第十四話 藤(一)
夕食を終え、風呂に入った僕は部屋に向かっていた。その途中の廊下で、何かがひらりと足もとに落ちてきた。
「……なんだこれ?」
拾い上げてはみたものの、薄暗がりの廊下ではよく見えなくて。月明かりが差し込むガラス戸の方へと歩く。月光により照らされたそれは薄紫色の花びらだった。
「でも、一体何処から……」
きょろきょろと辺りを見回してみるが、窓も戸も開いていない。第一、こんな花は庭になかったはずだ。家の中に飾ってあるものでもないし……。
うーん、と一人首を傾げていると、声を掛けられた。
「にき、何してるんだ?」
「父さん」
「妖怪関係で何かあったのか?」
「いや、そういう訳じゃなくて。この花びらがどっかから落ちてきたんだけど……」
「ん?どれどれ」
父さんの掌に花びらを置く。目を細めてそれを見た父さんは、ああ、と合点したようで。
「これは藤の花だな」
「藤?でも、こんな花この家にはないよね?」
「ないと言えばないし、あると言えばある」
「どういうこと?」
言っている意味がわからない。眉を顰めていると、ふっと父さんが笑った。
「こっちに来ればわかる」
「え?」
障子が開け放たれたすぐ近くの部屋へと父さんが入っていた。ほらほらと手招きされて、僕もその後に続く。
父さんは片手で花びらをそっと持ちながら、もう片方の手を上げた。真っ暗闇の中、手探りで紐を掴んで引っ張ると、ぱちぱちと音を立てながら電灯が点いた。
そこは、仏壇がある部屋だった。黄金の仏壇は今は扉が閉ざされている。床の間には掛け軸があり、日本人形や刀が置かれていた。
けれど、この場に藤なんてなかった。
「何処にも藤なんてないけど……」
「あるよ」
「何処に?」
「ほら、あそこだ」
父さんは天井を……いや、その下の壁を指差した。
黒色の背景に金色の模様。額縁に納められたそれは、我が家の家紋だった。
確かに、我が家の家紋は下がり藤だけど……。
――もしかして、からかわれている?
そう思って訝しげに父さんを見遣る。その視線に気づいた父さんが「べ、別にからかっている訳じゃないからな」と慌てて言い放った。
「いいから見ててごらん」
父さんが視線を戻す。
訝しく思いながらも、僕もじっと家紋を見つめる。
暫くすると、金色の家紋から何かがじわりと滲み出てきた。まるで筆から絵の具が滴り落ちるように、薄紫がぼとり、と溢れ落ちた。
近づいて拾ってみれば、それは先程拾ったものと同じ――藤の花びらだった。
一つ、また一つと、花びらがひらひらと舞い落ちてくる。まるで雨のように、唖然と眺めている僕にそれは降り注ぐ。
ぽとり、ぽとり。
ぽとり、ぽとり、ぽとり。
ぽとぽとぽとぽとぽとぽと――
「……って降り過ぎ!」
「ははは」
「いやいや父さん、笑い事じゃないから!」
もはや藤の大雨である。
僕たちの周りは藤の花びらで埋め尽くされた。
ああ、もう!風呂に入ったばかりなのに!
頭や肩に乗った花びらを落としていると、父さんが悪戯っぽく訊いてくる。
「驚いたか?」
「……うん、驚いた」
「そうかそうか」
僕の返答に満足したように父さんが頷いた。
「父さんも最初見た時は驚いたよ。なんせ、飾ってある家紋から本物の藤の花びらが落ちて来るなんて思いもしなかったからな」
こんな大雨は俺も初めてだけど、と苦笑しながら父さんは僕の隣に腰を下ろした。
父さんが辺りに散らばっている藤の花びらを数枚手に取った。
「ほんと、久しぶりに見たよ」
目元が緩ませ、懐かしそうにそれを見つめる。目尻に少し皺が寄った。
「それにしても、不思議だな」
「何が?」
「いや、大体春にこの現象は起きていたんだが……まさかもうすぐ秋になるこの時期に見られるとはなぁ。にきが来たから二度咲きでもしてくれたのかもしれないな」
僕の顔を覗き込みながら父さんが言った。
「本当に、ここは昔から奇怪なことばかり起きる家だよ。地震でもないのに家が揺れたり、誰もいないのに足音が聞こえたり、楽しみにしていたおやつがいつの間にかなくなっていたり。……ああ、そうそう。家に遊びに来ていた友だちが怖さのあまり気絶したこともあったな」
あいつ、こういう奇怪なことは大の苦手だからなぁ。あの時はたいへんだったよ。
父さんが苦笑いを浮かべる。言葉とは裏腹に、その声はとても楽しそうだった。




