引きこもり税
夜、制服姿の少女が暗い住宅街を歩いていた。
自宅の灯りが見えてくる。二階建ての一軒家、クリーム色の壁には黒ペンキで「引」の文字が大きく書かれている。
「ただいまー」
美月は玄関に目を落とした。見知らぬ男物の革靴があった。
洗面所で手を洗い、リビングに入ると、L字の革ソファで母の由紀子と五十年配の男性が斜めに向かい合っていた。
「こんばんわ……」
ぼそっと挨拶をしてカウンターキッチンに入り、冷蔵庫から麦茶のペットボトルを出し、コップに注ぐ。
「美月――カレーがお鍋にあるから部屋で食べて。お母さんは少しお客さんとお話をしてるから」
「うん……」
ポロシャツ姿の中年男が「大丈夫ですよ、奥さん」と言った。
「すぐ済みます。こんな時間だ。こっちもあんまり長居するのもアレだから」
半白髪の下、ゴルフ焼けで黒々とした顔に白い歯がのぞく。顔に見覚えがある。町内会長だ。なんでこんな遅くに?
麦茶を飲みながら美月はリビングの様子を窺った。
「さっきも言ったけど、困るんですよねえ。おたくの息子さん、もう22歳でしょ? 学生でもないのに働いてないって……」
「はい、それは本当に申し訳ないと……」
「奥さん、〝引きこもり税〟はもちろんご存知ですよね? 町全体の連帯責任だから、住民税が高くなっちゃうんだよ」
「……すいません」
母が首をうなだれさせると、町内会長が顎を手でかいた。
「お兄さん、啓太くんだっけ? 家に引きこもって何年目?」
「8年になります」
長男の啓太は美月の五つ年上の兄だった。中学時代のいじめが原因で学校に通えなくなり、以来ずっと家の二階に引きこもっている。
「引きこもり税は累進課税だから、引きこもる年数が増えるたびに税率が加算されていくのは奧さんも知ってるでしょう?」
「はい……」
「引きこもり、無職、ニート……何も生産しない人間は生きてる価値なし。この国の生産性を下げる〝負債〟でしかないんだよ」
高齢化した引きこもりが社会保障費を圧迫し、国は「引きこもり税」の導入を決めた。家族に引きこもりがいる家は徴税が課され、その累は三親等の親族、さらには居住する町の住人にも及ぶ。
引きこもりがいる家には、ドアや壁に黒ペンキで「引」の字を書くことも義務化されていた(これは見せしめの意味が大きい)。
お願いです、と母がすがるような目で訴える。
「もう少し見守っていただけないでしょうか。カウンセラーや社会福祉士の方も徐々に改善してるとおっしゃっていますので……」
「見守るっていつまで? だいたい8年も引きこもっていた人間が今さら社会に出れるの?」
「必ず立ち直らせて働かせます」
強い気迫で言い切る母に、町内会長が苦い顔をする。
「百歩譲って立ち直れたとして、そのとき働く〝あて〟はあるの? バイトもしたことないんでしょ?」
「それは……なんとか仕事を探して……」
町内会長が鼻先で薄く笑った。
「あるわけないでしょ、中学も出てない人間に働き口なんて」
わかったよ、と肩をすくめる。
「俺の幼なじみが隣町で廃品回収業をやってるんだ。ちょうど空きが出たみたいだから、そこで働くといい」
「ありがとうございます。啓太が働きに出られるようになったら、ぜひご相談させてください」
「面接の日取りだけでも決めてくれないかな? 俺も手ぶらで帰っちゃ、町内会の連中に顔が立たないんだよ」
母が押し黙る。現実的に兄の社会復帰は難しかった。家族とのコミュニケーションすら満足にできないのだ。
テーブルに重苦しい沈黙が落ち、町内会長が深い息をついた。
「しゃーない。もう少し待ってもらえるよう、他の連中を説得してみるよ」
「ほんとですか」
母の顔がぱっと明るくなる。
「あんたの亡くなった旦那さんは、町のことにいろいろ協力してくれたしね。啓太くんのことも子供の頃から知ってるわけだから、できるだけのことはしてやらないとな」
「ありがとうございます!」
母が深々と頭を下げる。
「ただ奥さん、ちょっとお願いがあるんだよ。一度でいいから町内会の飲み会に来てくれないかな? あんたが自分で酌をして謝れば、納得する連中だって多いと思うんだ」
母の胸元に粘りつくような視線が注がれたのを美月は見逃さなかった。母は昔から町内でも美人で評判だった。
「すいません。私、お酒に弱くて……それにパートの仕事もあるので……」
「たまには休めばいいじゃないか。スーパーの店長の大森さんだって、町内会のメンバーなんだ。俺からも一言いっておくよ」
「はぁ……」
高校を卒業後、すぐに父と結婚し、専業主婦になった母は世間知らずなところがあり、押しに弱かった。訪問販売のセールスマンを追い返すのは、もっぱら美月の仕事だ。
「この家のローンだって大変なんだろう? 飲み会には銀行の支店長だって来るんだ。俺の口利きがあれば金のことも相談にのってくれるよ」
町内会長の日焼けした手が母の手に重ねられた
「旦那さんのことは残念だったけど、お子さんたちのためにも、そろそろ新しい生き方を考える時期じゃないかな」
男が母の手を撫でまわし、美月の目が吊り上がる。
「ふざけないで! 母さんはホステスじゃないのよ。なんでスケベ親父のお酌をしなきゃならないのよ」
町内会長があっけにとられたように少女を見返す。
「出てって! ウチのことには口を出さないで」
キッチンを出て詰め寄る娘を、母が立ち上がって制止する。
「やめなさい、美月」
「お母さんは悔しくないの? 啓太お兄ちゃんのことをあんな風に言われて」
顔を怒りで紅潮させ、母に訴える。
「な、なんだい。こっちは親切で言ってやってんだ。後悔したって知らねえぞ」
町内会長が憎まれ口を叩くと、きっと美月が睨み付ける。
「だから、出てって!」
男は真っ赤な顔で立ち上がり、スリッパの足音も荒々しくリビングを横切った。玄関からドアの閉められる音が聞こえた。
嵐が過ぎ去り、リビングには母娘が残された。
「……ご飯、まだだったわね。食べましょうか。着替えてらっしゃい」
母が無理に笑顔を作り、キッチンに入った。最近は化粧をする機会も少なく、髪にも白いものが目立つ。
美月は静かにリビングの引き戸を閉め、階段を上がった。廊下の手前にある部屋のドアが少し開き、中からピコピコと電子音が聞こえた。
部屋の中ではTシャツ姿の兄の啓太があぐらをかいてテレビゲームに熱中していた。伸びた髪はボサボサで、肩には白いフケが落ちている。
腕には赤黒い自傷の痕があった。兄はいつもポケットに大きなカッターを入れ、何かといえば精神安定剤代わりに自らを傷つけた。
美月は廊下の奥にある自分の部屋に入り、ドアを閉めた。鞄をベッドに放り投げ、机の前の椅子に疲れたように腰を下ろした。
机の隅には写真立てがあった。
小学生の兄と美月、その両側に父と母が写っていた。兄妹は陸上の競技ユニフォームを着て、手に賞状とトロフィーを持っている。
美月の目が写真の中の父に向けられた。
(お父さん……なんで私たちを残して死んじゃったの?)
兄が引きこもって三年目、酔った父は家の階段から足を踏み外して転落し、打ち所が悪く、そのまま亡くなった。
兄が引きこもってから父の酒量は明らかに増えた。息子の将来を悲観し、半ば自殺のようなものではなかったのかと美月は思っている。
美月は写真立てを倒すと、腕で頭を覆うように机に突っ伏し、ううっ、と嗚咽をもらした。
◇
週末の午後、玄関から呼び鈴が鳴り、母の由紀子がエプロンで手を拭きながら玄関に対応に行く。
「はーい、今行きまーす」
しばらくして玄関から何か言い争うような声が聞こえてきた。ソファでスマホを見ていた美月は立ち上がり、リビングを出た。
玄関の外に大勢の町の人が集まっていた。
「いいかげんしてくれ。あんたの息子がいるから、町の税金が毎年、上がってるんだよ」
先頭の中年男性が歯を剥いて母に食ってかかっていた。
「申し訳ありません」
母がエプロンを脱ぎ、深々と頭を下げる。
「あんた、町内会長の就職の斡旋を断ったらしいじゃないか」
「断ったのではなく、もう少しお時間をいただけないかと……」
「同じことだよ! いいかげんにしてくれ。みんな、これまでずっと我慢してたんだ。今日という今日は言わせてもらう」
「本当にお詫びのしようが……」
ちっと中年男性が舌打ちする。
「あんたじゃ話になんねえよ。その啓太ってガキに会わせろ。引きずり出しても働かせてやる」
「すいません……今は休んでいるものですから」
「休む?」
男が鼻で笑った。
「明日、学校や会社があるわけでもない人間が何を休むっていうんだよ。一年中、休んでるじゃないか」
玄関の外にいる人の多さに美月は恐怖を覚えた。
引きこもり税が導入されてから、住民が引きこもりの人間をリンチにかけたり、追い込まれた家族が自らの手で子供を殺害したというニュースも耳にした。
痩せた中年女性が詰め寄る。
「さっさとその役立たずのガキを出しておくれ」
「すいません。みなさんとお話しする機会をちゃんと作りますので、今日のところはお帰りいただけないでしょうか」
「いいや、会うまで私は帰らないよ。文句のひとつでも言ってやらないと腹の虫がおさまらないんだ」
そうだそうだ、という声が上がる。母は玄関の上がり框に膝をつき、土下座の格好で頭を下げた。
「この通りです。お許しください」
「あんたの土下座なんて意味ないんだよ!」
美月は踵を返し、廊下から二階に駆け上がった。このままではいつ人々が家に押し入り、兄を引きずり出そうとするかわからない。
「お兄ちゃん、入るよ」
兄の部屋のドアを開けた。兄はTシャツにスウェット姿でゲームをやっていた。
耳のイヤホンを外し、美月が叫んだ。
「お兄ちゃん、逃げて! 町の人たちが押しかけてくるよ」
兄はぼんやりとした目で妹を見返した。美月はゲームの電源を落とし、腕を引っ張って立ち上がらせ、二階から一階に降りた。
玄関からは今も押し問答の声が聞こえてくる。母の「家に中に入らないでください」という叫び声がする。
「お兄ちゃん、こっち」
リビングに行き、窓から庭に出た。庭用のスリッパを履き、二人は裏戸からそっと外へ出る。
兄が足を止めてうずくまった。肩がブルブル震えている。
(そっか……お兄ちゃん、外に出るのが久しぶりだから……)
しかし、ここにいては町の人たちに見つかってしまう。一刻も早く安全なところに兄を連れて行かなくては。
(でもどこに?……引きこもり税のせいで、ウチは親戚中から嫌われているし……)
美月は首を振った。警察でもどこでもいい。とにかく今すぐこの場を離れよう。
「いたぞ!」
大声が響き、美月は弾かれたように顔を振り向けた。道の向こうに三人の若い男性たちがいて、美月たちを指さしていた。
兄の肘を掴み、反対へ逃げようとしたときだった。
バァーン――
轟音が辺りに響いた。
若者たちの背後に小柄な白髪の老人が立っていた。宙に向けた猟銃の銃口から白い煙が揺れている。
(銃?……)
老人は猟銃を今度は水平に――美月たちに向けた。
「動くな、引きこもり。逃げたら撃つ」
老人の冷たい声が届き、美月は青ざめた。
(本物の銃だ……本気で私たちを撃つ気なんだ!……)
銃を構えたまま、老人がそばにいた若者たちに訊ねる。
「どっちが引きこもりのガキだ?」
「そっちだ! 男の方だ」
照準から目を離し、老人が顎を振った。
「連れてこい」
若者たちがこちらに向かってくる。美月は足がセメントで固められたように動けなかった。
捕まったら兄はリンチに掛けられるだろう。玄関の外に集まった群衆の恐ろしい姿が脳裏によみがえる。
「お兄ちゃん、逃げて……」
か細い声で美月は告げた。自分が射線に立てばあの老人も撃てないだろう(あくまで希望的な予測だが)。
だが――兄はふらふらと自分から若者たちに近づいていった。その右手に握られたものを認め、美月は目を見開いた。
「こいつ、カッターを持ってるぞ!」
若者の一人が叫んだ。
いつも自傷用に持ち歩いている大きなカッターだ。誰かを攻撃する武器ではない。それは兄にとって一種の〝お守り〟代わりで、不安なことがあると、無意識に手にする癖がついていた。
「動くな! 手からそれを放せ」
老人の叫び声が響く。だが、兄の足は止まらない。壊れたからくり人形のように男たちに自分から近づいていく。
「止まれと言ってるんだ!」
老人の上ずった声が聞こえた直後、再びバーンという銃声が響いた。
兄の水色のTシャツの胸に赤黒い染みが大きく広がった。がくっと膝が落ち、口からごふっと血の霧が噴き出す。
「お兄ちゃん!」
美月が駆け寄って兄の身体を支えた。
銃を手にしたまま、老人が呆然としたように言った。
「こいつが悪いんだ……俺は悪くない」
若者たちは一人が逃げ出すと、他の二人も追いかけるように姿を消した。
「み……づき……」
兄が何かを言おうとしていた。少女は耳を兄の血まみれの口のそばに近づけ、言葉をひとつも聞き漏らすまいとした。
美月の顔が驚きで強張り、目を見開いた。やがて兄の身体から力が抜け、ぐったりともたれかかってきた。
◇
週末の昼、家の壁に黒ペンキで書かれた「引」の文字を市役所から派遣された清掃業者が高圧洗浄機で消していた。
美月がその様子を二階の窓から見ている。
そこはかつて兄の部屋だった。兄が亡くなり、美月が不要になった私物を段ボールに詰め、廃品業者に出す準備をしていた。
あの事件以来、美月と母親は町では腫れ物のように扱われている。後味の悪さがあるのだろう。町の人も母娘を見ると、気まずそうに目を逸らした。
部屋の入り口に人の気配がした。母が立っていた。
「おつかれさま。少し休憩しましょうか。お昼の用意ができたわよ」
ドアの前を離れようとする母を美月が「お母さん――」と呼び止めた。
「お母さんがお父さんを殺したのね?」
表情が消えた母の顔を美月はじっと見返す。
「お兄ちゃんが最後に言ったの。お母さんがお父さんを階段から突き落としたって」
「…………」
「あの頃、お父さんとお母さんはよく喧嘩していたよね? お父さんはお兄ちゃんを引きこもりから立ち直らせる施設に入れようとしてたけど、お母さんはそれに反対していた」
「それは――」
「知ってるよ。お兄ちゃんは施設に行こうとしてた。今の状況から抜け出したいと思ってた。でも、お母さんはお兄ちゃんを外に出したくなかった。お兄ちゃんがいつまでも子供みたいにお母さんを頼ってくるのが居心地良かったんでしょ?」
「美月、何を言ってるの? お母さんは――」
苦笑する母を美月はきっと睨み付ける。
「お兄ちゃんはお母さんに依存していたかもしれないけど、お母さんもお兄ちゃんに依存していたんだよ」
自分に自信がない母は、子供に頼られることで安心感を得ていた。精神医学ではこれを〝共依存〟と呼ぶらしい。
DVを振るう彼氏や夫と別れられない女性の中には、共依存状態になって、関係を断ち切れないケースもあるという。
「お母さん、私、高校を卒業したら家を出ていく」
「え?……」
来月の誕生日で美月は18歳――成人になる。自分の意思で契約を結び、住むところも自分で決められる。
「出て行くって……どこに? 生活費はどうするの?」
「もちろん働く。簡単じゃないかもしれないけど……まだ高校の卒業まで半年あるから、これからじっくり進路を考える」
「何を言ってるの?……あなた、何も知らないわ。働くってそんなに甘いものじゃないの」
「……私が社会のことを何も知らないことぐらい自分でもわかってる……この家を出たら、厳しいことやつらいことがたくさん待ってると思う……」
大人に騙されて痛い目に遭うだろう。男に振り回されて傷つきもするだろう。だけど、兄のようにずっと家に引きこもって人生を終えたくない。だから私はこの家を出る――もうそう決めた。
「そんなこと絶対に許しません! 子供は大人の言うことを聞きなさい」
激高する母の顔を、美月は冷静に見返した。
「私はお母さんに依存しない。お母さんも私に依存しないで」
少女はそう告げると、母の目の前でドアを静かに閉めた。
(完)