影追い 2
ラゼルはまた、一口水を飲み、植木の彫像に目を落とした。
そこにあるのは、眉をひそめる中年男性のありふれた顔。村長の息子のアーディスに髭を付けたら、こんなかも知れない。そんな、よくある顔。これが魔王。
魔女もまた、ありふれた、そして愛らしい少女の顔だった。普通の少女と同じく、笑い、怒った。
魔王も魔女も、彼らが使う魔法も、悪魔と通じるものというのが、アスターが神学校で教えられたことだったと言う。アスター自身も、それは真っ当な存在ではないと話していたし。ラゼルも、悪魔はルンドブック最大悪の闇魔王と紐付けて考えていた。
魔王も魔女も、ごくありきたりの人間の姿をするのは、人間の世界に入り込みたいからだろうか。普通の人間として生きていたいと願うからだろうか。
永遠の命と、誰もが恐れる力を持っている彼ら。けれどその心は、平凡な人間のそれと大差ない。そう、思わせる。
かさり、と葉の揺れる微かな音を聞いた。同時に、植木の中に獣の姿を見つける。
一体どこからやってきたのだろうか。それは植木の中から飛び出し、ラゼルの足元に着地すると、伸びをした。灰色の、縞模様の猫だった。
猫はちらりとラゼルの顔を伺い、姿勢を正して顔を洗い始めた。今のは、何か物をねだったのだろうか。
戯れに食べ物でも与えてみようかと、《影》に干し肉を持ってくるよう頼む。
そうしてまた、石に腰掛けると、
「あ、良いの? そんなつもりじゃなかったのに。悪いなぁ」
妙な声を聞いた。少年の声の様。しかし、その声の主は辺りを見回しても見当たらず、立ち上がって中庭を一周してみた。そうしている内に、《影》が干し肉を持って現れる。
肉を渡す際まで、《影》は終始無言。魔女はまだ怒っているようだった。
――一体何に怒ってるんだか。
そうは思ったが、さして気には止めなかった。
「干し肉、いるか?」
全身の毛づくろいまで始めていた猫にこう声を掛けると、奴は嬉しそうに跳び起きこちらに駆けて来た。可愛いなと思った矢先、また妙な声を聞く。
「丁度腹が減ってたんだよねー。それ、うまい?」
猫はラゼルの足元に行儀良く座り、見上げた。目がキラキラ輝いている。
何となく、その言葉はこの猫が発するのに似合っている気がした。干し肉を目前にして金色の瞳を輝かせ、うまい? と聞く。
まさかね、とラゼルは苦笑した。
肉を差し出すと、猫は無心になってかぶりつく。よっぽどお腹がすいていたのかと思う。あっという間に平らげてしまった。
食べ終わると、猫は顔を洗う。そしてまた、
「まあまあの味かな」
今度はしっかりその声を聞いた。猫の口の動きに合わせて発せられる声を。
「おい、猫。お前なのか?」
「はぁ? 何が?」
くいっと、猫は首を傾げる。やっぱり、声は猫の口と同調していた。
「やっぱり、喋ってるのは、お前? お前……猫だろう?」
どうにも驚いて、まともに喋れてない。それでも猫はこちらを真っ直ぐに見上げ、また声を出す。
「何だよ。猫が喋っちゃ悪いか?」
確かに、悪くはない。それに、良く考えればここは魔女の城。魔物やら《影》やら、おかしな物ばかりいるところに、人語を喋れる猫がいても不思議じゃない。
「いや、でも、普通猫は喋らないだろ」
「そうか。何で皆しゃべらないのかな。人間と喋れると面白いことが聞けて楽しいのに」
「だから喋れないんだよ、普通の猫は。そもそも、人間の言葉が理解できるのか? 猫って」
「うーん。多分、出来ないね。俺もここに迷い込んでからだもんな、人の言葉がはっきり分かるようになったの。それまでは何となーく分かる程度だった」
どうやら、猫はこの城で誰かに会っている様だ。それは魔女かと聞いてみると、猫は会ったことが無いと答える。黒い服を着た髪の長い女だと言っても、返答は「分かんなぁい」だった。
魔女に呪いでも掛けられて喋れるようになったのかと思ったが、見当違いだったか。いや、別に会わなくとも呪いは掛けられるのかもしれないが。
質問を変えてみる。
「じゃあ、どうしてお前はここにいるの?」
「決まってるじゃん。ここに来ると色々うまいもん食べられるんだよ」
「俺が聞きたかったのはそうじゃなくて、どうしてこの城にいるのかって事なんだけど。まあ、いいや。つまりは、この中庭には良く来るわけだ」
「まぁね」
「うまいもんってどんなの?」
「さっきみたいな肉だよ。あ、お前のも結構うまかったぞ。最近こういう味にはご無沙汰だったからね」
さっきみたいな肉、干し肉。それにご無沙汰と言う言葉にも引っかかる。
「じゃあ、誰かから干し肉貰ってたって事だよね。誰? まさか、その辺にいる《影》みたいな奴、じゃないだろ?」
「あれ? だってむっつりじゃん。声掛けても無視だし。貰える気しなぁい」
「まぁ、確かにね」
と、笑って。
「じゃなくて、誰から干し肉貰っていたの?」
そう、それを聞かなきゃいけない。その人は、この城で魔女や《影》以外に干し肉を猫にあげることの出来る存在。いるのなら会いたい。それに、予測するに、その人は五年前に魔女にさらわれた男。ラゼルも良く知った、友達だった男、コール。
「え? お前だよ」
「違う違う。そうじゃなくて、俺以外からも貰ってるんだろ?」
「コールのこと?」
やっぱり、コールだ。ラゼルはどうしようもなく嬉しくなる。また会えるかもしれない。あの時はもう、会うことも無いと思っていたのに。
「そう、そうだ、コールだ。この中庭には良く来るの?」
「うん、結構ね。俺も良くここに来るから、それでしょっちゅう鉢合わせして。あ、そうだ、俺ね、コールに名前付けてもらったんだ」
「名前?」
「えーっと、何だっけ。そう、アレクだ。アレク」
「自分の名前だろ? せっかくコールが付けてくれたんだから、忘れるなよ」
「あはー。近頃呼ばれてなかったから、忘れかけてたんだよねぇ」
近頃呼ばれていなかった? 最近干し肉の味にご無沙汰だったとも、この猫は言っていた。とすると、
「お前は、このところコールには会っていないの?」
そう聞くと、猫のアレクはラゼルの顔をちらりと見上げた。と思ったら、あくびをし、地べたに寝転がってうーんと伸びをする。そうしてラゼルを待たせてから、それから「お前の名前は?」と聞いてきた。その問いに答えると今度は顔を洗い始めた。
「うん。俺は良く来てるのに、あいつは来ないね。死んだのかなぁ」
「死んだ?」
その言葉には、ほんの少しだが衝撃を感じる。会えるかもしれないと思ったのに。そう言えば、城内を探索した際、自分以外の男がいる気配など微塵も感じなかった。
「分からないけどねぇ」
アレクは、安易に死んだなんて言ったが、そうだとは限らない。少なくとも、コールはここに来てすぐに殺されたわけじゃないことは分かった。猫と戯れるゆとりがあった。
「ま、それは良いから。ね、ラゼル。肉もう一切れ……」
「ごめん」
ラゼルは立ち上がる。いても立ってもいられなかった。事の真相を確かめなければ。コールは、ラゼルが立ち入ることの出来ないような場所に閉じ込められているのかも知れない。
走り際、出くわした《影》に、猫に干し肉一切れあげるように頼んだ。そのやり取りをアレクは逃さずに聞いていて「ラゼル、いい奴」と嬉しそうな声を上げた。