第1章 4
4.
翌朝、遠夜は約束通り啓司の怒声で起こされた。
これがこれから毎日続くのかよ…遠夜はげんなりしながら顔を洗う。
食堂に行かないと怒られるだろうけど、昨夜大量に食わされた焼き菓子のおかげで胃がもたれている。
ああ、めんどくせえ…
遠夜はのろのろ着替えると、部屋を後にした。
貴彦は、だらだらと食堂に姿を現した遠夜を見て、思わず笑顔になった。
「おはよう、遠夜。啓司のモーニングコールはてきめんだね」
「モーニングコールとかいう洒落たモンじゃねーよ…怒鳴られるだけだぜ」
遠夜はぐったりと手近にあった椅子に座る。
「何か食べる?」貴彦が訊いても、首を横に振る。
昨日の夜食が効いたよなあ…俺も何も食べる気がしない。貴彦は苦笑すると、コーヒーにミルクだけ入れて薄いトーストを一切れと果物を添えて遠夜の前に置いた。
「ほら。少しでも胃に入れておいた方がいい。俺も胃もたれしちゃって辛いんだけど食べるから」
「啓司の野郎…殺す気か…」遠夜は息も絶え絶えに呟いた。
「これくらいで死ぬか。せっかく起きたんだからさっさと食え。今日のスケジュールちっと変わったぞ」
いつの間にか啓司が真後ろに来ていて、遠夜は飛び上がる。
「啓司は元気だねえ…」感心したように貴彦が言う。
カラ元気だよ。そう言いたいのを我慢して、啓司は遠夜の横に座った。
「スケジュール変わったって…なに」遠夜がコーヒーを口に含んで顔をしかめながら訊く。
「死ぬほど嫌がっていたデスクワークから解放してやる。開発中の、最新型の降雨調整装置の会議に行け」
「はあ?」
遠夜は間抜けな声を出した。
貴彦も驚いたように啓司を見つめている。
「俺が?降雨調節装置?何言ってんのお前、全然門外漢だぞ」
「そんなことは知っている。ただ、そろそろお前も頭脳と技術の協働の場に顔くらい出しとけってことらしい」
啓司は手に持ったタブレット端末を見ながら言う。
「え~なんでだよ」遠夜は不服そうにトーストをかじった。
「お前、自分がいま何歳か判ってるか?」啓司はじっと遠夜を見つめながら言う。
「17歳だよ…あっ」そうか。遠夜は遅まきながら気づいてぞっとした。
「来年は成人だ。
仕事の内容が、現在のようなサポート業務から本格的なトウキョウの運営に関わることになる。ましてやお前は幹部候補なんだから、地上都市や地球全体の趨勢も見ていかなければならない。
いつまでもあれが嫌これが嫌なんて言っていられないんだよ」
「そんなこと俺にできるか!」かじりかけのトーストを投げ捨てて、思わず遠夜は立ち上がる。
いつもそうだ。俺の意思を無視して皆で決めやがって、俺に押し付ける。
「遠夜」慌てて貴彦が遠夜の耳のイヤーカフに触れる。
遠夜の周りで発生し、不穏に動き出そうとしていた風のような空気の流れが停まった。
遠夜の周りで食事していた人たちは不穏な空気をいち早く察知して一斉に避難していたが、ホッとしたように席に戻る。
慣れているとはいえ、遠夜の巻き起こす嵐に巻き込まれないに越したことはない。
遠夜はまたぐったりと椅子に腰かけ、テーブルに突っ伏した。
啓司はまたも自分を支配しようとするマイナスの感情に負けまいと殊更に冷酷に言う。
「お前が幹部候補なのはここに来た時から決まっていたことだ。俺が決めたわけじゃない。
お前の能力が高いのは俺のせいじゃない!なぜいつも俺が悪くなるんだ!」
ばん!とテーブルを力任せに叩き、食堂にいた人間皆が驚いて視線が集中する中、啓司は身を翻して食堂を出て行った。
「まずいな…ちょっと行ってくる」貴彦は遠夜に言いおいて、啓司を追いかけて走って行った。
啓司が激情を露にするのを初めて目の当たりにした遠夜は、驚いて口を開けたままポカンと見送っていた。
何?どうした?
何で啓司があんなに怒っているんだ?
貴彦は「啓司!待って!」と追いかけながら悔やんでいた。
昨夜、啓司には珍しい、嫉妬のような負の感情を察知してはいた。
ただ、自分で抑えようとしているのが判ったので、あえて気づかぬふりでいた。
こんなに早く爆発するとは思わなかった。
「啓司!」やっと追いついて肩に手をかけると、予期せぬ感情の嵐が貴彦を襲った。
―――――ドウシテ オレハ トオヤノヨウニナレナイ
―――――トウキョウ ナンテ ナクナレ
―――――オレハ キエテシマイタイ
繰り返し繰り返し渦巻いて流れ込んでくる、巨大な感情の奔流に貴彦は自分が巻き込まれていくのを感じた。
ヤバイ…これは抑えられない。
巻き込まれて貴彦まで爆発させてしまったら、ここが大変なことになる。
ギリギリの精神状態の中、貴彦は今取り得る唯一の手段を取った。
すなわち意識を飛ばし、気を失って倒れた。
見ていた人から大きな悲鳴が上がる。
「貴彦!」
啓司を始め、たまたまそこにいた人たちが駆け寄ってくる。
倒れた貴彦を抱き起そうとするのに、「触ったらダメだ!」と鋭く制して医師が医療ロボットとともに駆けつけてきた。
「こちらで処置する。仕事に戻ってくれ」医師はロボットにてきぱきと指示を出して貴彦をストレッチャーに乗せると医療施設に運んでいった。
啓司はその場で唇を噛み、拳を握って後悔をかみしめていた。
俺は一体何をした?
能力の高い遠夜や貴彦にみっともなく嫉妬して、本人に八つ当たりしたんだ。
自分の存在意義を見出せないのは、自分のせいなのに。
ぎゅっと目をつぶる。
「…啓司」と後ろから声をかけてきたのは、直紀という同僚だった。
「先ほどの医師が、お前も医療セクションに来いって。話を聞きたいらしい」
「…判った」
啓司は立ち上がり、ふらつく脚に苛つきながら歩きだした。
「遠夜のマネジメントは本当に厄介だと思う。不可能に近いよ。
皆が嫌がってやらないからって、全部お前に押し付けてごめんな。
これからはもっとシェアしてやっていこうという話になってるよ」
「いや、俺はやりたくてやってるんだから良いんだ」
遠夜のマネジメントまで取り上げられたら、俺は本当にここにいる意味がなくなっちまう。
「…そう無理するな。啓司は本当によくやってるよ」
「じゃあ、今日は俺と美都でお前の仕事振り分けてやっておくから」と言って、直紀は啓司に向かって手を上げ医療セクションの手前で左に折れて、オフィスセクションに向かって歩いて行った。
啓司は「ああ、悪いな」と手を上げて見送り、医療セクションの自動ドアを大股で入った。
食堂に取り残されていた遠夜は、廊下の向こうで大きな悲鳴が上がり、貴彦が倒れたと聞いて席を立った。
が、周りの人間に押しとどめられ(お前が行くとまた状況が混乱する!)、仕方なくまた椅子に座っていると、直紀と美都が来た。
「遠夜、今日は俺と美都で啓司の仕事も分担することになった。
言うこと訊いてくれよ頼むから」直紀が懇願するように言う。
「啓司…貴彦もどうしたんだ?」遠夜が心配になって訊くと
「まだ何もわからない。啓司も貴彦も医療施設へ行ったから、お前は心配しなくていい」
と言って、タブレット端末を操作し「降雨調整装置の会議?…なんだこれ」と首をひねった。
「ああ、今日の仕事だって。何時にどこに行けばいいんだ?」遠夜が訊くと、美都も直紀も目を丸くして遠夜を見る。
遠夜が行く気になってる、こんな訳の判らない仕事に…とその目が雄弁に物語っている。
「直紀」と遠夜が急かすと「あ、ああ…9時にオフィスC517号室」慌ててタブレットの画面を読んだ。
「判った。その後のことはショートメッセージで」立ち上がりながら遠夜が言うと「OK」と言って二人で首を傾げながら去っていった。
啓司の悲鳴のような声が耳から離れない。
『お前の能力が高いのは俺のせいじゃない!なぜいつも俺が悪くなるんだ!』
啓司を悪者になんかしてない。少なくとも遠夜にそのつもりはない。
親とは暮らせない、この地下大都市では俺にとっては兄弟っていうか家族みたいなものだ。
幼いころから何故かずっと俺の面倒を見てくれた。
俺がいくらめちゃくちゃな行動をとっても、黙って処理してくれてた。
いつの間にかそれが当たり前みたいになって、俺は啓司に甘えていたんだ。
でも。
啓司は俺のことをどう思っていたんだろう。
仕事だからしょうがないと、嫌いな人間の世話をしてきたんだろうか。
友達、ではなかったのだろうか。
遠夜は項垂れてオフィスセクションへ歩いていった。