魔女の城 5
ぎぃぃぃ……、ばたん!
暗い屋内、ひんやりとした空気が吹き抜けたかと思うと、後ろにあった扉が荒い音を立てて閉まった。
これに思わずびくりと身を縮めてしまったラゼル。
決意を固めたはずなのに、やっぱり怖いのだろうか。そう感じて、口を引き締める。
暗いといっても、明かりが全く無いわけではなかった。
天井近くのいくつかの窓から、日の光が筋となって、扉から続く廊下を照らしている。が、天井が高く窓も小さいため、暗い印象はぬぐえない。
しばらく廊下を歩く。その間に二つほどあった扉も、魔女の力で手を触れることも無く開かれた。
ラゼルは携えた弓に手をかけるが、思い直して腕を下ろした。
拳を握り直す。なんて愚かな、魔女はこの先に待ち構えていると言うのに。怒りにかまけて魔女に飛び掛ることだけはやってはならないと、自分に言い聞かせる。
三つ目の扉が開かれると、そこが長かった廊下の終着点だった。
広々としたホール。暗い廊下に比べ明るく、ラゼルは目を細めた。
天井も先の廊下よりずっと高く、やはり窓は天井近くにあったが、その大きさが違う。壁一面に、人の身の丈二つほどの高さがある格子窓があり、外にいると錯覚させるくらいの日の光が降ってくる。
目が慣れてくると、窓と窓の合間に飾られている石像がはっきりと見えてきた。老若男女さまざまな容姿に象られていたが、大きな石版を抱えていたところは共通していた。
中には文字や図形めいたものが彫られているのが遠目からも分かったが、近づく足場も無いのにどう読むのだろうかと不思議に思った。文字の読み書きなど自分の名前でしか出来ないラゼルにとっては、無縁の心配だったが。
それまで呆然と石像を見上げていたところ、ぽん、と、誰かに背中を叩かれた。
「うわぁ!」
ラゼルは飛び上がり、振り返ったが、その後またしても驚き目を見開いた。
――なんだこれは。人か?
一見しただけでは、それは黒ずくめの男だった。背丈が異様に高く、しかし子供のように華奢な肢体を持っていた。
何よりラゼルの目を見開かせたのは、顔の部分に人間らしい目鼻口が見えなかったこと。凹凸すら無いその顔は、布で隠しているわけではない。いや、服さえも、この異様な存在は着ていなかった。なのに、全身が闇のように真っ黒だった。
ラゼルがどぎまぎとしている間にも、人とは呼べそうにないそれは、促すように、広間から伸びたひとつの回廊を指し示した。
「向こうに、魔女がいるのか?」
人ではない影はゆっくりと頷き、そのゆったりした動きのまま先を歩く。ラゼルもおとなしく後に続いた。
今まで魔女に抱いてきたイメージ。陰湿な森の闇の深く、日の光もまともに届かない場所に城を構え、その奥深くに閉じこもっているというもの。
それは、ここに辿り着くまでの間にも何度か塗り替えられてきた。そして、晩秋の横日を、開け広げた窓で迎え入れる、この部屋を目にしたときも。
部屋の隅には、様々なものが雑然と置かれていた。書物があれば、気味の悪い色の液体が入ったビンが転がっているし、良く正体のつかめない形の置物もあった。
しかしそれも、何故か禍々しい物に感じない。この、部屋の壁一面に開いた窓からさす日の光がその一因だろう。
魔女らしき人物は、この大きな窓の前で、ゆり椅子に腰掛けそれを揺らしていた。陽光を一身に受け、彼女が例の魔女である証拠のプラチナブロンドは真っ白に燃えている。
祭りの日に見たのと同じ黒衣も、その光の下では、布地の光沢によってもとの色が分からなくなるほどに輝いていた。
「いい天気ね」
魔女はこちらを向かないまま、なんとも当たり障りの無いことを口にした。そうですね、などとありきたりの受け答えをする気分でもなく、ラゼルは黙ったまま魔女の直ぐ背中まで近づいた。
「東の村から来たラゼルだ。あんたの望みの物も、ここにこうして持ってきている」
ラゼルは村長から渡された袋を取って差し出す。
それからやっと、魔女はラゼルを振り仰いだ。
ずっと憎んでいた女の顔。それを今、初めて目の当たりにして、ラゼルは息を呑んだ。
意外にも可愛らしい、己と同じ年頃の少女だった。それに、彼女の瞳は、春の青葉を思わせるほどのはつらつとした緑。光の中でも浮き立つぐらいに鮮やかで、目を合わせてしまえば離せなくなった。
ラゼルを見上げ、少女ははにかむ。
「ありがとう」
そう言って、黒衣の少女はそっとラゼルの持っていた袋を取っていった。水晶をひとつ取り出し、日の光にかざして輝きをしばし愉しんでから、ガラス製の水差しを取った。
水差しは緑色の液体に満たされ、いくつもの水晶がその中で踊っている。そこにまた一つ、水晶が落とされると、踊りは激しいものに変化した。
「これね、呪いの一種なの」
黒衣の少女は、今度はエメラルドを取り出す。
「ここに水晶とエメラルドを満たして、中の水を体中にふりかけ呪文を唱えれば、時を戻すことが出来るのよ」
エメラルドは陶器のポットに入れ、その下に置かれた蝋燭に火を灯す。火は、彼女が指先を動かしただけで燃え出した。
ラゼルは、戸惑っていた。少女の声が、祭りの日に聴いた黒衣の女のものであったことを確かめ、そして今の現象を見ればなおさら、彼女が魔女であることは間違いなかった。
しかし、これが憎んでいた女なのかと思うと、違うんじゃないかと言う思いがよぎる。今、彼女を殺すことが出来たとしても、その後には罪悪感しか残らないんじゃないかと、ラゼルは感じていた。
それぐらい、彼女はごく普通の少女に見えた。
「こうやってね、エメラルドを液体にして、さっきの水差しに入れるの」
もっと人間らしからぬ異様な雰囲気を持っていると思っていたのに。彼女はごく普通の少女の姿で、ごくありきたりの少女の仕草で、ポットの前で肘を付く。
「宝石を液体に……。そんなこと、できるのか?」
魔女はそうやって、普通の少女の振る舞いをして惑わそうとしているのか。そんな疑念を抱きながら、ラゼルは尋ねた。
「できるわ。中に、あらかじめ入れておいたものもあるしね」
そう言うと、少女は小声で何事か呟きだした。呪文なのだろうか、とラゼルは思う。
しばらくそうしていると、ポットから白い湯気が上がった。
少女はポットを取って中のものをさっきの水差しにあける。先ほどのエメラルドと変わらぬ色の液体が注がれ、水晶がくるくると踊った。
「こんなことで時間が戻るだなんて信じられないわよね」
「それを俺に聞いてどうするんだ?」
「いじわるね。信じられないならそう言ってくれたら良いのに」
肩をすくめてそう言うと、少女はクックッと笑い出す。
さっきまでの可愛らしい笑顔から出たものではないと、ラゼルは思う。水差しに落としていた目は笑っていなかった。
「馬鹿な話。戻ったところで、私はいったい何をするつもりだったのか、近頃じゃ忘れちゃったわ。この術を開発した当人が消えてしまった。残っている記録はそれだけで、本当に戻せるかどうかも分からないのに」
自らを馬鹿にした物言い。それで同情を誘う気なのかどうかは分からない。
しかし、ラゼルには引っかかる言葉が多分に含まれていた。
『本当に戻せるかどうかも分からないのに』
魔術のためにつぎ込まれた水晶やエメラルドは安易に手に入れたものではない。
遠い都まで背負って行った、多くの小麦や毛皮で換えた物。都までの道も平坦ではないと言うのに、そうやって村の者が苦労して手に入れた物を、目的も『忘れちゃった』事のために使われる。
「じゃあ、何で続ける訳? 目的も忘れたなら、やめたって良いじゃないか」
「そうね、でも、何故だかやめようとは思わないの」
こちらを見て微笑む少女。何の罪の意識も無いのかとラゼルは腹を立てる。しかし、知らずに彼女を睨んでいたことにも気づき、あわてて顔を背けた。魔女にそんな顔を向けるのは危険だった。
「こうやって、俺みたいに男を呼び寄せる、目的は?」
それとなく、ラゼルは聞く。これも『忘れた』と答えが返れば、自分は次に何をするか分からない。
この問いに少女は「あ」と声を上げる。しかしすぐに、にたりといやらしい笑みを浮かべた。
「やっぱり、気になる?」
そうやってはぐらかす気なのか。しかし、これではっきりした。
やっぱりこの人は、自分の思い描いていたとおり、村を脅かす魔女なのだ。
気まぐれで、人の痛みも分からずに事の次第を面白がる。それを無邪気にやってのけるから、振る舞いのひとつひとつが少女らしく見えたのだろう。
もう、いつ隙を見つけて弓を射掛ける場に遭っても、迷い無く彼女の胸に矢を突き刺せる。
「大元の目的は、まあ、貴方の知る限りではないわね」
少女はゆったりと歩き、窓ガラスに手を触れる。窓の外には、誰が手入れしたのか、整然とした庭園があった。
「貴方には頼みたいことがあるの。祭りの日にも話したでしょう? 相手してもらいたい子達がいるって」
そう言う彼女は今、ラゼルに背を向けていた。ラゼルに話しながらも庭園を見つめているのならば、今がチャンスだろうか。
ラゼルは弓を握るが、まだ油断はならないと思いそこまででとどめておいた。左手が、肩に触れるふりをして筒に納めている矢に伸びる。額に脂汗が浮かんだ。
「また見せてほしいの。怪物と死闘って言うの? あの時は面白かったから」
そう言って少女がこちらを振り返った。
ラゼルはぎょっとして手を引っ込めるが、それを魔女に見せる間は無かった。
この瞬間、目の前は黒い何かになって、ラゼルの体は、はらわたが心臓を押し上げる様な感覚に囚われる。
落ちた。
そう思ったのは、ひんやりとした水のような何かに体が包まれた時。見上げる先には、白い正方形と、そこに突き出された少女の頭があった。
ラゼルの体を受け止めた何かは、水よりも綿に近いものらしく、跳ね返され宙に浮く。何度かひんやりとした綿に浮き沈みするうちに、少女の頭は引っ込み、落とし穴に蓋がされた。
少女は、落ちるラゼルを見送るときどんな顔をしていただろう。間違いなく無邪気に笑っていたのだろう、とは思ったが、定かじゃなかった。
そしてあたりは闇となった。