魔女の城 6
魔女により光を断絶されてから、ラゼルはのそのそと動き出した。
足元の綿のようなものは、異常な弾力があり、何と言ったか、そんな歯ごたえの果実があったことを思い起こした。とは言え、それがラゼルの足を取る得体の知れないものには違いなかった。
しばらく足元のこれと格闘していると、辺りの暗闇にも目が慣れてきた。
完全な暗黒ではなく、どこからか光が漏れている。それで、ここが壁で囲われた部屋であることが分かった。この足場の悪い床にも限りがあり、途中からは平坦な床になっている様だ。
ラゼルは、とにかく普通の煉瓦敷きの床にまで足を運ぶ。そこから明かりの漏れる場所へと進んだ。
明かりは、角を曲がった所にある粗末な木戸から出ていた。鍵も何も付いていない木戸を開け外に出ると、今までいた場所が、回廊の横に取り付けられた小部屋だったことを知る。
回廊の天井は高い。明かりの元たる松明が、ラゼルの頭の直ぐ上辺りに据え付けられていた。が、それは、床を照らせど天井は照らさない。どれほどの高さかは計り知れなかった。
ここは城の地下なのだろう。
地下迷宮。各地の城には、敵を迷い込ませるための迷路を地下に持っているとは聞いていた。そして迷路は、そのまま出ることなく、野垂れ死にさせるのが目的。
――あの女、一体何のつもりで俺をこんな所に落としたんだ?
あの可愛らしい顔をして、男が迷い死に行く様を見て、愉しむつもりなのか。だとしたらあまりに悪趣味だ。
――とにかく、ここで立ち往生していても仕方ないな。
前を見ても後ろを見ても、同じような景色が続く。当てなく歩いては迷うと思い、ラゼルは壁にチョークで印をつけることにした。
狩りのときも、森で迷いそうになったらすることだ。白いチョークはそのための必需品。しかし、ここが赤煉瓦のむき出しになった壁で助かったと思う。同じ白い壁だったら目立たなかった。
それにしても、ここは窓も無く音の逃げ場の無いためか、カツカツと歩く音もチョークで壁をこする音も、良く響いた。森にあった洞窟もここまで響いたかなと思うほどだ。
と、印を書き終えたとき、明らかに自分の発していない音を耳にした。
ぺった、ぺった、ぺった。裸足で床を歩く、そんな音。
――何か来る。
ラゼルはチョークを静かに腰のポシェットにしまい、弓矢を取って構えた。
音は大きく反響し、左右どちらからやってくるのかわからない。ラゼルは壁を背にして、いずれここを訪れるであろう主を待った。
『また見せてほしいの。怪物と死闘って言うの?』
黒衣の少女の後姿とともに、彼女の言葉が思い起こされた。
魔女や魔王が率いる魔物たち。ルンドブックの物語にはよく登場するものだった。つまり自分の生み出した魔物とこの地下迷宮で戦えと、彼女は言ったのか。
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シュー、シュー、と荒い息を響かせて、魔物は回廊の角から姿を現した。
全身は真っ黒で、肌はぬめっとしたものらしく、松明に照らされテカテカ光っていた。身長はラゼルの二倍くらいある。前足を地面に付けているので、もし立ち上がるならばもっと高くなるだろう。
姿かたちは見たこともない生き物だった。
前足に比べ後ろ足が異常に大きく、何が一番近いかと言えば兎かと思うが、そんな可愛らしいものではなく、黒い皮膚はごつごつしている。だいたい、あらぬ方に向く六つの見開かれた目を持ち、右肩に人の腕のようなものを付けた姿は、真っ当な生き物とは思えなかった。
これもまた、多くの物語で語られるとおり、この世に生きる物の部類から遠くかけ離れた存在なのだろう。
怪物はラゼルに気づくと止まった。しばらく目の前の男を見つめると、突進して来る。
――踏み潰す気か?
そうはなるまいと、ラゼルも矢を放つ。矢は怪物の六つある目の一つに突き刺さった。他の生き物もそうであるように、この怪物も目を刺されてのた打ち回った。
その隙に、ラゼルはさっきの小部屋に逃げ込んだ。ここなら怪物の巨体は入ってこられない。
怪物も、目を一つ傷つけられたことで、余計ラゼルを憎んだことだろう。逃げ込む人間を見逃さず、小部屋に頭を突っ込んだ。
「うわ!」
不意なことで、思わず声を上げる。
怪物は、口の中の鋭利な歯をちらちら見せながら、荒い息をますます荒くしてラゼルに突進しようとする。
木戸のために抜かれた穴は小さく、巨体は首の根元で阻まれてそこから先に進めない。首を入れたり抜いたりを繰り返していた。
しかし、怪力も持っているのだろう。怪物が抜けようを暴れるたびに壁が崩れそうになった。
どうしようか、と思う。
この様子だと、遅かれ早かれ、壁を壊すのは目に見えている。そうなると自分の命も無い。
とにかく、この小部屋に抜け道が無いか、視界の悪い中探し始めた。それしか生き残る道が無さそうだ。しかし、
――嘘だろ、そんなのって!
抜け道なんて無かった。足場の悪い床に面した壁も、全て探っても。
ラゼルは、頭を突っ込んだ怪物のおぞましい形相を見て、死ぬのか? と思った。
――魔女を倒すと豪語しておいて、こんなところであっけなく死ぬのか?
悔しい、とも感じた。非力で何もできない自分が悔しくて、死ぬかもしれない恐怖に震えながらも、怪物の頭を睨みつける。
ここで魔物と対等すらできなかったら、魔女と戦う資格は無いだろう。
――こんな所で……
ラゼルは脱力して、膝を折る。両手すら、冷めた床にべったりと付けてしまった。全ての希望を捨てかけたが、しかし、床に付けた手におかしな感触があった。
いつからそこにあったのだろう、何か平べったい物。
見下ろすと、それは長剣に見えた。今まで見たことが無いわけではないが、それほど触れる機会の無かった代物だった。使い方だってちゃんと知らない。
――しかしこれは、幸運?
使い方が分からないと言って、使わない訳にはいかない。このピンチを切り抜ける絶好のチャンスだ。
手に取って鞘から抜いてみれば、銀色の刃がちらちらと光をはねかえした。細身で軽く、片手で持つことが出来る。ラゼルの目には上質な剣に映った。
柄を握り締め、獲物が首を出す時を、間合いを取りつつ待つ。そして、奴のぎょろっとした目がこちらを見たのと同時に、ラゼルは剣を振り下ろした。
「うぉぉぉぉぉ‼ おぉぉぉぉ……! ぉぉぉ……」
回廊に怪物の叫びが木霊した。
狼の遠吠えを低くして重ねたような絶叫とともに、怪物は頭を引っ込め、広い回廊にのけぞった。真っ黒な喉元もこのとき見せたので、ラゼルはすかさずそこに二撃目を加えた。
怪物は、耳をつんざく断末魔を上げ、倒れた。
たった二撃だった。
それはあまりにもあっけなくて、この剣がこの世のものではないと疑うほどだった。
ラゼルは、怪物がピクリとも動かないのを確かめてから、手にした長剣を見た。魔物とはどこまでも黒いものであるらしく、刃についた血まで真っ黒だった。ラゼルはその血を振り払ってから、この不可思議な剣に見入った。
見てくれは特別な剣には見えない。ただ、放つ輝きからすると真新しいものだろうことは分かる。
もしかして、これは魔女が自分にくれた物だったりするのだろうか?
運よく手を付けたところにあるなんて都合が良すぎる。魔法か何かで剣を転移させたのだろうか? そうだとしたら、一体魔女は何を考えているのだろう。
戯れに、空いた手で刃先に触れた。何の力も入れていないのに、手のひらには赤い筋が入る。恐ろしい切れ味だ。
――魔剣か。
ラゼルは、放り投げていた鞘を拾い、剣を収めた。
扱いには十分気をつけなければならないだろうが、これは心強い武器になる。
横に伸びている怪物にも目をやった。そう、この巨体をも倒すほどだ。次に何が来たとしても、この剣一つで蹴散らせる気がした。
と、倒れた怪物を見ていたところ、その身が僅かに動いた。ラゼルは目をむいて身構える。
しかし、動いたのは怪物が目覚めたからでは無かった。
怪物が黒い砂の塊に変質したため、そう感じたのだろう。怪物の形を保てなくなった黒い砂はドサリと落ちて辺りに広がり、その後床に滲みて行く。最後には、その砂の一粒さえ見えなくなった。
「消えた……」
後には何も残さない。魔物とは《そう言うもの》らしかった。