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第八話 河童(一)

「食材がね、足りないんよ……」

 水分補給をするため台所へと赴いた僕に、ばあちゃんが溜息まじりにそう言った。

 頬に手を当てて「困った困った」と呟きながら、その視線はちらちらと僕の方に注がれている。

 凄く既視感が……じゃない、ついこの前にもこんなことあったわ。

 化け狸が出現した先日の出来事を思い出した。

 未だ視線を投げかけてくるばあちゃんをやっぱり無視することなんてできなくて。

 まあ、今日の目標分の課題はさっき終わらせたし……この後特にこれといってしようと思っていたこともないし……。

 ……しょうがないなぁ。

「何が足りないの?」

 振り返って訊けば、ばあちゃんは待っていましたと言わんばかりに、次々と食材の名を述べていく。

「ああちょっと待ってメモするから!」

 慌てて携帯端末を取り出して入力する。「あらあら便利ねぇ」と他人事のようにばあちゃんが呟いた。

 食材はそこまで重くないものばかりだが少しばかり量が多い。

 聞き逃しがないかどうか確認を取った後、携帯端末をしまう。

「それじゃあ買ってくるよ」

「よろしくね」

 こうしてばあちゃんに見送られながら、僕は買い物へと出かけたのである。


 *


 そして、事件は起こった。

 いや、起こっていた、と言った方が正しいのかもしれない。それはちょうど帰宅途中の出来事であった。

「それにしても今日は一段と暑いな……」

 買い物袋をぶら下げて、太陽が照りつけるコンクリートの道を歩く。

 空から降り注ぐ日差しは強い。テレビでここ最近では一番の暑さだと言っていた。

 額から滲み出る汗を手の甲で拭いながら歩いていると、ふとあるモノが目に入ってきた。

「水……水をくれ……」

 掠れた声が僕の耳に届いた。

 ――さて、ここで問題だ。

 道端に水を求めて倒れているモノがいたとする。こんな時、一体どんな行動を取るのが正しいだろうか。

 これが普通の人だったら、僕は迷わず助けるだろう。でも、今回は違う。何故ならそれは人などではなかったのだから。

 子どもの大きさ程の緑色の体躯。手には水掻き。背中には甲羅。そして、特徴的な頭のお皿。

「……河童?」

 そう、まさしくそれは河童だった。

 河童なんて今まで見たこともなかったが、それはどう見たって河童だった。

 弱々しくこちらに手を伸ばしている河童に、一体どんな行動を取るのが正しいのだろうかと僕は思案する。


 一、大人しく水をあげる

 二、無視して逃げる

 三、追いうちをかける


 挙げておいて何だが、一の選択肢は無理だ。今僕は水など持ってない。買い物袋に入っている物の中で液体といえば醤油ぐらいである。幾ら相手が妖怪といえど、それを飲ませる訳にはいかないだろう。

 自動販売機がないかと辺りを見回してみたものの一台もない。

 ……どうする?自動販売機があるところか水があるところまで担いでいく?いやでも、正直触るのは勘弁願いたいな……。

 あの手の水かきとか背中の甲羅とか頭の上の皿とかが気にならないといえば嘘になる。けれど、得体の知れない何かに触るのは恐ろしい。河童という妖怪であるのはわかっていても、未知の生物に変わりはないだろう。

 三の選択肢は完全に却下だ。

 ここで追いうちをかけたとして一体何になる?後が怖すぎるだろ。河童が回復した時にどんな仕返しをされるかわかったものじゃない。


 ――もし何か困ったことがあったら遠慮せず気軽に相談するんよ。誰かに頼ることも大事やからね。あと、絶対にとは言わないけど安易に関わらないように。視えると絶対に関わらないなんてことは無理やけど。取りあえず、まずは害を為すモノかどうか様子を見て、それから行動するように。時と場合によっては無視することも大事やからね。


 ばあちゃんの言葉を頭の中で反芻する。人ではないモノが視えるようになった時に言われた言葉である。

 僕は思考した。そして、判断を下した。

 よし。ここは大人しく二の選択肢を選ぶとしよう。

 僕だって、厄介事に巻き込まれるのはできることなら回避したいのだから。

 何も聞こえていません視えていませんよー。

 心の中で呟きながら、すたすたと河童の傍らを通り過ぎる……もとい、通り過ぎようとした、のだが――

「……痛っ!?」

 予想外の出来事に僕は思いきり叫んだ。

 がさり、と持っていた買い物袋が地面に叩き付けられた。

 ……何故、こんなことになっているのだろう。

 地面に突っ伏しながら一人で考える。

 取り敢えず、買ってきたものの中に瓶とか割れそうなものが入ってなくてよかった……じゃなくて!

 上半身を少し持ち上げて後ろを向くと足を引っ張られていた。

 誰にとは言わずもがな。河童に、である。最後の力を振り絞って僕の足を掴んだといったところだろうか。

「おい離せ!」

 河童に声を掛けてみたものの反応がない。

 河童は顔を伏せたままで、その体は弛緩しているように見えた。

 恐らく気絶してしまっているのだと思う。

 それなのにその手はがっちりと僕の足を掴んでいて振りほどこうにも全く振りほどけない。こいつ、実は起きているんじゃ……と思ってしまう程には。

「あの弱々しく伸ばされていた手は一体何だったんだ!」

 僕が大声を上げても河童は微動だにせず、手が離れることはおろか力が緩むこともなかった。

 地べたに倒れ込んでいるなんて、こんな情けない姿は絶対につゆりさんには見られたくないな……。

 そう考えながら、負けてなるものかと妙な対抗意識を燃やして何とか動こうと奮闘していたその時だった。

 苦渋の色を浮かべる僕の目の前に、不意に影が差した。

「にき、何しているの?」

 突然聞こえてきた第三者の声に、僕は咄嗟に低姿勢から顔を上げた。

「く、管狐?」

「はーい」

 名前を呼べばそいつは素直に返事した。

 管狐がぶんぶんと尻尾を揺らしてじっと僕を見つめている。

 そうかと思えば、フッと鼻で笑った。

 ……こいつ、今僕のこと馬鹿にしたな?いや、いつも馬鹿にされている気がするけど!

 管狐の出現に別の意味で僕の顔が歪んだ。

 そんな僕のことなどお構いなしに、管狐が訊いてきた。

「にきってば、何巻き込まれているの?」

「好きで巻き込まれている訳じゃないよ」

「どうせ巻き込まれるようなことをしたんじゃないの?わー、まつなに言いつけてやろうっと」

 管狐は非常に楽しそうである。「五月蠅いぞ!」と怒鳴りたいのを僕はぐっと堪えた。

 ここで管狐の機嫌を損ねてはならない。今僕を助けられる可能性を持っているのは、管狐だけなのだ。

 僕は努めて冷静に言葉を発する。

「僕はちゃんと無視しようとしたんだ。したんだけど何故かこんな状態になっているんだよ。頼むからこの河童を何とかしてくれ!」

 男のプライドを捨てて必死で助けを求める。それなのに、さも興味がありませんといったように管狐はただ一言、「ふーん」と呟いただけだった。

 ……ちょっと泣きたい気分になった。

 きっと情けない顔をしているであろう僕を見て、再び管狐が鼻で笑う。そして、ぽん、と一つ、ふさふさの尻尾で地面を打った。

「さて、にきをからかうのはここで一旦終わるとして」

「一旦じゃなくて永遠に終わってください」

「それは嫌。だって、にきをからかうの楽しいし」

「この人でなし」

「何とでも。ボクは人じゃないしね。それよりも、今はこの状況から抜け出したいんじゃないの?」

「抜け出したいに決まっているだろ」

 恨めしげに睨めば管狐の瞳がキラリと光った。全くもって嫌な予感しかしない。

「しょうがないなー。何か美味しい物をくれるっていうのなら手を打ってあげるよ」

 提案してきた管狐に、「やっぱり」と僕は項垂れる。

 こいつが僕を無償で助けてくれる訳がない。だが、ここで管狐に臍を曲げられたら困る。「……いいよ、それで」と返せば、管狐は「やったー」と飛び跳ねて喜びを露わにした。

「さあ、交渉は成立しただろ。そんなことしてないで早く助けてよ」

「んー、ちょっと待ってて。そうだなぁ……あと二、三分くらいってところかな」

「……は?」

 目を細めて管狐は言った。わけがわからないが、今はこいつを信じるしかない。

 炎天下、コンクリートの上で僕はただただじっと暑さに耐えながら待った。

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