第四話 見えない火花
シリーズ中、たぶん唯一の雨守視点です。
「あ、お構いなく。雨守先生」
「コーヒーしかないですけど」
豆は粗目に挽いて、と。ゆっくりもてなす気もないからな。苦めでいいか。俺はドリップしたコーヒーを、渡瀬と名乗った女性に勧めた。そして小さなテーブルの反対側に座る。なぜか後代は俺の背後ではなく、俺の右手前、渡瀬の左手前に陣取った。
『お砂糖、ないですからねッ!』
渡瀬に向かって顎を突き出した後代が口を挟む。当然、渡瀬にその声は聞こえてはいない。それにしてもなんで初対面の渡瀬に、こんな噛みつきそうな顔してるんだ? コーヒーを淹れてる間も俺の隣でずっと彼女を睨んでいたし。『先生先生! この人、今、先生が背中向けてる間、部屋中きょろきょろ見回してます!』って、小学生かお前は。別に見まわされて困るものもないんだがな。
この渡瀬という女には、誰も、何も憑いていない。守るに値しないからか、守る必要がない強さがあるからか、そのどちらかだ。立ち居振る舞い方から見て、後者だろう。俺とそんなに歳も違わないだろうが、きっと自信家に違いない。だが「若さから来る傲慢さ」ではないようだ。
そんなことを俺が考えてるとは気づきもせず、渡瀬は屈託のない笑顔を俺に向ける。
「では頂きます。ありがとうございます」
そして渡瀬が静かにコーヒーを口にする様子を、後代は見たこともないような……『ざまあみろ』って顔をして見ている! さてはお前、生前は甘くしないと飲めなかった口だな? それにしてもなんてえげつない悪い顔するんだ。お前の清楚なイメージ、崩れてるぞ。
「ああ、おいしい。いい豆を使ってらっしゃるんですね」
あれ? 苦いはずだがな。拍子抜けするほど嬉しそうな顔を渡瀬は向けてくる。さてはこの女、根っからのコーヒー党か! 後代は目を見開き、わなわなと唇を震わせている。その髪は空中に広がって逆立ち、ゆらゆらと揺れている。怖! 今まで霊を怖いと感じたことは一度もなかったが、はっきり言って怖いぞ、後代?! いったいどうしたんだ? 今になにかやらかすんじゃないだろうな? 物体に触れることはできないから心配はないだろうが、頼むから大人しくしていてくれないかな。いつもの後代と違い、視界にガンガン割り込んでくるから気になって仕方がない。ここは用件だけすませて、渡瀬には早くお引き取り願おう。なんとか平静を装って……。
「早速ですが、依頼の件を」
「ええ、そうですね。こちらが先方の資料です。学校長はすぐ今日にでも来て欲しい、とのことでした」
少しうつむいてブリーフケースから茶色い角形封筒を取り出す渡瀬。そんな渡瀬のなんでもない仕草のたびに、後代がピクンと動く。小動物か。
俺は差し出された封筒から依頼先の公式の学校案内、担当する科目お呼び講座数、講座内の生徒人数などの資料を取り出し、目を通す。これらは表向きのなんの変哲もない、可もなく不可もない資料だ。
『ふむふむ!』
髪も表情も普段通りに戻った後代は、いつの間にか俺の背後に回って食い入るように資料を覗き込む。これにそんなに気合入れなくてもいいんだよ? それに顔、近いよ。実際に行って声の主にあってみなければ、その学校の実情なんて把握できはしないのだから。
顔を上げて渡瀬を見る。まっすぐ目があった。
『きいっ!』
なに言ってんだ後代? しまった。目を動かすな、俺! ごほん、必要のない咳払いを一つ。
「珍しいですね。普通、書類と先方の校長との面接だけで契約してますが、県教委の方が間に入るなんて、初めてです」
「いきなりお伺いしてすみません、雨守先生。私、この仕事は初めてで、それぞれの学校はもちろん、非常勤講師の方々のお役にたてるように、皆さんのお仕事の様子をしっかり知っておきたいんです」
『なに調子いいこと言ってんのよ!』
後代はまた体を前に乗り出して叫ぶ。うるさいよ、ほんとに!
「どうかしましたか?」
やばい! 顔に出ていたか?
「ああ、いいえ、なんでもないです。ちょっと胃が痛んだもので」
『えっ? やだ、先生、大丈夫ですかッ?』
腹を抑えてみせた俺に渡瀬に向けていた野獣のような顔を一転、うるうるしたような目で振り向く後代を、俺は睨みつけながら呻いた。
「だ、大丈夫です。ちょっと、その、静かにしていれば(お前がな!)」
『あ……あうあうあうう』
後代は俺の目力に言わんとすることを理解してくれたのか、自分のほっぺたを両手で抑えてうずくまった。そう、頼む。頼むよ後代。
「そうですか。やはり非常勤講師の方も、ストレスが大きいんでしょうね」
渡瀬が俺の顔を覗き込むが、心配して、というよりは社交辞令だろうな。
「いえ、それほどでも。お気になさらず」
「いいえ、健康状態も把握せず依頼契約を進めてすみませんでした」
「本当に大丈夫ですから」
「そう言っていただけると助かります。教育現場に穴を開けたままでは、いけませんものね」
この渡瀬って女、本気で言っているのかな? 奇麗ごと言ってる割には、どうも役人臭くないんだが。
「渡瀬さん、ずいぶんご熱心なんですね。私は県教委の方って非常勤講師のことを、欠員が出た時の穴埋めの補充材、それか将棋の駒かなにかのようにしか考えていないと思ってました」
渡瀬の頬がぴくんと動いた。どうやらそう思っていた節があるらしい。うつむいて頬を赤くしている。
「すみません。私、確かに、そういう感覚になっていました。依頼校から要請があったとき、雨守先生が運よくあいていて、いいコマがあったって、そう感じてました。本当に失礼な考え方だったなって、反省します」
意外に素直だな。
『なによ』
なによとはなんだよ。いや、もう後代はテーブルの下で渡瀬に背を向け、膝に頬を乗せた体育座りをしてるから大丈夫だろう。
「でも先月、雨守先生がお辞めになられた後の……雨守先生の個人的な理由による退職で生じた急な欠員補充で、それこそコマ同然のように他の人を探さなければならなかったんですよ? 私の方でも尽力していたんです。そこはご理解いただければ」
へえ~、負けず嫌いだな。笑顔のまま嫌味で返してきやがった。ならばこちらも。
「確かにあのタイミングでの退職はご迷惑をかけたかもしれません。そこは失礼しましたと言うべきでしょうが、渡瀬さんが尽力したという私の替えなど見つかってない。いや、そもそもあの学校から私の代わりを探す要請なんか出ていないんじゃないですか?」
「え? どうしてそれを?!」
すごい驚きようだ。ビンゴか。まあ、いつものことだし。
「美術の非常勤講師は、そんなにいませんよ。それにたいていの学校では代替が見つからない期間が数か月程度であれば、大抵そこの教頭が欠員の出た教科の授業を受け持つんですよ」
あの腰巾着っぽい教頭さんも、実技科目を経験して生徒の実態をよく見ればいいんだ。ああ、浅野が教頭に食ってかかりそうな様が目に浮かぶなぁ。守護霊の深田がいいタイミングで抑えてくれるんだろうけど。
「そうなんですか? じゃあ、教頭先生ってそんなに沢山の教科の免許を持ってるんですか?」
急に素っ頓狂な声をあげたりして、この人、本当に何も知らないのか。「この仕事は初めて」なんて言ってたから、元から教育関係の人じゃなかったってことかな? 軽くため息をついて、俺は説明を続ける。
「いいえ。『臨時免許』というものがあるんです。とりあえずその学校にいる教師の現有勢力で賄わなければならない場合、本来専門ではない教科を受け持つこともある。その際、県教委に申請して『臨時免許』を発行してもらうんです」
あっけに取られたようにぽかんと口を開けていた渡瀬だが、すぐ身を乗り出して真剣な顔つきになった。いつの間にか後代も床に正座の姿勢となり、テーブルに手をのせ鼻から上だけのぞかせている。そして目だけ左右にせわしなく動かして、俺と渡瀬を交互に見ていた。俺は鼻から息を長く吐き出しながら説明した。
「私なんかにもたまにありますよ。美術のつもりで派遣先に行ったら『情報』という教科を受け持って欲しいってね。まあ、正規の教師でも『情報』の免許持ってる人は少ないのが現状だから、たいていの学校じゃ誰かが貧乏くじ引いて『臨時免許』でやってるんです」
ふんふんと何故か頷き方がシンクロしている渡瀬と後代。
「ただ、私のような非常勤講師にそういうことさせるのは契約違反なはずです。法律にも触れるんじゃないかな? 今までよく問題にされないなと思ってましたけど、そんな申請を県教委はチェックしてなかったんですか?」
俺のとどめの嫌味に、渡瀬は前屈みになったまま顔をそらせると(今、後代と顔、真っ正面から合わせてるけどな)歯をぎりっと鳴らし小さく呻いた。
「ふ、古谷課長の仕業だわッ。あの狸親父~ッ」
『なにかと大変そうですねェ?』
後代はへらへら笑いながら同情するようなセリフを吐く。俺も呆れ果ててしまった。
「そちらの事情は存じませんが、いかにもお役所らしいですね」
渡瀬は気を取り直した、というよりは俺を睨むように見つめてきた。
「そう……。それで雨守先生は、何校も何校も続けて勤務できていたんですね?」
あれ? この女、非常勤講師の仕事についてではなく、もしかして俺自身のことを調べているのか? だが俺の能力のことは、誰も知らないはずだ。ここは適当に受け流すか。
「美術という教科だけで続けて仕事が来るなんて、不思議でしたか? おかげで食いっぱぐれずに暮らせていますがね」
「でも、それでは専門の先生が指導していないことがある、ということですよね? それでは教育の質なんて上がるわけがないわ」
それはほとんど独り言のようだった。
『なに偉そうに言ってんですか!』
「教育批判なら他所でやってくれませんか?」
「あ、いいえ。雨守先生の責任だと言ってるわけではありません。本当に恥ずかしいことですが、私、現場の実態ってまったくわかってないなって。もっと勉強しなくちゃ」
『そうだそうだ! 出直してこい! ていうか帰れ! もう来るな!』
やめろ、後代。渡瀬が目をつぶって自分の頭を左手でポカポカ叩いてる間に、俺は手を伸ばして後代の頭を軽くこずく真似をした。
『あはぁん♪』
へっ変な声出しやがって! 後代はころころ寝室まで転がっていった。でもあれ? 触れてはいないはずだがな。霊特有の空気がふわっと起こる感触はあったが。不思議に思ってる間に、渡瀬はまた真剣な表情に戻って顔を上げていた。
「それで、よろしければこれから派遣先の学校長に会いに、ご一緒させていただいてもいいですか?」
「これからって。え? 今から?!」
「はい、今から! 段取りはもうつけてますの♪」
この女、最初からその気だったのか! 後代と俺は目を丸くして、一人カラカラ笑う渡瀬を呆然と見つめた。




