魔女との対峙 3
縦に伸びる格子窓が設置されていたのは、東側。日が昇る様子をじっくり見ることが出来る。
ラゼルはその格子窓、そして今日の夜明けをぼんやりと眺めていた。
一睡もしていない。
まだ夜中の暗がりの中、ラゼルは廊下にある椅子にもたれかかり、何をすることもなく過ごしていた。そのうちに夜が明け、この窓が東にあった事を知った。
ラゼルにとってこれは珍しいこと。しかし、このような朝を過ごすのは、この城に来てすでに四度目になる。
時たま、焦燥ばかりが心を支配し、眠ることが出来なくなる。
様々なことがまとわりついて、はなれない。けれど、逃げてはいけないと思うから、振り払うことも出来なかった。
体が熱くなる。それを静めるのに、廊下は涼しくて丁度良かった。そして、緩やかに明るくなる空もまた、心を静めた。
もう部屋に戻ろうと、ラゼルは腰を上げた。
廊下を歩き始めたその時になって、彼はいつもと違う空気を感じ取る。
《影》がいなかった。夜中でも、暗い中にひときわ黒い姿でのそのそ歩く姿を、何体か見ると言うのに。
それは、ちょっとした好奇心。何かに導かれたわけでなく、ラゼルは意図して魔女の部屋の前まで足を運んだ。部屋の前にも、一体もいないのではないかと思ったのだ。
その考えは、当たり。
いつもなら、何体もの《影》が部屋までの道を塞いでいる。それがいないのは、どうしたことだろうか。
《影》は魔女の分身。魔女に何かあれば消えてしまう存在なのかも知れない。魔女に何かあれば……
ラゼルは、部屋のドアノブに手をかけ、静かに開ける。魔女は部屋の中にいるだろうから、気づかれぬよう、静かに静かに。
部屋は、前に見た時と変わらない、様々な物で溢れかえる雑然とした所だった。天井まで届く棚の上のところまで、本やら、何かの入った小瓶やらが詰まっている。
横に目を向ければ、この部屋に続くもう一つの部屋が見えた。僅かに扉が開いており、中を覗くことが出来た。ベットの端が見えたから、そこは寝室だろう。
そこに、魔女が寝ているのだろうか。寝ているとしたら……
ラゼルは、書物もカーテンも小箱も、何でも置かれている部屋の隅から、剣の柄を見つけてしまう。それを手に取り、鞘から引き抜く。刃はちらちらと光をはね返した。
魔女を殺せば全てが終わる。自分の望みもまた、叶う。
しかしこれは、卑怯だろうか。自分は人の寝込みを襲うつもりでいる。
いや、とラゼルは首を横に振る。ぎゅっと柄を握り締め、静かに寝室に立ち入った。
卑怯だろうが、なんだろうが、自分はそのためにここに来たのだ。
寝室にも、壁一面の大きな窓が付いていた。僅かな朝の光も取り入れ、ベットの天蓋の紺色が次第に鮮やかになってくる。
天蓋を退ければ、豊かなプラチナブロンドの上で、少女が微かな寝息を立てていた。
その髪の色さえ別の物に置き換えれば、とてもありふれた光景。今村に戻れば、レアもアイリーンも同じように寝ていることだろう。レディナも。
レディナの髪の色は黒。しかし本当なら、この魔女と同じ、綺麗なブロンドだったはず。しかし、黒いプラチナと言う風習が、彼女の髪を黒く染めた。艶の悪くなった髪でも、彼女は笑って気丈に振舞うのに。
魔女は、この色のままでいることを許されてしまうのか。魔女は闇魔王など恐怖ではないから。ただの人間は、どんな些細なことでも恐れてしまうから、だからこんな風習がまかり通ってしまうのだろうか。だから、魔女に怯えるのだろうか。
その時、魔女の頭が微かに動いた。もうすぐ起きるだろうか。
ためらっている場合ではない。ラゼルは剣を逆手に持ち、魔女に向かって振り下ろした。
嘘だ、と思った。
やはり忍びなくて、振り下ろす時目を瞑っていた。しかしその後、しっかりとした手ごたえがあったのに。やった、と思って目を開けば、ラゼルの目は、若草色の瞳と真っ向から視線をぶつけた。
その瞳は生気を持ってこちらを見つめ、ラゼルもまた見つめ返す。そのまま力尽きてくれと切に願った。
けれど、彼女は魔女。
小さな口元がにっと笑った。
「馬鹿ね、貴方は。本当に……」
魔女はベットからゆっくりと起き上がる。目の前に男がいることなど知らない風に。自分の腹に剣が刺さっていない様に。
ラゼルは後ろに一歩、二歩と下がる。それしか出来ることが無かった。
剣を握った手はかたかたと震えていた。片手だけでは取り落としそうで、両手で柄を握りしめた。
魔女はいつでも黒い衣装。腹から血が溢れても目立たないだろう。本当は血が付いているのかもしれない。でもラゼルには分からない。
しかし、血が流れていたとしても、おかしいじゃないか。何故彼女は背筋をしゃんと伸ばし、こちらを真っ直ぐに見据えている? 何事も無いように。
――この女、死なない?
急に息が荒くなった。
どうしてそうなるのか理由が全く分からない。胸の辺りで息がつかえ、このつかえを取ろうとして、吸う息がむやみに大きくなる。胸のつかえは息を増すごとに膨れ上がっていった。
――そんなはず無い。死なないはずは……。早く、早く!
目の前に立った彼女は、自分より背が低かったはず。なのに、大きく見える。見下ろされている。
「本当に、馬鹿。どうして大人しくしていないのかしら。どうして、自らを省みないのかしら。こんなことをしてどうなるか、分からないとでも言うの?」
そう言い下されれば、息を一つ大きく吐き、それ以降荒い息は急に収まった。剣を握る力も抜ける。床に刃先がぶつかり、かつんと音が立った。
負けた、と思った。
「あなたを、殺さなければと思った」
「あら、案外素直に物を言うじゃない。それで? 私を殺したらどうなるの?」
「村は、自由になる」
「それで? 自由になって、村の人たちはどれほど喜ぶかしら。今とは変わらない暮らしをするんじゃない?」
それは、そうだ。村人は、魔女に支配される中にも、各々の生活を築いていた。常にどこかに笑顔があった。
しかし……!
「あなたを殺せば、あなたのせいで苦しむ人はいなくなる。そう、あなたのせいで!」
しかし、辛い思いをする人もいた。一部かもしれないけれど、そういった人たちを一人でも減らそうとするのは、悪いことだとは思わない。
「あなたのせいで、ポロはあんな悲惨な死に方をしなくちゃならなかった。コールだって、彼の死を村人も家族も知らない。家族の手でお墓に入れてやる事だって出来ていない。帰ることの無い人を思って、家族が泣くのも、全て、あなたのせい!」
自分の行いが間違いとは思わない。
けれど、空しい。何とも空しい。
この行いは、村の多くの人にとっては、危険な行為だろう。いくら魔女に制限されようと、その枠の中で、彼らは幸せを掴んでいる。それを壊してしまう可能性のある行いは、危険でしかない。
多くの人は、ただ、自分の幸福が崩れるのを恐れているだけ。
「そう、全て私のせいなの?」
「全て、あなたのせいだ……」
急に膝の力が抜けた。ラゼルは膝を床に付け、肩を落とす。魔女を見上げることが出来ず、俯いた。
涙が零れた。
気づいてしまったからだ。
自分が、勝手に村の為にと大儀を背負って、突っ走っていたことに。誰の意見も聞かず、魔女を殺すしかないと勝手に思い込んでいたことに。肌で、村の意思に気づいていながらそれを無視したことに。
「いいや。少なくとも、俺は、あなたが憎い。ただ、それだなんけだ」