いえ、大陸にあるオークションハウスへ持ち込めば、二千枚でも競り落とされるお品ですもの。お急ぎなのは、私ではなく、この名品を逃したくない『貴方の方』ではありませんか?」
一分の隙もない言葉に、店員は絶句した。数秒の沈黙の後、店員は深く、負けを認めるように溜息をついた。
「……お嬢様には敵いませんね。失礼いたしました。千二百。これ以上は、申し訳ありません」
「ありがとう。それでお願いするわ」
アリスが微笑むと、店内の空気が弛緩した。店員が慌てて席を立ち、支払い用のコインと書類を準備する。
「こちらに、署名をお願いいたします」
アリスは左手で器用にサインを行う。その滑らかな筆致に、フィンは不意にドキッとした。
サインを見た店員の眉間が、ピクっと上がった。店員は驚愕した様子でアリスを見るが、彼女は優雅に人差し指を口の前へ持っていき、微笑みながら「内緒よ」とポーズをとった。
店員は言葉を飲み込み、恭しく一礼した。
「……承知いたしました。では、こちらを」
トレイに載せられた重い金貨の包みを抱えると、フィンは腕が沈むほどの重量感に、ことの重大さを噛み締めた。
◇◇◇◇◇
店を出ると、昼の陽光が眩しく降り注いでいた。
「これで、お釣りが出ますね、フィンさん」
「……おいおい。あの値段には驚きだが、本当に良かったのか? 大陸に持ち込めば二千は超えるのだろ?」
「その代わり現金化するまでに数カ月かかり、私の身分がばれますもの。無理でしょう?」
「そこまでの覚悟か……マジでやるのだな、ストラトス・グランプリを」
「はい。言ったでしょう。私はあなたのパートナーとして、一緒に挑戦したいのです。どんなに危険だとしても、フィンさんが一緒にいてくれたら、私は多くのことを学び、空を飛ぶという夢を叶えられます」
その瞳を見て、フィンは大きく息を吐き出し、天を仰いだ。そして、諦めたように、しかしどこか晴れやかな顔で笑った。
「分かったよ。アリスの覚悟は受け取った。二人で挑戦してみよう。……ただし、一つだけ条件がある」
「条件……ですか?」
「一度レースが始まったら、俺が『無理だ』と判断した瞬間に降りる。リタイアだ。誰が何と言おうと、アリスの安全を優先する。これだけは絶対に約束しろ」
「分かりました。約束します」
アリスの顔に喜びが広がり、彼女はフィンに向かって一歩近づき、右手を差し出した。フィンがその小さな手を力強く握り返すと、新たな挑戦への第一歩が刻まれた。
命を懸けたレースの舞台が、二人を待ち受けている。




