魔女との対峙 1
城の上空からは雪が舞い降りていた。
それは不思議にも、城内に雪が積もる事はなかった。周りの森は、山は、雪の白に覆われているのに、ここだけが特別な空間だったのだ。
魔女の庇護の下、ラゼルは、《影》の巨人に向かって剣を振るった。《影》に稽古をつけてもらっていたのだ。《影》の教えを受けながら、ラゼルは動きを洗練させていく。
その間、手が悴むことは無かった。足に感覚が無くなることも。今まで過ごした中で、最も快適な冬。
これが、ラゼルには理不尽に思えてならない。
魔女。やはり貴方は、力の使い方を考えるべきだった。
この苛立ちゆえ、剣を持つ手に力が入る。そこを師範の《影》に叱られる。それは何度も繰り返された。
「人間って面白いな」
稽古の間、城の中庭で休憩を取っていたところに、縞の猫がとことこ歩いて来た。どういうわけか喋ることのできる猫のアレクは、この城において、唯一ラゼルが心許せる話し相手だった。
「そんなことして何になるの? エサ捕れる?」
金色の目を瞬かせて、アレクはラゼルを見上げた。
彼の言葉は、いつも他意が無い。そして、いくら喋れるとは言え、猫なんだなと思わせる。ただおいしいものが食べられて、楽しく過ごせればそれで良い、そんな言い草だった。
こうやって自分の前に現れるのも、人と喋るのを楽しいと思っているからだろう。まあ、たまに干し肉をやったりするから、それでなついているだけかもしれないが。
「エサ、か。エサは捕れないな」
「えー。じゃあ、何のためなの? わかんないなぁ。でも、まあ、ラゼルって狩りしないしね」
「はは、城の中じゃ、狩りは出来ないよ」
「え? 出来るじゃん。結構この城、色々捕れるよ。ネズミもいっぱいいる。これがころころ太ってて食べ応えあるの」
「俺は猫じゃないんだ。人間はネズミなんか捕らずに、森に入って、もっと大物を狙うんだ。鹿とかさ」
とは言え、ネズミを捕らえて生のまま食べた経験はあった。思い起こせば二度とやりたくないとは思うが、目の前のこいつはそれが日常の食事。彼は、それに文句を言わず、満足している様だ。
「鹿? あんなでかいもの……。そっか、人間って武器を使うんだ」
「武器も無しに鹿なんか捕れないって風に、見えた?」
「見るからに鹿より小さいじゃん。あ、でも、なるほどな、狩りの訓練か」
アレクはそれで納得した。特に他の理由は思い当たらなかったのだろう。彼は、あまり人間を知らないようだ。
「まあ、そんなところだ」
ラゼルは、そう嘘を言って笑う。
どうして剣の稽古に甘んじているのか、その理由は二つ。魔女を怒らせないため。魔女を倒すため。
やはり、どう考えても魔女の真意は不明だ。しかしこれは大きなチャンスであることは確か。これで、幼い頃から抱いていた、魔女への恨みを晴らせる可能性が伸ばせる。
「今日も良く降るなぁ、雪」
アレクは空を見上げた。灰色の雲から降り落ちる雪は、この城には届かない。
「本当は積もるはずなのにな。ここは暖かい」
「やっぱ、それだけでここにいる価値はあるなぁ。人のいっぱいいるところに生まれたおいらですが、どの家ん中にいるより暖かい冬だ」
アレクは、ここが暖かい理由は分からない。分からなくて不思議だろうが、それはそれで受け止め、ここに辿り着いたことを幸運に思っている様だ。
しかしラゼルは、分かってしまう。これが魔女の力に間違いないと思うから、苛立つ。恨むべき相手から与えられる安息は、理不尽でならない。
「アレクは単純だな」
言って、ふっと笑う。彼の様に、この環境を単純に喜べたらどんなに良いだろう。
「まーた、猫と人間の違い? なーんか、俺馬鹿にされてる?」
「違うって。俺は人間、お前は猫。考え方に違いがあるのは当然って事だよ」
「そー言われちゃうと、そうなんだけどさぁ」
「馬鹿にしているわけじゃないんだって。分かるだろ?」
優しく言えば、アレクは金色の瞳を何度か瞬かせる。
「うん、まぁ……」
そろそろ稽古に戻るか、とラゼルは腰を上げた。師範の《影》がこちらを見ているのに気が付いたからだ。
そして中庭から出ようとした時、アレクがぼそりと呟いた。
「やっぱり、人間って変」
人間が変なのではなく、自分が変なのかもしれない。アレクの呟きを聞き、ラゼルの頭にそんな考えが浮かんだ。
夜になれば、魔女に庇護される現状に苛立つせいか、なかなか寝付けない日が多かった。
夜が更ける中思い起こすのは、コールの元に、魔女に連れられ行った時の事。あの時、ラゼルは確信した。魔女は、彼女は悪魔ではないと。
彼女は人間の感情を持ち、その感情でもって悪魔の力を使った。その感情こそ、厄介で、厚かましく、身勝手で……
彼女は、悪魔の力を持つに値する人間ではなかった。
その夜もまた、魔女への憎しみ、苛立ち、そんな思いばかりが心を満たしていた。考えれば考えるほど、魔女に生かされる、今の身の上に焦り、何もしないで魔女の言いなりになるしかない自分を不甲斐なく思う。
焦り、焦り、暖炉の火に暖められた部屋の中、暑さ故ではない、嫌な汗をかく。
ラゼルは上体を起こし、シーツを握り締めた。
やはり、魔女を殺すしかないのか。
それでしか、この状況から救われることは無い。
このような夜が続くのかと思うだけで、耐え切れないのだ。剣の稽古だって、こんな状況でなければ、もっと楽しく、有意義に臨めただろうに。辛いばかり。
殺すしかないのか……
『貴方は私に敵わない』
魔女の言葉を思い起こす。
彼女は、ラゼルを脅すつもりでこの言葉を言ったのだろう。自分もまた、怯えないまでも脅されていたことに気が付いた。
敵わない。どこかでそう思っていたからこそ、正面から魔女に挑もうとはしなかった。始めから奇襲を仕掛けるつもりで、隙を狙っていた。しかし、これは狩と同じ。正方向から弓を射掛けても逃げられるのは当然のこと。
始めから、では無い。地下迷宮で彼女に会ったあの時から。
自分はこうして、緊迫することも無く、有り余る時間を過ごしている。考えるゆとりもあるはずなのに、考えることが出来ていない。魔女をどうやって倒すか、その具体的な手段を思索することすら出来ない。いや、していない。
ただ魔女に従う。そうすることしか今の自分には出来ないと、思い込んでいる。
「俺は、魔女には敵わない……?」
部屋は、暖炉の灯りと、満月が近いのだろうか、強く輝く月明かりに照らされ明るい。握り締めたシーツの皺も良く見ることが出来る。
その皺を見つめながら、胸の鼓動が高まるのを感じた。肩から首筋までが熱くなるのも感じた。
逃げ出したくなるほど、情けなく、悔しい。
気づいてしまった。魔女に敵わないと思い込み、それゆえにこの状況に甘え、そして苛立つしかない自分に。
『貴方は私に敵わない』
揺れるプラチナブロンド。
魔女を大物の獣として、倒すつもりでいた自分。
『誰かが不可能と言ったものはその時点で不可能だ』
ナジスの動かす口。
魔女を倒すと、そして、必ず帰ると言った。嘘。
『倒すなんて馬鹿なこと言わないでよ!』
レディナ。そして涙。頬の痛み。
ラゼルは、握ったシーツを払いのけた。ばさりと音がするくらい激しく、まとわりつくのを拒むように、シーツを投げる。
落ち着こう。
はぁ、と大きく息をつき、ぎゅっと目を瞑り、また見開く。
そうすると、ドクドクと迫るような鼓動は、少し収まった。まだ首元にある火照りは引いていなかったが。
ラゼルはベットから足を下ろす。靴をはこうと探したが、やはり止め、裸足のまま部屋を出た。
冷静になるには、この部屋は暖かすぎた。