第3話 雨宮砂月
「乾杯ー!」
「話聞いてた?」
雨宮砂月が差し出すビールジョッキに、渋々烏龍茶の入ったジョッキを掲げて乾杯する。
カチャンと心地いい音が鳴った。
「あはは。ごめんなさい、やっぱり飲みたくなっちゃって」
雨宮砂月はあっけらかんと笑みを溢す。
初対面だということもあり、笑顔の裏にある気持ちまでは定かではない。
だが先ほど起こったことを考慮すれば気持ちは十分に察することができるので、俺はそこに対する言及は避けることにする。
結局こちらが気遣わなければならないことへ多少億劫に感じるものの、乗り掛かった船だと自分を納得させた。
「私、雨宮砂月っていいます」
テーブル越しの自己紹介。
俺は烏龍茶を軽く喉に流し込んでから、言葉を返す。
「知ってるよ」
「えっ、ご存知なんですか?」
雨宮砂月は目を輝かせて訊いてきた。
大方俺をファンか何かと思ったのだろう。
「今日知った」
俺が言うと、雨宮砂月は目を瞬かせてから慌てたように口を開く。
「いや別に、もしかしてファンなのかな? とか思ってないですからね。ほんとに!」
「動揺しまくってんじゃん」
「全然してないですって!」
雨宮砂月はハイボールをぐびっと飲んでから、店員が届けに来た皿をテーブルに並べていく。
焼き鳥の盛り合わせに鳥の軟骨、チキン南蛮、枝豆、シーフードサラダ。
酒と合わせれば堪らなく唆られるメニューたちも、お供が烏龍茶だとどうも食欲が湧いてこない。
酒の味を覚える前だと、お供が烏龍茶でも喜んで食べていたことだろう。
つまらないことに時の流れを感じながら、俺はシーフードサラダを小皿に取り分ける。色合いが満遍なくなったところで、雨宮砂月の眼前に小皿を置く。
「あ、ありがとうございます。……びっくり、男の人がこんなにさり気なく取り分けてくれるなんて」
「ああ……別に俺もいつもやってる訳じゃないよ」
どちらかといえば、今までの俺は取り分けられるのを待っている側だった。
変わったのは就活を意識し出してからだ。インターンなどで企業の人事部とご飯に行く際は、率先して小皿に取り分けた。
少しでも印象を良くしようと心得ていた行動が、いつも間にか板についていただけの話だ。
「かっこいいですね」
「ああ、どうも」
思わずぶっきらぼうに返事をする。
テーブルマナーのたった一つでも、いざ実践できるようになるまでは相当な気力が必要だった。今までやってこなかったことなのだから、当然だ。
だが、結局は意味の無かったことなのだろう。
内定先が無いという確固たる現実が、そのことを嫌という程実感させる。
雨宮砂月は俺の返事に戸惑ったような笑みを浮かべて、鳥の軟骨をよそった。
「ありがとう」
「い、いえ」
数秒間、テーブルに気まずい空気が流れる。
今しがたの態度が起因しているのは明らかだ。
誰だって初対面の相手を褒めた時に、ぶっきらぼうな返事をされては対処に困ることだろう。
そんなこと、頭では分かっている。
俺は心の中で息を吐き、口を開いた。
「俺、新田勇紀」
雨宮砂月は大きな目をパチクリとさせて、慌てたようにお箸を置く。
「そういえば、名前聞いてなかったですね」
「だよな」
小さく笑ってみせると、雨宮砂月も安心したように口元を緩めた。
「私のことは砂月って呼んでください。……私はなんて呼べばいいですか?」
「適当にどうぞ」
「それ一番困るんですけどー」
雨宮砂月──ではなく、砂月は不満気な顔をして言う。
普段から大学では友達を名前で呼んでいることから、初対面の相手を名前呼びすることに対しては何ら抵抗はない。
だが、今日限りの付き合いなのだとしたらこの名前の交換にはさして意味のないように思えた。
「じゃ、勇紀でお願い」
「りょうかーい」
砂月は明るく返事をしてから、ハイボールをごくごくと飲む。今日一番の飲みっぷりだ。
「砂月はいくつ?」
「ぷはっ」
砂月はジョッキをテーブルに置いて、小首を傾げた。
「いくつに見える?」
「合コンしてるわけじゃないんだけど」
「あはは、確かに!」
俺のツッコミに、砂月は可笑しそうに肩を震わせる。
初見の際は、歌声と名前からお淑やかなイメージを抱いていたが、案外彼女は溌剌とした性格のようだ。
その笑顔は大衆居酒屋には不釣り合いなほど華やかで、そんな相手を笑わせたことに悪い気はしない。
結局美人と食事をともにするというのは、男にとってのストレス発散になるのかもしれない。
一時でも就活のことを忘れさせてくれるのなら、この時間にも価値がある。
俺はそう結論付けると、インターホンを鳴らして店員を呼ぶ。
「生中一つ」
「かしこまりました」
店員は軽く一礼して厨房に戻る。
いつも居酒屋の一杯目は、生ビールと決めていた。これも就活の影響だ。
「飲んでいいの?」
砂月の質問に、こくりと頷く。
「成り行き上仕方ない」
「そうこなくっちゃ」
砂月は嬉しそうに言うと、チキン南蛮を小皿によそってくれる。
口に運ぶと、肉汁とマヨネーズの風味が口内に拡がった。
「チキン南蛮旨いなー」
「ね、大正義だよチキン南蛮は」
肉を肴に、酒が進む。
砂月の雑談力は高く、暫く話が止むことはなかった。
かなりの時間が経ったあと、砂月は思い出したかのように話題を転換した。
「……待って、それはそうと忘れてない? 私の年齢聞きたいんじゃなかったっけ」
「ええ、タイでゾウに踏みつけられそうになった話の続きは?」
「私そんな話してないんだけど!?」
砂月は俺の適当な返事に仰天したようにつっこんだ。
俺は小さく笑いながら、二杯目のビールを空けた。
「そうだっけ。てか、砂月も今まで忘れてたろ」
「そ、そんなことない。ずっと覚えてて、あえて流してたんだから」
全く信じられない。
無言で見つめると、砂月は居た堪れなくなったような表情を浮かべたあと、降参したように手を挙げた。
「思いの外盛り上がっちゃって、忘れてました」
「よろしい」
「それで、いくつだと思う?」
「んー。二十二とか」
適当に答えると、砂月は驚いたように口を覆った。
「正解! すごい!」
砂月の反応は、必ずしも俺に嬉しいものではなかった。
食事で高揚しかけていた気分が萎んでいくのを感じる。
普段ならこんな容姿端麗な女が同い年だと、これから関係を進展させていくのが楽しみだと思っていたに違いない。
だが、今日の光景を目の当たりにするとまた別の感情を抱いてしまう。
先ほど大いに恥じた感情だ。
ほとほと自分が嫌になる。いつから俺は、こんなに情けない人間になったのだろう。
年齢が違えば、自分を納得させることもできた。
だが同い年だと、夢を追う姿が余計に眩しく思えてならない。
自分の現状との差を、虚しく感じてならない。
「勇紀は?」
砂月の問い掛けに、一瞬だけ口を倦む。
「タメだな」
「え、同い年なの!」
砂月は両手を口に当てて反応する。
「嬉しい……!」
「嬉しい? なんで」
普段の俺なら、砂月の反応に何ら疑問を抱くことはなかっただろう。
だが今日に限って、何故か気になってしまった。
「だって、勇気貰えるもの。同い年の人が、こんなにしっかりしてるなんて」
──しっかりしてたら、もっと上手くいってるはずだ。
俺から質問したというのに、砂月の答えに気分が沈んでしまう。
これ以上自分のことを嫌いになる前にと、俺は腰を上げた。
「えっ。あれ、もう行くの?」
「ごめん、就活の準備しないと」
嘘は言っていない。元々帰宅後に、すぐ面接での感触をノートに纏めるつもりだった。
財布から五千円札を出して、テーブルに置く。
二人分の会計はこれで殆ど足りるだろう。
廊下に出て、俺はテーブルに背を向けた。
「あのね。さっき、ありがと。嘘ついてくれて」
唐突なお礼に、思わず足を止める。
「嘘?」
振り向かないまま、声を出す。
「勇紀があの人たちを追い返す決め手になった書類、ただのチラシだったでしょ。それを警察からの許可状みたいに話し出すんだから、びっくりしちゃった」
背後に砂月が近づく気配があった。
「ボタン、外れちゃってたね」
その言葉で視線を下ろすと、確かにワイシャツの第五ボタンが見当たらない。
そういえば先程金髪と揉み合った際に、何処かへ飛ばされた記憶がある。
「ボタンの分のお詫びは、また今度させてくれる?」
ポケットに、何かが入れられた感覚があった。
「待ってるからね」
トンと背中を押されるがまま、俺は店を後にする。
外は太陽が沈み、夕刻の風はまだ涼しさを残していた。
ポケットに滑り込まされた物を弄ると、厚紙の手触り。
取り出すと、それは名刺だった。
雨宮砂月という名前の下にはメールアドレスと、見習いシンガーとの記載がある。
オーダーメイドであろう名刺は、どんな想いを込められて作成されたのだろう。
蹴散らされたCDは、どんな想いを込められて作成されたのだろう。
俺は砂月の名刺を、せめて丁寧に財布に入れた。




