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「本当に辺鄙なところですこと」
出迎えも監査もなく、港湾とも呼べぬ質素な桟橋へ立ったクリスティーナは独りごちた。恋は過去のものとなっていない。けれども敗れた上その争奪途上で罪状を負ってはもう、ふたたび王子との婚約を勝ち取ることはどう考えても望み薄だった。
こころを殺して歩き出す。彩度を低くして黄ばんで見える田舎の風景は生まれ育った王都と似ても似つかない。王子との婚約は確かに政略的な意味合いで取り交わされたものだった。それを合理として受け止めたことも間違いではない。けれども。
はじめて持たれたふたりだけの席は、クリスティーナにとって人生唯一の動物的に開放された時間であって、そうして自分の閉ざされたこころの扉を開け放ったくれた王子をそれから思慕し続けてきたことも確かなのだった。
(あの娘が愛されていることは確かなのでしょう。彼女には愛があった。愛を受け、愛を振りまき、そして王子を包み込む愛が。私にはなかった。お父さまお母さまが期待したのは家名を上げること、血脈を保つことであって、私の幸福ではなかったのだから)
家すら失ったクリスティーナはとりあえずのところ夜露を凌ぐのに適当そうな場所を探して島の奥へと歩いて行く。かなりの広さを持った島だが、歩いても歩いても中途半端に手の入った林が続く。小屋を建てるためにいい加減に木々を伐採し、燃料を得ようと場所を特定せずに枝を手折り、そうしてできたものだった。やがて小川に行き当たり、沿って歩いて行くと釣り糸を垂れる背中に出会った。木切れに糸を巻き付けて、粗雑に作った毛針を垂れ込んでいた。
「こんにちは、釣りですか」
振り返った顔は痩せこけてなお怪しく光る目をした中年の男だった。
「あ? 魚はやらんぞ」
なにも言っていない。先走って警句を発するなど、やはり流刑地だけあって野蛮な人間が集まっているのだろう。
「結構ですよ。それだけお痩せになっている方から食べ物を無心することなどいたしません。それより、毛針が沈んでいます。これをお使いなさい」
カバンから取り出した小ビンを差し出す。
「あ、なんだこれは」
「髪に使う油ですよ。こんなところで整える意味もないですし。毛針にお塗りなさいな」
「塗るとどうなるんでえ」
「針が浮きます。……魚には、浮いて見せた方がいいでしょう」
宙をさまよった右手がもどかしくなって、男に押しつけて返事を聞く前にまた歩き出す。過ぎ去る後ろで男は不思議そうに小ビンをのぞき込み、ゆっくりと指を突っ込むと毛針を引き上げて油を塗った。
やがて小川の脇にちょっと開けた場所を見つける。枝の張った大木のために陽光が遮られてできた空き地のようだった。クリスティーナは大木の幹に身体を預けて腰を下ろした。これまでなにも敷かずに地面に腰を下ろしたことなどなかった。けれどもいよいよ今日から野蛮人の仲間入りなのだ。帽子を取って大木を見上げる。実りはじめたどんぐりが上方で風に揺れている。
「オークのおじさま、これからよろしく」
椅子でまどろむ感覚にはほど遠いが慣れなくてはならない。ここではいつクッションが手に入るのかも分からない。木々を透かす陽光はだんだんと弱まっていき、空気がとろんと重くねばりを持ったころ、クリスティーナはほどほど不快な眠りへと落ちた。
その夜、島に特別なことはなかったが、人ひとり分のため息と粗野な釣り人の体重が三百グラム、増えた。