第1章 8
8.
啓司が戻ってきたと直紀からのショートメッセージで知って、遠夜はすぐに会いに行きたいと思ったけれど、仕事もあるし何となくどう接していいか判らず、貴彦にメッセージを送った。
『了解。今日、仕事が終わったら遠夜の部屋に行く』と短い返事が来て、遠夜はホッとして仕事に向かった。
本来なら、今日は貴彦や啓司と一緒に地上都市東京から来る17歳の新人との面談があったはずだったのだが、啓司と貴彦も今日は無理ということで延期になった。
遠夜は、いつもなら文句ばかり言って先延ばしにして啓司に怒られるデスクワークを淡々とこなし、驚愕した直紀から額に手を当てられるという暴挙を許し、午後の講演会に臨んだ。
直紀からのメッセージによると『13時より、地下大都市コウシュウから招いた技術者、梁宇航氏による講演会。業務地区B講堂』とあった。
あれ、これって昨日、恭香が午後から面談した人なんじゃ…
と思いながらB講堂へ向かうと、扉の前で恭香が大人の男性二人とにこやかに話していた。
どうしよう…意味もなくドキドキしながら、何気なさを装って講堂へ入ろうとすると「あら、遠夜さん」と恭香から声をかけられ、不自然な感じで立ち止まって「あ、昨日はどうも」と挨拶した。
ものすごくぎごちなかった気がする…不愛想になっちゃった。
「昨日はショートメッセージありがとう。すごく嬉しかったです」ニコッと笑って言う。
遠夜は笑顔が何だか眩しくて目を逸らし「いや…貴彦はもう今日から仕事してるよ」ととんちんかんな返事をしてしまった。
「そうなんですね!良かった」と両手を顎の下で打合せ「遠夜さんは、この講演会を聴きに?」と首を傾げた。
「そう。仕事の一環みたい」
「梁さんはコウシュウでも指折りの技術者で、お若いけどすごい能力の持ち主なの。面白い講演になると思うわ」
では、と言って軽く手を振り、恭香は講堂の袖の方へ去っていった。
遠夜も精一杯の勇気を出して手を振り返した。
ああ、主催者の側なんだ。
ちゃんと仕事してるんだな。
俺も…来年からは貴彦や恭香とともにこの地下大都市トウキョウを運営する側になるんだ。
同時通訳のイヤホンを配っていた人が、遠夜のイヤーカフを見て「要りますか?」と訊いてきた。
「いや、要らない」と断って、階段を上がり隅の方の席に腰かけた。
寝てても判らないかな?と思いながらイヤーカフを操作してウェアラブル端末にブルートゥースで接続する。
ウェアラブル端末の同時通訳アプリを起動して、広東語に設定した。
梁氏の講演は、非常にレベルの高い話で恭香の言った通りとても面白かった。
地上都市群のことなど今まで全然興味がなかった遠夜だが、勉強してみようかと思わせるものだった。
『お前は幹部候補なんだから、地上都市や地球全体の趨勢も見ていかなければならない。
いつまでもあれが嫌これが嫌なんて言っていられないんだよ』
啓司の声が蘇る。
そうなんだな…βクラスの啓司だってちゃんとそうやって将来を見据えてるんだ。
俺もいつまでも啓司や貴彦に甘えてちゃダメなんだな。
啓司に無性に会いたくなった。
あのおっかない声と、こんなに離れていたのは初めてだ。
講演は活発な質問が飛び、梁氏は丁寧に答えて更に議論が発展し、盛況のうちに幕を閉じた。
遠夜も大きな拍手を送って、席を立った。
ざわざわと人の声がこだまする、B講堂の扉を出てロビーを出口へ向かっていると「遠夜さん!」と後ろから呼び止められた。
振り返ると、恭香がこちらへ向かってくる。
…なに?
遠夜は思わず身構える。
「どうでした?」上気した顔で恭香が大きな瞳を見張るようにして訊いてくる。
「うん、すごく面白かった。地上都市のこと勉強してみようと思った」
遠夜がどぎまぎしながらやっと答えると「そうでしょ?遠夜さんの頭脳なら、絶対に面白いと感じてくれると思ったの!」嬉しそうに笑って遠夜の手を取り「こっちに来て!梁さん紹介する!」と袖に向かって歩き出した。
突然のことに、遠夜は頭が真っ白になり、恭香に手を引かれるままについて行った。
「梁さん!」大きな声で恭香が呼ぶ。
数人の男性と談笑していた大柄な梁氏は、恭香の声に顔を上げてにこっと笑った。
「梁さん、この人は頭脳の未成年でトップの遠夜さん。
講演を聴いて面白かったって」
恭香は遠夜を紹介し、梁氏は穏やかに笑って「こんにちは。聴いてくれてありがとう」と流暢な日本語で言って右手を差し出してきた。
大きな手を握り返しながら「面白いお話聴かせていただきました。刺激になりました」と言った。
壇上での印象よりずいぶん若い。
20歳前後か?
「また会う機会もあると思うわ」にこっと笑って恭香が言う。
遠夜は「じゃあ俺これで…紹介してくれてありがとう」と言って梁氏に会釈して恭香に向かって手を上げ、講堂を後にした。
急いで部屋へ戻ると、貴彦が部屋の前で待っていて「お疲れさん」と声をかけてきた。
「ごめん、遅くなった」遠夜が謝ると「いやいや。…良いことがあったみたいだね?」笑って言う。
「すごく面白い講演を聴いた」遠夜は言って「じゃあ、啓司のところへ行こう」と促した。
少し精神の在り方が変わった。
並んで歩きながら貴彦は遠夜の変化を感じた。
幼い子供のようだった精神構造が、年相応に近づいているような感じだ。
あの辛抱強い啓司の激情を目の当たりにして、何か感ずるところがあったかな?
それとも恭香という女の子の存在か?
いずれにせよ、良い傾向だ。啓司は寂しがるかもしれないが。
貴彦は心の内でそっと微笑んだ。
啓司の部屋の前でインタフォンを鳴らす。
ロックが外れる音がし、ドアが開いて啓司が顔を出した。
「やあ、具合どう?」貴彦が微笑んで訊く。
「…入ってくれ」啓司は身を引いて、二人を部屋の中へ誘った。
部屋の真ん中に据えてあるテーブルには、PCとそのモニターが3台とタブレット端末2台、それに付随するケーブル類が床に散乱していた。
「おわ…もう仕事してるの?」遠夜が足の踏み場もない部屋に戸惑って尋ねると
「あ、すまない。すぐ片付ける」啓司は慌てたようにケーブルをまとめ始めた。
「直紀と美都から仕事の引継ぎ受けてたんだ」と言いながら手早くモニターのスイッチを切ってサイドデスクの方へ移動させた。
「座ってくれ」とテーブルを拭く。
タッチパネル式の飲料サーバーから3つのグラスに冷たいお茶を注ぎ、遠夜と貴彦の前に運んで自分も一つを持って椅子に腰かけた。
お茶を口に含んで飲み下すと、啓司はグラスを置いて二人に頭を下げた。
「貴彦、遠夜、迷惑をかけてしまって済まなかった。申し訳ない」
「いや、全然そんなことないって!」遠夜は驚き、急いで言った。
「そうだよ、こちらこそ啓司の思いに全然気づかなくて悪かったね」貴彦は穏やかに話しかける。
啓司は頭が上げられず、俯いたまま両手で顔を覆った。
「あの、啓司、俺が悪かったって思ってるんだ。啓司にいつまでも甘えてたらダメだって判ったから」
遠夜は啓司の顔を覗き込むようにして一生懸命言った。
「啓司が考えてることを俺たちにまで隠さなきゃいけないって思わせたのは俺たちのせいだから。
これからはもっと、思ってることを皆、口に出そう。口に出せないことでも、強く念じてくれれば俺には感じ取ることができるから」
貴彦は声にヒーリングの精神波を乗せて、静かに話す。
そんなに自分を責めて傷つかないで欲しい。優しい啓司。
啓司が顔を上げる。涙が零れた。
「…俺は、二人のような、ずば抜けた素晴らしい能力がない。だからいつも自分を恥じていて君たちの友達と名乗ることができないと思っている。
せめて君たちの役に立ちたいと、幼いころからそれだけを思ってきた。それが自分が君たちの傍にいることを許される唯一の手段だと」
遠夜は啓司の涙と、その告白の内容に愕然とした。なんだって?
啓司は涙を零しながら続ける。
「そのくせ、俺は君たちの華やかな才能に嫉妬してたんだ。
これ以上ないほどの能力に恵まれた遠夜がまるでそれを要らないもののように振る舞い、ワガママをいうことに腹が立って仕方なかった。妬ましかった…
要らないなら俺にくれって、何度も言いそうになった」
「俺は遠夜に甘えていたんだよ。
俺がいないとなにもできないと思って欲しかった。頼って欲しかった。
自分の存在意義を見出すために、遠夜を支配しようとした。
ごめん、遠夜」
深く頭を下げる。
「ちょ、ちょっと待って啓司」遠夜は慌てて啓司の両肩をつかんで起こす。
「俺、お前が何を言ってるか、全然判らない。
俺は、啓司が仕事だから面倒見てくれるのかと思ってた。嫌いだけど仕方なく。
貴彦にはそうじゃないって言われたけど…」
言いながらちらっと貴彦を見ると、少し潤んだ目で貴彦は頷く。
啓司は遠夜に肩をつかまれたまま、首を横に振る。
「友達になりたいと…役立たずでも友達だって言われたいと…ずーっと思ってた」
遠夜は啓司の肩を離し、呆けたように床に座り込んで啓司を見上げた。
「…何言ってんだ…友達?
俺はお前のこと兄弟とか家族とか、そういう存在だとずっと思ってたよ。
だから昨日の朝、お前に怒鳴られたあと初めて、もしかして嫌われてたのか仕事だから構ってくれてたのかと気づいてすごく不安になった」
ああ、そういうことか。貴彦は納得した。
昨日の夕食時、なぜ遠夜がいきなりそんなふうに言い出したか、判らなかった。
遠夜なりに啓司の心情にいろいろ思いを馳せていたんだな。
それでこの2日間、仕事も頑張ったんだ。
ふふ、と貴彦は思わず笑い、二人の訝し気な視線を浴びて
「近すぎて気づかなかったこと、言わなきゃ判らないことってたくさんあるんだね。
俺も反省した。啓司の感情に配慮が足りなかったな。遠夜の思いにも。
これからはお互いになるべく伝えて、兄弟3人、仲良くしていこう」
椅子から立ち上がって、遠夜と啓司の頭に両手を置いた。
ふたりの暖かい精神波が流れ込んでくる。
心地いい。
啓司は再び顔を覆うと嗚咽した。
遠夜が立ち上がって頭を撫でてやっている。
貴彦は啓司の精神が、今までにないほど解放されて穏やかになっていくのを感じた。
…良かった。本当に。