魔女の城 3
夜も更けて。窓が月の光を取り込んで、描かれたアースラのお顔に当たっていた。
穏やかに微笑む女神の肖像。彼女の髪は長い黒髪で、盲目であるためいつも目を閉じている。その姿は西へ行こうと東へ行こうと変わらずに描かれていた。全世界を癒す絶対的な女神。
アスターは、暗い教会の中、アースラの肖像を見上げていた。
元々、アースラ信仰の発祥した地は、こことは山脈をはさんだ対極にある西の地だ。古くからルンドブックと呼ばれるこの東の地の民に、アースラの存在が知れ渡ったのは、ほんの三十年前の事。この村にいたっては七年前だった。
アスター自身はルンドブックの民ではあるが、幼いころからその姿を良く知っていた。彼が生まれたのはここと同じような田舎だったが、アースラ信仰はすでに根付いていたのだ。
それと比べるわけではないが、この村は、七年いても、根付く気配が見られなかった。アースラ信仰をもとにした教育や説教をやったところで、ただ知識が増えるだけ。それを教訓にしようとも、信仰にまでは行かないのだ。
理由はきっと、ひとつだろう。
魔女の存在。
平穏なこの村での唯一の脅威であり、この魔女から開放されたいのが、村人の一番の願いなのだろう。けれど、その願いは決して口に出来ない。これだけは、魔女に知られてしまっては後が怖い。神などと、得体の知れないものにすがりつくことは、他愛ないことでのみ可能だった。
それに村人は、不作や天災も魔女の仕業だという幻想も抱いている。村を出れば、たちまち災厄が降りかかるとも思っている。だから、ただ魔女に従い時をやり過ごす。
そうやって魔女に支配されて四十年以上も経つと、それが信仰のようになってくるのだろうか。魔女にさえ従っていれば平穏にすごせる。それは、アースラを崇めるのと同じ価値観なのでは、とアスターは思う。
しかし、この村には一人だけ、魔女を『信仰』したがらない人間がいる。
ラゼル。
その彼が魔女の生贄になろうとは、皮肉な思いがした。
そろそろ部屋に戻ろうかと、灯りを吹き消し、明るい月光のもとしばし物思いに耽った後のことだった。入り口の扉が開いた。
「誰だ?」
アスターは直ぐに持っていた火打石を打った。慣れたもので、すぐに手燭に火が灯った。
灯りを手前に掲げたからか、入ってきた人影が近づいたからか、その正体は直ぐに分かった。
「ラゼル?」
声を掛けられると、ラゼルは、力なく笑った。
「ごめんなアスター。近所に明日出掛けますって挨拶回りしてたんだけど、最後にしたら遅くなっちゃった」
そう言って、ラゼルは小走りでアスターの横を抜けて行く。アースラの肖像の前まで行くと、その場に座り込んでしまった。
「なあ、ラゼル」
「だから、ごめんな」
ラゼルは俯いていた。アスターに顔を向けようとしない。その様子にため息を付いて、アスターは彼に歩みを寄せた。
「それはどういう"ごめん"なんだ? 遅くなったからって、謝られる筋合いは無いぞ」
アスターが屈んでラゼルの顔を覗き込むと、ラゼルはひざを抱え込んだ。今顔を見られるのは嫌みたいだ。
「嘘、付いたから」
はは、とラゼルは力無く笑う。
「さすがに、挨拶回りなんてする余裕ないよ、今の俺には……」
縮こまった小さなラゼルの姿を見て、アスターはふいに五年前のあの日を思い出した。
魔女の去った後、帰れと言うのに、ラゼルは空が白むまで夜通しここに居座った。嗚咽をあげながら泣き続ける少年の背中を、ずっと撫でていたのを覚えている。
それが今と重なってしまう。例え、あのときほど大泣きしていなくとも、顔を隠すのは何かの弾みで涙腺が緩んでしまったからだろう。
アスターはこのとき、五年前の小さなラゼルを見た。彼のそばに座り、彼の背中を撫でた。
ラゼルは一瞬びくりとしたが、直ぐにその手に甘んじた。
「なんだよ。子供じゃないんだ」
かすれ声でラゼルはぼやいた。
泣いていることへの照れ隠しなんだろう。険を含ませようと言った、けれどもまるでなってないラゼルの台詞は、その気持ちを表している。そもそも、険なんてもの、持とうとしたって持てない素直な男なのだが。
「どうしてここに来た?」
「……別に、慰めてもらおうなんて思ってない」
「俺の話を聞きに来た? それとも、落とし穴でも掘りに来た?」
篭っていたラゼルの顔は上を向き、外気に触れた。微かな風が潤んだ目に入り冷たかった。
しかしラゼルの心に吹いた風は強く、時の道を押し戻されてしまった。少年が掘った穴に落ちた司祭のもとにまで。
司祭を落とし穴に入れてしまえば恥ずかしがるのは確実だろうと、幼い少年は分かっていた。分かっていて落とした。
分かっていなかったのは、司祭が意外に気丈夫だったことだ。落ちてしまえば、しばらくそこから動けないか、飛び出して逃げるだろうと予測していたのに、彼は少年に飛び掛った。なんて奴だと思って悔しくて、更なる屈辱を与えるために腰のベルトを引き抜いた。
とんでもないことをしたと、ラゼルは今更後悔した。生まれて初めてあの時のアスターと自分を重ねてしまった。
初めて来た地に不安を抱いたに違いない。それが大であれ小であれ。自分だって抱いてしまうものだから。
「俺、自分で掘った落とし穴にはまってしまったみたいだ」
「それは、誰を落とそうとしたものなんだ?」
「誰でもない」
ラゼルは首を振る。
「ただただ、魔女に到達したくて掘った穴だった。夢中になりすぎて、ついに魔女を見つけて。でもそのときは、奴のもとに飛び込まなきゃなんない恰好になっていた」
そうだった。レディナに思い切り叩かれて目が覚めた。
「俺は、馬鹿みたいに魔女を目指していた。周りの言葉なんて聞き入れずに、それが村にとって最良なんだと勝手なこと言って正当化していた。周りも自分も、魔女は怖くないと騙そうとしてたんだよ、俺は……!」
ラゼルは両拳を握り締め、いきり立った。
悔しかった。恥ずかしかった。魔女に敵わないと悟った自分が。馬鹿みたいに偉そうな口を利いて、ほんの僅かな可能性でも勝てると信じた自分が。
「俺が馬鹿だった。レディナの言う通り、俺一人が馬鹿だった。どんなに刃を磨いだって、あの悪魔には掠りもしないって分かっていたのに、分かろうとしなかった大馬鹿者なんだ。大馬鹿者なんだぁ!」
ついには、ラゼルは声を上げて泣き出してしまった。ずっと堪えていたのを、興奮のためにぶちまけてしまったのだろう。
わあわあと騒ぎ泣く姿は、五年前のそれよりも幼く見えた。もしかすると、少年と初めて出会ったころよりも子供じみた泣き方だろうか。『助けて、助けて』そう母親を呼ぶ、歩き始めたばかりの幼児と同じような泣き声。
その声はアスターの心に切に迫ってきた。あまりにも可愛そうで、あまりにも愛しくて、助けてあげたくなる。
きっと、村の者も全てそうだろう。普段から、誰もが絆されてしまう屈託の無い笑顔を向ける無邪気な少年を、誰が敵になどするだろうか。皆きっと、魔女のことが無ければ彼の味方だろうに。
アスターもまた、ラゼルの笑顔に絆された、と言う以上に虜になってしまったうちの一人だろう。笑顔だけじゃない。怒ったり、照れたり、ふざけたり、突然見せる間抜け顔や、したり顔だって、何かを期待させるためかどうなのか、アスターの目には輝いて映ってしまう。
そもそも、村から間遠になっていた狩人の家に、村人を招き入れた実績の持ち主なのだ。
どの人からも愛されているのが目に見えて明らかだった。ラゼルは、とてつもない魅力を幼い身で発揮していた。今その命をかき消してしまうのは、あまりに惜しかった。
魔女に対抗する力だって、もっと時間をかければ蓄えられるのではとアスターは考えた。まだ若い今時分だから出来ないことも、もっと成長すれば可能なことも増えるのではないかと。
どんな形でかは分からないが、奇跡を、ラゼルは起こしてしまうかも知れないのではないかと。きっと村を変えるであろうと。
だから、魔女はさらっていくのだろうか。若い芽をつむごうとの企みだろうか。
惜しい。悔しい。ラゼルが消えた後の村はどうなるのか、浮かんでは、打ち消したくなる。どうしてもラゼルにはここにいてほしい。
思い余って、アスターはラゼルを抱きしめてしまった。
ラゼルはびっくりして泣き止んだ。まだ嗚咽は止まらないまま、ぽかんと脇にあるアスターの後ろ頭を見つめた。
――お願いだから行かないで欲しいんだ。君がいなければ悲しむ人も、虚脱する人も多いはずだ。俺だって……
「アスター?」
――村のおきてがどうしたと言うんだ。魔女の恐怖が何だって言うんだ。君がここにいれば、そんな事ものともしない力が手に入るんだ。俺には分かる。
だがこれは、言えない。アスターは唇をかんだ。
言えない。大口を叩いてしまい後に引けなくなったプライドと、やはり村のことを一番に考えてしまう性分を併せ持ってしまったラゼルには、到底出来ないのだ。だから言えない。魔女の城へ行くな、などとは。
「一体何のまね? アスター」
泣く自分をなだめるにしては幾ばくか妙だと、ラゼルはアスターに尋ねた。
しばしの沈黙の後、やっとアスターが口を開いた。
「泣きなさい。お前は、もう、こんな風に泣くことなど出来ないのだろうから」
ラゼルは、少し考えた。これはどういう意味なのか。しかしどう考えを巡らせても、答えはひとつしかないような気がした。アスターは、自分が死んで帰ってこないものと思っているのか。
「俺は死なない」
震えながら、ラゼルはつぶやいた。
「俺を甘く見るなよ。魔女なんかに殺されるものか」
震える声を腹の底から出し、右手でアスターの腕を強く掴んだ。
少年を良く知るはずの司祭にも、それは強がりのように聞こえた。自分が魔女に殺されると信じきっているアスターに腹を立て、言い返しただけ。いつもの攻防の延長だと。
それは大体当たっていた。しかし、ラゼルはアスターだけでなく魔女にも腹を立てていた。何故村を脅かすのかと。村人にも腹を立てていた。何故魔女の言いなりになっているのかと。
そして自分にも腹を立てていた。何故弱腰になっているのかと。
「魔女に気に入られているなら、しばらくそのままでいても悪くない。しばらく観察すれば分かることがあるはずだ。……隙だって、狙えるはずだ」
か細かったラゼルの声はだんだんにしっかりしてきた。これは、ただの強がりではないのでは。そう思い、アスターはラゼルから離れ、その顔をのぞき見る。
僅かな明かりに照らされた顔に載った眉はキッと釣り上がり、目はアスターではなくその向こうを見つめていた。いや、睨んでいた。
アスターは振り返り、ラゼルが見つめる先に何もいないことを確認すると、また彼に向き直る。
「そこに魔女でもいるのか?」
するとラゼルの顔がへらっと笑った。さっきまで泣いていたのにと、アスターは驚かされる。
「いるわけ無いよ」
このとき、少年ラゼルの存在そのものがすでに奇跡を呼ぶ神の使いではないかと、アスターは思った。自分が案外信心深かったことを確かめ、これにもいささか驚いた。