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第九話 磐座(一)

 長い長い散水ホースを使って庭全体に水をかけていく。水を滴らせた植物たちが夏の太陽の下できらきらと輝く。土はじわりじわりと湿り気を帯びていく。

 僕はこの光景を見るのが好きだった。水を浴びた植物たちが活き活きとして見えるから。

「さて、こんなものかな」

 庭を見渡して、よし、と独りごちる。

 ホースをしまうために手洗い場に向かおうとした、のだが――

「……もっと……もっとこっちに水をかけてくれっす」

「うわっ!?」

 突如後ろから地を這うような低い低い声が聞こえてきた。

 ばっと振り返り、声が聞こえてきた方を見遣る。

 なんとツワブキが群生している場所から手が出ているではないか!

 小さな子どものような手。けれど、その色は緑色で。明らかに人間の手では、ない。

 な、何だこれ!?ツワブキの妖怪か?

 得体の知れない存在に思わず後ずさる。

 しまおうとしていたホースをそちらに向け、いざ妖怪が襲いかかってきた時にいつでも水をぶっかけることができるように胸の前に構えた。

 さあ、いつでもかかってこい!……いや、嘘です。できればかかってくるなよ!

 なんて、心の中で思っていたのだが、ここでふと気がついた。

 ……待てよ。さっきの声、何処かで聞いたことがあるような……。それに、あの腕も何処かで見たことがあるような……。

 ホースを構えながらゆっくりと謎の手に近づいて、よくよくそれを観察する。

 子どものような緑色の手には、その指と指の間に水掻きがついていた。

「全く、そんなところで何やってんだよ、河童」

「いやー、若が驚くかなぁと思って」

 ユルい声とともに、がさがさとツワブキの下から這い出てきたのは河童だった。

 河童が「どもども」とお気楽に手を挙げる。

 僕はがくりと肩を落とした。

「お前、もっと普通に登場しろよ……」

「かっかっかっ。これぐらいで驚いてちゃあ若もまだまだっすね」

「まだまだでも別にいいよ……。というか、よく僕がここに住んでいるってわかったな」

 河童は管狐の紹介もあって、今は隣町の池に棲んでいる。だから、ここに来るのはそこまでたいへんなことではないだろう。

 でも、僕がこの家で暮らしていることを河童に話した記憶はない。

 僕が買った食材をばあちゃんに届けに行っている間は、つゆりさんと河童には待ってもらっていたし……もしかしたらその時につゆりさんに僕がここで暮らしていることや家の場所を教えてもらったのかも知れない。

 だが、そんな僕の疑問は河童によってすぐに解決した。

「若がここで暮らしているっていう情報なら、そこら辺の妖怪たちに訊いたんすよ。妖怪が視える人間が昔よりも少なくなってきているこの御時世っすからね。若の特徴を言ったら、それはきっとまつな様の孫のことだなって皆さん口を揃えて教えてくれたっす」

「うわー、個人情報漏洩……」

「かっかっかっ。妖怪の情報網を甘くみないでもらいたいっす」

 腕を組んで快活に河童が笑う。一方、僕は思い切り脱力した。

 情報漏洩についてはもうどうしようもない。ここは河童がこの土地に馴染めているようで何よりだと思うことにしよう。うん、そうしよう。

「それで、河童は何しに来たんだ?」

「ああ、そうだったそうだった。若を驚かせようと思って、本来の目的を忘れていたっす」

「お前なぁ……」

 ぽん、と頭の皿を叩いて笑う河童に僕は脱力した。

「若に渡したい物があって」

「渡したい物?」

「ちょっと待っていてくださいっす」

 河童が背中の甲羅に手を回す。何をしているのだろうと思っていた矢先、「あったあった」と河童が嬉しそうな声を発した。

「若にこれを渡しに来たんすよ」

 河童が取り出した物――それは、大きな二枚貝だった。だが、何故か紐で閉じられている。

 訝しげに思いながらも、「どうぞっす」と河童に渡されて反射的に受け取ってしまった。

「……何これ?」

「蛤っす」

「いや、貝の種類を訊いているんじゃなくてさ……」

「中身を見ればわかるっすよ」

「中身?え、これ開けてもいいの?」

「昔話じゃないんすから開けちゃダメなものを渡すはずないじゃないっすか」

 かっかっかっと河童が笑う。

 僕にとってはお前たち妖怪の存在も昔話もそう変わらないんだけどなぁ……。

 と、僕は苦い顔を浮かべた。

 兎にも角にも、河童に言われるがままに紐を解き、ぱかりと蛤を開いた。

 すると、何ということか!中からもくもくと煙が出てきて、僕は白髪白髭のお爺さんに――

 ……なんてことはやっぱりなく。

「な、何これ?」

 中身を見て思い切り顔を顰めた。

 蛤の中におさめられていたのは、禍々しい緑色の物体だった。どろどろとしていて得体が知れない。

 見ればわかると河童は言っていたが……ごめん、見ても全然わからない。

「おや、若は知らないんすか?河童の妙薬っすよ」

「河童の妙薬?」

「そう。知る人ぞ知る逸品っす」

「……ほう」

 そう言われてもピンとこない。

 首を傾げる僕に、何処か誇らしげに河童が説明してくれた。

 河童の妙薬――それは、河童が持つといわれる伝説上の薬。骨接ぎや打ち身、火傷や切り傷などによく効く万能薬だという。

 河童から薬の作り方を教えてもらったという伝承が今もなお各地に残っているらしい。

「切り落とされた手もこれがあればくっつけられるんっすよー」

「へ、へえー」

 き、切り落とされた手……。

 一瞬想像しかけてやめた。

 ぶんぶんと頭を振って、思い浮かべた想像も一緒に振り払う。グロいのは苦手なんだ。

「この前のお礼と言ってはなんですが、貰ってほしくて。いざという時に使えますんで」

「あ、ありがとう」

 伝説の万能薬というのは確かに凄い。ゲームの世界だったらとても重宝しそうだ。

 でも、ここは現実世界。この妙薬は見た目からしてもう既にアウトで、ましてや使うなんて僕にはハードルが高すぎる。

 僕はそれをそっと紐で閉じて取り敢えずズボンのポケットにしまった。

 たぶん、使うことはないだろうなぁと、思いながら。

 河童は僕に薬を渡せて満足そうだ。

 ……何だか申し訳なく感じる。

 僕は河童と目が合わせられなくて視線を外した。

 ぽん、と再び河童が頭の皿を叩く。そんなに叩いて良い物かなのだろうかという僕の疑問は今は置いておくとして。

「あと、もう一つ理由があって」

「もう一つの理由?」

「相撲をとりにきたんす」

「相撲?」

「はいっす。あの時は弱っていたし、それどころじゃなかったんで言えなかったんすけど、河童といえば相撲っすから」

「……ごめん、何言っているのか全然わからない」

「わからなくても、そういうものなんすよ。さあ、若!いざ勝負!」

 ぺたん、ぺたん、と河童はその場で四股を踏んだ。

 おおう、様になっている。相当手慣れているなこいつ。河童から何かオーラのようなものが感じられるが、もしかしてこれが妖気というものだろうか……じゃなくて!

「盛り上がっているところ悪いけど、僕は相撲をとる気なんて全然ないから」

「どうしてっすか!?」

「いや、どうしてって言われても……」

 僕はこの前のことを思い出した。河童が道端で倒れていた、あの時のことを。

 河童はさっき「あの時は弱っていた」と言った。確かに弱っていたんだろうけれど、僕の足を掴んだその手の力強さと言ったら……。

 そう、弱っていてもあの力だったのだ。

 河童が万全な体調の今、僕がこいつと相撲をとったところで勝つなんてことできないだろう。

「無駄な勝負はしたくない主義なんで」

「若、それでも漢っすか!?大丈夫っすよ!もし怪我をしてもさっきの薬を使えばすぐに治るっすから」

 だから、さあさあさあ!

 河童が何も問題などないと言わんばかりに促してくる。

 だが、煽られても問題ないと言われようとも、僕は絶対にやらないぞ!

 漢には戦わなければならない時がある、なんて言うこともあるようだが、今はその時ではない。そもそも、そんなことは知ったこっちゃない。

 だって、腕を怪我して絵が描けなくなったらどうするつもりだ!

 万能薬なんてものがあったとしても怪我なんてしたくないし。

 ふと、僕はある考えに至った。

 もしかして、僕と相撲をとる口実として、お礼と称して薬を持ってきたんじゃないだろうな……?

 ついつい疑ってしまう。

 だが、期待に胸を膨らませ、きらきらと瞳を輝かせている河童を見ていたら、深く考え過ぎているだけな気がしてきた。

「兎に角、相撲はとらないから」

「えー!」

 きっぱりと断ってホースの片付けを再開する。

 河童は足に捕まってきて「若ー、やりましょうよー」とせがんでくる。

 ……だから、力強すぎるって!

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