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27. Adolfの記憶

 コルネリス・ディートリッヒ。

 愛称はケース。……本人の希望で、キース。

 そいつが俺の上司になったのはその前の上司がクビになったからだったもんで、半端な時期だったのを覚えてる。


 あれは7年前……俺が31の春だった。


 ヴァッサーシュピーゲルは差別意識の根強い田舎町だ。治安もそこまで良くはなく、州警察と自治体警察の仲も悪い。……だから、警察官になってからというもの、ひたすらに忙しない日々が続いていた。


 クビになった方の上司は、鉤十字のついたビラを部下に配って「この思想が間違いとされたのは連合国に敗北したからだ」……とほざき、非営利団体(実態は特定民族を差別する団体)の暴行事件を刑事部門に伝えず揉み消したことがバレたクソ野郎だった。……本人は正しいことをしたと思っていやがったのが、余計にタチが悪い。


 ……で、その暴行事件の被害者は、聴取の時に俺の名前を聞くや否や、


「……嫌がらせですか」


 と、俺を睨んだ。

 心底アホらしいが、ウチの両親も「そっち」の人間だった。……アドルフ……都会じゃ気まずくて暮らせねぇ名前だ。


「……ここがまともな街だったら、役所は俺の名前を「考え直せ」って言ったろうよ」


 俺の言葉に、奴さんは翠の瞳を見開き、小さく謝った。

 ……引っ越すことを勧めたが、訳あってできないとも聞いた。担当を引き続き俺にしてもらうように頼んで、まあ、少しだけ仲良くなった。


「負けるつもりはありません。……俺は、何も間違ったことはしていませんので」


 ガーネットのような赤い髪に、翠の瞳。

 ……そして、「レヴィ」という名前の響き。

 ろくな目を向けられないと分かっていながら、そいつは凛とした態度で言い放った。……すげぇ奴だと思った。


 俺にゃ、あんなふうに生きることはできねぇからな。


 タバコを吸いにエントランスに出て……そこで、初めてキースと出会った。


「……ああ、良かった。どの部屋に行けばいいのかわからなくて……」

「……? えーと、何の用です?」

「コルネリス・ディートリッヒです。ヴァッサーシュピーゲル保安警察の監査役としてやってきました」

「…………え」


 可哀想に。そう思ったよ。

 どう考えても貧乏くじだからな。


「若いですね……」

「……こう見えて32歳です。アムステルダム大学で法学を学び、フランスにも留学経験があります。かつてはバイエルン州のリヒターヴァルトで任用されていました」

「……オランダの方っすか。なんでわざわざこっちに……」

「やりがいを感じましたので」


 その言い草には、若干カチンときた。

 上から目線っつうのか、なんつうのか……。自分を「正す側」と信じ切ってなきゃ、そんな言葉は出ねぇだろう。


「僕は、この街を変えようと思っています」


 ……ああ、こいつは根っからの馬鹿だ。

 曇りのない茶色の瞳を見て、そう思った。

 分かってるよ。馬鹿は、俺の方だ。

 変えることもできない癖に、受け入れることもできないくせに、流されてなあなあで生きている。


 だから、あの青臭さを否定しながらも、曇りのない瞳に希望を感じてしまった。


 俺は弱かった。

 正しさに生きることもできなけりゃ、悪を貫くこともできやしねぇ。

 俺は、誰かに追随(ついずい)するしかできなかった。


 だから、誰も救えなかったんだ。




 ***




 灼けつくような痛みで目が覚める。

 あれほど薬を飲んだのに、最近はやたらと寝つきが悪い。


 また悪夢を見た。死んだ上司の夢を、ここ最近頻繁に見る。

 歳の割に幼い顔つきの、やたらと正義感の強かった男。

 変わらない理不尽の前に歪み、過ちに手を染め、破滅した馬鹿野郎だ。


「はぁっ、はぁ……あ、ぐ、ぅあぁぁぁあ……っ」


 腕が痛い。()()()()()()()()()()右腕が、絶えず痛みを訴える。

 この腕がトラックに轢き潰された時、俺は確かに「誰か」の影を見た。

 聞こえない怨嗟(えんさ)の代わりに、「無い」はずの腕が痛みを訴える。痛みから逃れるように、枕元の棚から手探りで鎮痛剤を取り出す。量なんて知ったこっちゃねぇ。眠れるまで、痛みがなくなるまで、とにかく胃に流し込む。


 痛むのが腕なのか心なのか頭なのか、もうわからない。何が痛みの原因かなんて、どうだっていい。ただ、ただ、染み付いた痛みから逃れたい。


 意識がようやく遠のく。痛みが遠ざかり、ほっと思考を手放す。夢の世界へと落ちていく……


 ……ああ、また、あの「夢」か……


 金髪の男が目の前にいる。

 俺がとっくに辞めたはずの……しかも、「ガス爆発で吹き飛んだはずの」職場が目に入る。


 腕は、夢の中でも存在しない。この仕事をしていた頃には、まだあったはずの右腕がない。


「どうも。アドルフ・グルーベです」


 目の前の男に挨拶をする。……言葉は、決まり文句のように自然と口をついて出た。


「初めまして、辞令は聞いていると思います。僕が、キース・サリンジャーです」


 キース・サリンジャー。悪を裁く警官の「噂」。

 悪事を働けば現れる、正義の代名詞。

 コルネリス・ディートリッヒだったはずの、そうでなくなった「誰か」が、また、「初めての挨拶」をする。


 ああ。俺はいつまで経っても、苦痛から逃れられないらしい。

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