日々の失敗ごと 「シャワー」
「どう、かな…?開きそう?」
彼女が浴室の中から、外の人影に呼びかける。
「いやぁ…?どうなってんだこれ。」
外の脱衣所では、彼氏が扉に工具を当てながら首をかしげている。
ここは彼女の家。
浴室の掃除をしていたところ、扉が壊れて閉じ込められてしまったようだ。
「不器用だから、こういうの苦手なんだよなぁ…」
彼氏がぼやきながら頭を掻く。
その難色を示す声色からまだまだ時間がかかりそうだ、と読み取れる。
彼女の表情がこわばる。
「あの、さ。まだまだ、かかりそう…?」
おずおずと彼女が問いかける。
「うーん。もうちょっと待って」
もうちょっと。
それがどれほどの時間なのかは難しい言葉だ。
5分?10分?それとも、1時間…?
彼女には今すぐここを出たい事情があった。
ここを出たい、というよりも行きたい場所があるのだ。
肌寒くなってきた季節の浴室の寒さが、露わになっている脚をなでる。
ぞくぞくとした悪寒が、足先から頭のてっぺんに向かって駆け抜けた。
「…っ」
彼女は思わず両膝をくっつけて、部屋着の裾をぎゅっと握りしめる。
たまらなくむずがゆい感覚で思わず息が漏れた。
彼女が行きたい場所はトイレだった。
そもそも閉じ込められたと気付いたのが、トイレに行くために浴室から出ようとしたときだった。
そこから彼氏が駆けつけるまでの時間、そして扉を開けてもらうために待っている時間。
その間、ずっとお腹の重みは彼女を苦しめ続けていた。
「(どうしよう…、もう、かなりやばい…っ)」
閉じ合わせた太ももをすりすりと擦り合わせる。
もうそうしていないと、耐えられないほどだった。
もう、このままここでしてしまおうか。
そんな考えが、彼女頭をよぎった。
ここは浴室だ。
水を排出するための設備、排水溝もある。
世の中にはお風呂場でしてしまう人もいるらしいという記事を読んだことを思い出す。
そうだ、ここはしてもいい場所なんだ。
すぐに流せるし、ここでしている人もいるんだ…。
「(あ、あ、…っ、だめ…っ!)」
気のゆるみに身体が呼応したのか、欲求の高まりを感じた彼女。
その波を抑え込むように、両手を太ももの間に挟み込む。
ぎゅっ、と手に力を込めて、身体の震えを止める。
「あ、あぶなかった…」
なんとか押し寄せる欲求が落ち着いた彼女。
思わず手に水気がないことを確認して安堵する。
「危ないって、なにが?」
のんきな口調で彼氏が訪ねてくる。
「う、ううん!なんでもない!!」
必要以上に大きな声で否定してしまう。
うっかり口に出てしまっていたようだ。
彼氏にバレてしまいそうな危機に、顔が熱くなる。
彼氏には絶対に気取られたくない。
「(でも、どうしよう…。もう何分も我慢、できないよ…っ)」
腰を小さく揺らす。
もうじっとしていられない。
扉からは同じような音が繰り返し鳴っているばかりで、一向に変化が訪れない。
彼氏が扉を開けるのに難航しているのだろう。
このままでは、ここで限界を迎えてしまう。
扉のすぐそこにいる彼氏に気付かれてしまう。
「(ぜったいに、無理…っ。音とか、聞かれるなんて…っ)」
音を聞かれなければいい。
そうだ、一旦彼氏にどいてもらおう。
少しの間どこかに行ってもらって、その間に…。
そうと決まればすぐに声をかける。
「ね、ねぇ。ちょっと、コンビニとか行ってきてくれない…?」
「コンビニ?なんで?」
「えと、その。アイスとか、食べたい…から…っ」
アイスという単語を口にして、身体が冷えたような心地がする。
「いいけど、それ後でいいじゃん?早く出たいだろ?」
「それは…、そ、そう…かも」
至極当然の疑問を彼氏が口にする。
その反論が思いつかず、口を閉じてしまう。
「じゃ、じゃあ、えと、郵便受けを見にいってくれない…?」
「じゃあ、ってなんだよ。今はそんな場合じゃないだろ?」
扉越しにも彼が少し笑っているのがわかる。
完全にふざけてじゃれてると思われてしまっている。
もう、彼女の言葉を真剣に受け取ってもらうことは難しいだろう。
「(え、あ、どう、しよう…。もう…っ、もう…!)」
彼女の頭の中は、彼女を苛んでいるその欲求のことでいっぱいで。
彼氏をどこかに行かせるうまい言い訳も思いつくことができない。
「(だめ、もう、おしっこ、おしっこぉ…っ)」
もうすぐできると思ってしまっていた彼女の身体は、その準備を始めてしまっていた。
張り詰めたお腹の下の方が、収縮しようとする。
その感覚に、彼女は手に込める力を強くして必死に耐える。
寒いはずなのに、額に氷のように冷たい汗が伝う。
「(おしっこでちゃう…、もれちゃう…っ、もう、むりぃ…っ!)」
脚の付け根を握りしめる手が震える。
耐え難い悪寒に、身をよじる。
その姿は、誰がどう見ても今にも限界を迎えてしまうそうな子供の様で。
「…だいじょうぶか?」
突然意識に彼の声が飛び込んでくる。
扉の向こうから心配して声をかけてくれたのだ。
いつも安心させてくれるその声が、今日は冷や水をかけれたような衝撃だった。
「ぁ…え…?」
喉の奥から間の抜けた声が漏れる。
我慢しているのを気付かれた…?どうして…?
「息が荒いし、なんかばたばた…?してるからさ」
そういわれてはじめて気づいた。
何度も地面を蹴って、肩で呼吸をしている自分に。
「な、なんでも…ない…っ」
その恥ずかしい行為を隠そうと、すぐに取り繕おうとする。
しかし張り詰めた声の異常を、彼は聞き逃さなかった。
「なんでもなくないだろ?具合悪い?すぐ開けるから!」
彼氏は一層深刻な声をかけて、ドアを壊す勢いでこじ開けはじめる。
どうすればいいのか、彼女はいっぱいいっぱいになってしまった。
我慢しているのをばれないようにしなきゃ。
もじもじしてしまう身体を止めて、呼吸を整えて…。
- じわぁ…
手に、温かい感覚が広がった。
それは同時に、下着に不快な感覚をもたらす。
「ぁ…っ」
彼女はその感覚を知っていた。
小さな頃に感じたことのある、最悪な感覚。
「ま、まって…っ、まってっ…!」
今にも開きそうな扉の軋む音。
脚を伝いはじめた、温かい感触。
もう、止められなかった。
「大丈夫か?!」
大きな音とともに、扉の鍵が壊れる。
浴室に入った彼氏の目に飛び込んできたのは、隅でしゃがみこむ小さな彼女の姿だった。
「おねがい…、こっちこないで、みないで…っ」
蚊の鳴くような声の後に、部屋着の腰の下から一筋の水流が流れ始めた。
- しゅぅぅぅぅぅぅぃぃぃぃぃ…、ぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃ…
その筋は綺麗な琥珀色で、彼女の衣服を濡らしていく。
温かい感触が下着の中に広がっていくを覚えて、思わず身体がぞくぞくと震える。
「やぁ…、やだ、あっちいって…っ!」
彼女は壁の方を向いたまま、彼氏に訴え続ける。
傾斜のある床の上を、淡黄色の液体が溝に向かって流れていく。
浴室内に、独特の匂いが漂い始める。
やがてそれは勢いを失っていって。
彼女の服の裾からぽたり、ぽたりと水滴が垂れるだけになった。
「さい、あく…っ」
涙を含んだ声。
彼女はそのまま、さらに小さく縮こまってしまう。
彼氏はゆっくりと浴室の奥へ足を踏み入れる。
その手が、そこにあったハンドルをひねった。
「…え?」
シャワーが勢いよくお湯を吐き出す。
彼はその温度を手で確認すると、ヘッドを彼女に向けた。
「わ、ちょ、なに…?!」
彼女は暖かいシャワーを受けて全身がびしょ濡れになっていく。
失敗の跡も、恥ずかしかった匂いも一緒に流れていく。
全てを覆い隠し切った頃に、彼はシャワーを止めた。
「いやー、ごめんな?間違ってシャワーかけちゃったわ」
ありえないほど下手な嘘だった。
でも、それが逆に彼女は笑えた。
「そんな間違え方、ある?」
「不器用だから…」
「不器用にもほどがあるでしょ」
本当に不器用だな、と彼女は思った。
でも、不思議と失敗の嫌な気持ちは和らいでいた。