運命の一瞬
沈黙したⅣ号戦車が、背後の景色に混ざっていく。ニーナが悲しみと怒りを吐き出しながらハンドルに拳を叩きつけた。私は彼女がここまで感情を露わにするところを、初めて目にした。
「悲しむのも、怒るのも、後にするんだ」
私がそういうと、ニーナは歯軋りをしながら小さく頷いた。今の状況は、まるで悪夢そのものだった。互いに大損害を被る、磨り潰し合うような戦いだ。
黒豹たちの奇襲は成功している。私たち強襲偵察隊は多くの、戦力という言葉だけでは言い表せない大切なものを失った。だが黒豹たちも大半のものを失っている。それでも互いに退く事など、できはしない。もはや私――恐らくは黒豹も――を戦わせるものは高尚な信念や思想、あるいはどす黒い怒りや憎悪などではなく、研ぎ澄まされた意地と使命感だけだった。
アルテミスを、ルディを守る。それこそが私の成すべき事だ。彼女たちの存在は、血と砂に塗れた北アリウム戦線の戦いを終わらせるために、必要不可欠だ。そして、私自身にとっても。
ルディたちの車両の輪郭がはっきりと見えてきた。黒豹にとっては、既に射程圏内だろう。だが黒豹は牙を放ちはしなかった。必中の距離まで詰めるつもりだろうか? 黒豹の心中を察することはできないが、ともあれ、私にはまだいくらかの時間が残されていた。
女神たちの重い砲撃音が連続して轟く。やはり彼女たちは一歩も引かない。彼女たちをこの場に留めているのは、逃げ出したところでこの悪路では黒豹を振りきれないという冷静な判断と、私やハリーズ中尉、そして黒豹のそれと同じ形をした、意地と使命感だった。
〈仕掛ける! 後は頼むぞ、亡霊さんよ〉
ハリーズ中尉が動いた。スチュアート軽戦車が何の方策も無しに、真っ直ぐに黒豹へ突撃していく。体当たりをしてでも黒豹の足を止めるつもりだ。履帯だけでも破壊できれば、少なくともそれは叶う。ハリーズ中尉は、それだけの為に命を捧げるつもりなのだ。とどめを刺すのは、私の役目だ。
黒豹はハリーズ中尉を正面から迎え撃った。車体を減速させ、急旋回させてスチュアートに正面装甲を向ける。両者は激しく衝突し、互いを削り合う鋼鉄が悲鳴のような音を上げている。飛び散る火花が血しぶきのように見えた。
突然、スチュアートの車体が横に流れた。黒豹のⅣ号戦車が僅かにハンドルを切り、パワーで劣るスチュアートの軽い車体を押し出した。回転するように横を向かされたスチュアートは必至に体勢を整えようとするが、回り込んだ黒豹が側面を捉える方が先だった。放たれた砲弾はエンジンルームを吹き飛ばし、スチュアートは炎と黒煙を上げて沈黙した。Ⅳ号戦車は再び走り出そうとしていた。今度こそルディたちへその牙を突き立てる為に。だがその前に、私は黒豹の背後に付いていた。それは強襲偵察隊の仲間たちや、ハリーズ中尉たちが命を懸けて与えてくれた、運命の一瞬だった。
この土壇場において、私は自分でも驚くほどに冷静だった。視界は冴え渡り、一瞬の時間が何倍にも引き伸ばされて感じられていた。雨の粒や空気の流れさえも視えるかのようだ。私は肩に構えたM1バズーカの引き金に力を込める。ロケット弾が放たれようという瞬間、巨大な圧力が正面に迫るのを感じた。黒豹のⅣ号戦車が急速に後進しているのだと感じた瞬間、私たちのシボレートラックは弾き飛ばされていた。
私は荷台から振り落とされないように身を屈める。取り落としたM1バズーカが荷台に叩きつけられる音がした。私の後頭部から背中までを、痺れるほどに冷たい感覚が走った。失敗した。ほんの一瞬の差だった。黒豹の冷静な判断力が、その一瞬をものにしたのだ。
どれだけ激しく苦しい訓練を積み重ねていても、たとえ戦場で十年戦い続けようとも、死は一瞬の出来事と共に訪れる。戦場で生き残るということは、運命の一瞬を掴み取るということだ。黒豹はそれをこれまで掴み続けてきた。今、この瞬間も。
私は顔を上げる。砲塔が旋回し、こちらにその牙が向けられようとしていた。それは酷くゆっくりと感じられたが、私の身体の動きは、それ以上に緩慢だった。意識だけが引き伸ばされていた。正面に迫りつつある暗い砲口を、ただ迎えるしかない。
瞬間、私の視界を小さな影が遮った。
プリムラが何事かを叫びながら、両手を大きく広げて、私と黒豹の間に割って入ったのだった。
黒豹は、撃たなかった。
一秒にも満たない、しかし永遠のような空隙だった。雨の音も、風の声も聞こえない。落されたような静寂に何もかもが停止しているようだった。
静寂を打ち破ったのはイリスだった。イリスは素早くM1バズーカを拾い上げると、即座に構えて引き金を引いた。発砲炎が激しく吹き上がる。傷つき、力の入らないイリスの細い身体が弾けるように荷台に転がった。放たれたロケット弾は、正確に黒豹のⅣ号戦車を捉えた。Ⅳ号戦車のエンジンルームに直撃したロケット弾が炸裂し、生み出されたメタルジェットが装甲を貫徹する。エンジンから噴き出す炎が、瞬く間にⅣ号戦車を包み込んだ。
私は確認するように、半秒だけその様子を見つめている。確実な手応えだった。黒豹のⅣ号戦車は、完全に沈黙していた。
私は弾かれるようにイリスの方へ向き直る。イリスの傷は、再び血液を吐き出していた。私は絶望的な気持ちになった。一瞬ごとに、イリスの身体から、血液と共に何か大切な物が抜け出ていくのが感じられたのだ。
「くそっ、くそっ!!」
私はイリスの脇腹の傷口に、必死に掌を押し当てた。直接圧迫による止血を試みたのだが、空へ消えていく風船に手を伸ばすようなものだった。
プリムラは首の傷に布を当て、必死にイリスの名前を呼んでいる。ニーナがメディカルキットを抱えて荷台に飛び込んできた。
突然、背後から軋むような物音が響いた。鋼鉄製のハッチが押し上げられる音だ。
「ニーナ、頼む」
その場をニーナに預け、私は立ち上がる。黒く焼けたⅣ号戦車の傍らに、ゲ二ア兵士の背中が見えた。腰から拳銃を抜き、よろめきながら歩き去ろうとしている背中に照準を合わせる。
「待て」
ゲ二ア兵士は動きを止め、ゆっくりとこちらを振り返る。雨がまつ毛や高い鼻梁を伝い、水滴となって滴り落ちていた。若い男だった。平和な時代であれば大学を出るか出ないかという年頃だろう。つまり、私と同年代だ。
そして同時に、私は確信していた。この男こそが〝黒豹〟だ。
私たちは、ただ見つめ合っていた。言葉は少しも必要ではなかった。黒豹が私に向ける真っ直ぐで力強い視線は、多くの感情を孕んでいた。覚悟、信念、闘志。そして同種の人間に向ける理解と共感。その表面を、戸惑いと混乱、そして少しの怒りと軽蔑が覆っている。
黒豹があの瞬間、なぜこちらを撃たなかったのか。あるいは、撃てなかったのか。それは考えるまでも無い。その怒りや戸惑いは、かつて私自身も抱いたものだ。
どれほどそうしていただろうか。私には一秒が十分にも、一時間にも感じられていた。
引き金にかけた指先に力を込めようとした瞬間、空気の質が変わるのが感じられた。それは匂いや気配のようなものだった。私たちの間に、何か別の者の意志が混ざり込んだような気がした。
「サミュ、敵性航空機多数!」
ニーナが声を上げてから数秒後、大気が震え始めた。視線を空に巡らせるが、雨雲に遮られて音の発生源は確認できなかった。だが、確実に近づいてきている。エンジンの爆音は雨雲に吸い込まれ、あるいは拡散し、空は獣のような唸り声を上げている。
「……さっきの信号弾か」
思わず舌打ちをした。ラナが仕掛ける前にⅣ号戦車が打ち上げた信号弾は、攻撃機部隊へアルテミスの現在地を知らせるためのものだったのだろう。
私は、はっとして視線を戻すが、黒豹の姿は既に消えていた。そう遠くへは行っていないはずだが、探す気にもなれなかった。
拳銃をホルスターに納め、運転席へ転がり込む。アクセルを踏み込み、ルディたちの元へ急いだ。
世界を砕くような轟音が、雨の湿気で重くなった空気を震わせる。衝撃波が放射状に迸るのが微かに見えた。装填を終えたアルテミスの二両が、雨雲へ向かって砲弾を撃ちだしたのだ。砲弾はクラッカーのように弾け、一瞬だけ雨雲が黄色に光る。あれは確か、レモンシャーベットなどと名付けられた、対空用焼霰砲弾だ。三つの火の玉が、悲鳴のような甲高い音を上げながら雨雲の中から転がり出てきた。炎に包まれたゲ二アの航空機だった。翼は燃え上がり、プロペラは欠け、為す術も無く地面に吸い込まれていく。
サイレンのような甲高い音が響いた。ゲ二アの誇る爆撃機、スツーカが急降下爆撃を行う際に生み出されるエアブレーキ音だ。雨雲を突き抜けたスツーカが、直上からアルテミスへ急降下爆撃を仕掛けたのだった。一機が突出して急降下し、少し遅れて三機のスツーカが続いている。
アルテミスの各車両から、ホースで水をまくようにM2ブローニングの銃弾が空に向かって放たれた。先頭のスツーカは直撃弾を受け、機体から炎が上がっても、逃げ出そうとはしなかった。ただ真っ直ぐにアルテミスへ向かってゆく。
スツーカの吊るしていた爆弾が次々に投下され、大きな爆発音が轟いた。炎が巻き起こり、砲撃部隊の一両を紅に染め上げる。砲撃部隊の砲弾運搬車が直撃弾を受けて炎に包まれ、誘爆した砲弾が更に巨大な爆発を巻き起こした。
連続して爆音が巻き起こる。成す術は無かった。今やアルテミスと呼ばれた女神たちは、鷹に狩られる兎のようなものだった。いや、それよりも酷い。鈍足な彼女たちの車両では逃げ出す事も、兎のように穴に逃げ込む事もできはしないのだから。スツーカは攻撃の手を緩めない。次々に特殊砲科車両の戦闘室は弾け飛び、煙突のようだった巨大な砲身は炎に包まれてゆく。機銃掃射を受けたキャビンは穴だらけになり、そこから紅い血煙が上がった。
「ああ、くそっ! やめろ、やめてくれ!!」
私は意識せずに叫んでいた。身を引き裂かれるような思いだった。一瞬ごとに仲間たちの命が失われていく。不意の気配に視線を上げる。そこに見えたものに心臓が凍り付いた。振り回される鎌のようなプロペラと、主翼の前縁で瞬く機銃の炎が迫っていた。
二列の機銃掃射は泥を跳ね上げ、信じられない速さで、地面を縫うかのようだった。銃撃の衝撃は言葉では表しようがない程に激しかった。一瞬でシボレートラックのボンネットが吹き飛び、フロントタイヤ、エンジン、ラジエーターも即座に同じ運命を辿った。背後では荷台の木片が激しく飛び散る気配があった。私はハンドルを回し、なんとかバランスを取ろうとしたが、無駄な努力だった。車両はコントロールを失い、前につんのめるようにしながら、轟音を上げながら横転する。
私たちは全員が地面に投げ出された。私は起き上がろうとしたが、すぐに天と地がひっくり返った。脳震盪を起こしていたのだ。それでも、のんびりと横になっている訳にはいかなかった。スツーカは直ぐに戻ってくるだろう。私たちに止めを刺すために。
冷え切った額に手を当てながら辺りを見回すと、倒れ込んだままピクリとも動かないイリスの姿が目に入った。駆け寄ろうとした時、胸の辺りから全身を引き裂くような痛みが駆け巡り、私は肺から全ての空気を吐き出す羽目になった。
悲鳴を上げる身体を引きずり、何とかイリスの元へ辿り着く。見渡す限りでは、プリムラとニーナの姿は見つけられなかった。空の唸り声に視線を向けると、遠くの空で大きく旋回したスツーカが、再びこちらに向かってくるところだった。私はイリスを抱きかかえるようにしながら、必死の思いで岩陰を目指す。
スツーカから発せられる殺気が、チリチリと背中を焼く。ほんの数メートル先の岩陰が、故郷のベッドのように遠く感じられた。
泥を跳ねあげながら、私とスツーカの間に大きな影が入り込んだ。肩越しに振り向くと、追いついたアルカディアの三号車が車体を横向きにさせ、私とイリスを護ろうとするようにスツーカの前に立ちはだかっていた。車両の前後に据え付けられたブローニングM2重機関銃がスツーカに向けて銃弾を吐き出す。ほぼ同時にスツーカも機銃を発射した。攻撃目標を私から眼前のアルカディア三号車に変更したようだ。
空と地上で行われたガンマンの一騎打ちの勝負の結果は、相討ちだった。アルカディア三号車が荷台に積んだ手投げ弾やM6対戦車ロケット弾の弾薬箱に銃撃を受けて爆散する間に、スツーカへたっぷりと十二・七ミリの銃弾をお見舞いしていた。スツーカは機体から炎と黒煙を吹き出し、コントロールを失って空を滑空している。墜落は避けられないだろう。
岩陰に滑り込み、そこから顔を出して炎と黒煙を上げているアルカディア三号車を見る。後悔や罪悪感をまぜこぜにしたような、重い澱が喉を詰まらせた。私は今すぐに彼女らに駆け寄りたいと思う気持ちを抑え込むのに必死だった。だが、まだ他のスツーカが上空を旋回している。戦果と討ち漏らしがいないかの確認しているのだ。そんな中へ不用意に姿を晒すのは、蛮勇にも遠く及ばない愚かな行為だった。
「なんて顔を、しているんですか。つまらない、男ですね」
腕の中から、不意に声が上がる。イリスは死人と変わらない顔色をしていた。
「頼むから、喋るな。絶対に助けてやる。何とかここを切り抜けて――」
「私は、もう、いいですよ。手遅れなのは、サミュもわかって、いるでしょう?」
一つ息をするたびに、イリスの身体から魂とでもいうべき生命の根源が抜け出していくのが解った。私は言葉を吐き出すことができない。ありがとうだとか、会えて良かったなどと気の利いた言葉でも口にできれば良かったのだが、湧き上がる嗚咽を抑え込むのだけで、精一杯だった。
「泣きそうな顔を、しないでくださいよ。私は満足です。短い、人生でしたけれど、精一杯に、生きられたなって、思います。仲間たちと、私を導いてくれた、サミュのおかげです」
切れ切れにイリスが言葉を紡ぐ。イリスの肩を抱き寄せると、口元が少し照れくさそうに綻んだ。
「プリムラのこと、よろしくお願いします。あの子、本当は甘えん坊で、寂しがりだから、良く話を聞いて、遊んでやって、くださいね。それと、ニーナも……。真面目過ぎるし、意地っ張りで、不器用だから……」
遠くを見つめるようにしながら、イリスが微笑む。その瞳が、もう何も映していないのが解った。
「一回で良いから、みんなでお買い物とか、したかったな。綺麗な服を買って、食べ歩きして、普通の女の子、みたいに……。ああ、せめて――」
イリスの身体から、力が抜けていく。
「せめて……、世界がもう少し、優しくあってくれたら――」
生命の気配が曇天に溶けていく。イリスの最後は、心安らかであっただろうか。私は彼女の支えになれていただろうか。私は彼女の魂が辿る旅路が、幸いであるように祈る事しかできない。
私はイリスを静かに横たわらせ、上着を脱いで身体に掛けてやる。これ以上彼女を雨に打たせ続けるわけにはいかなかった。雨を吸い込んだシャツが急速に体温を奪っていくが、心臓を抉られたような胸の痛みに比べれば、少しも問題では無かった。
彼女の最後に捧げた祈りの一分間は、私にとっての永遠だった。
スツーカはしつこく上空を旋回し、獣が咆哮するような轟音をあげ続けている。五機か、六機か。音が混ざり合って良くは解らないが、未だ悪夢が続いている事だけは確かだった。
味方の航空機がやってくる気配はない。私はこの岩陰を這い出て女神たちの元へ向かうべきか、プリムラとニーナを探すべきかを迷っていた。破壊された女神たちの特殊砲科車両を睨みつけていると、不意に動く影があった。生存者だ。私は覚悟を決め、頭上をスツーカが通り過ぎるタイミングで走り出した。気づかれた様子はなかった。けぶる雨霧と、身体中に張り付いた泥が迷彩のような働きをしていた。
車両の残骸に辿り着くと、上体を起こそうとしている仲間の姿が目に入った。ルディだ。
私はすぐに駆け寄り、背中に手を添えてやる。「無事か」と声を掛けると、ルディは妖精の囁きを聞いた子供のように辺りを見回し始めた。負傷によるものか、ショックによる一時的なものかは解らないが、ルディは視力と聴覚の殆どを失っていた。
私は必至に頭を巡らせた。ルディに大きな外傷がないのは幸いだが、脳や内臓の損傷は見た目だけでは解らないものだ。少しでも早く彼女へ適切な医療処置を施さなければならないのは、明らかだった。頭上を飛び交うスツーカの眼を掻い潜り、仲間たちを探す。そして全ての車両を失い、移動手段の失われた状態で仲間たちを連れてこの場を脱出し、安全な場所まで逃げ切る。
可能だろうか? どう考えても不可能に思えた。しかし、諦めるという事は、絶対にあり得ない選択肢だ。
「くそっ! どうすれば……。考えろ、考えろ――!!」
冷静になれ! そう自分に言い聞かせれば聞かせる程、絶望的な状況が浮き彫りになって私を苦しめた。私は頭皮を突き破りそうな程に強く爪を立て、どうすれば一人でも多くの仲間たちを救えるかを考え続ける。
燃料の問題もある。辛抱強く待ち続けていたら、スツーカたちは飛び去るだろうか? いや、それは何の根拠も無い願望に過ぎない。仮に私の一生分の幸運を費やしてスツーカたちが飛び去っても、私たちには移動手段が無い。先程見た砲弾運搬車はどうだ? キャビンが銃撃を受けていたが、車体の損傷自体は軽微なように思えた。動く事くらいはできるかもしれない。しかし、何処へ向かえば良い? 存在しないはずの私たちは、誰に救いを求めれば良いのだ。
こうしている間にも、イリスのように失われようとしている命があるかも知れない。そうした思いが更に私を焦らせ、混乱させた。私には、何もする事はできないのだろうか? 自分の弱さに嫌気がさした。
不意に、頬に暖かい何かが触れた。顔を上げると、柔らかく微笑むルディが目に映る。
「ああ、サミュ。サミュですよね? 私、なんだか辺りの様子が、良く解らなくて……」
ルディの手を握り、私なら確かにここに居ると伝えた。しかし、後に続いた「皆は、無事ですか」という問いには、何も答えられなかった。ルディは私の沈黙を正しく読み取り、眼を閉じて小さく頷く。
「戦いは、まだ終わっていません」
ルディの言葉に、私は目を見開いた。
「二号車の砲身は、まだ無事です。照準も合ったままです。もう一押しで、ゲ二アの防衛線に大きな穴が開きます。あと一撃、一撃だけ与えることができれば――」
私は首を振り、ルディの言葉を遮る。死んだら何も残らない。私たちはどんな記録にも残らず、いずれは誰の記憶からも消えてしまう。それが恐ろしいのだと、彼女は言っていたではないか。そしてそれは、今や私の想いでもある。
今にも泣きだしそうな私の頬を、ルディが優しく撫でる。
「お願いします、サミュ。私たちの生と死に、意義を」
私は震える唇を噛みしめ、頷くことしかできなかった。彼女たちを望む場所に連れていく。彼女たちと共に戦い、この世に生きた爪痕を残す。
今こそが、約束を果たす時なのだ。
私は頭上を飛び交うスツーカの様子を慎重に伺う。戦闘室の残骸が屋根のように私とルディの姿を隠してくれていた。飛び交うスツーカは一機ではない。この警戒に意味があるのは解らないが、少なくとも飛び出した直後に発見され、ルディ共々に銃撃に晒されるのだけは避けなければならなかった。
意を決して、私は飛び出す。スツーカの唸り声が耳元で聞こえるようだった。これほどの恐怖を感じたことは、未だかつてない。黒い影が足元に落ちる。一瞬で私を通り過ぎた影は翼を傾けて旋回し、私に回転するプロペラを見せつけた。スツーカに発見されたのだ。
いくら私が全力で走ろうと、高速で飛翔するスツーカからすれば止まっているようなものだ。遠くの空に落とされた染みのようでしかなかった機影は、見る間に大きくなる。スツーカは私の正面に回り込み、じっくりと照準を合わせていた。
主翼の前縁で機銃の発砲炎が瞬き、地面を恐ろしい速さで二列の筋が走る。私は反射的に横に飛んだ。果たして私の身体は細切れになることなく、足も腕も身体にくっついたままだった。殆ど奇跡のようだ。しかし、ほっとしている場合ではない。スツーカは直ぐに舞い戻り、私に反復攻撃を加えるだろう。泥に足を取られながら、私は再び走り出す。二号車の撃発レバーが随分と遠くに感じられた。
二号車の砲弾を発射し、ゲ二アの防衛線にアルテミスの矢を届ける。それがこの戦争にどんな影響を及ぼすのかは、私には解らない。もしかしたら、もう何の意味も無いのかもしれない。
それでも、私にはそれを成す義務がある。彼女たちの意志を、私たちがこの戦場に生きた証を刻むために。
背中を強烈な殺気が焼いた。振り向かなくても解る。スツーカが私の背中を捉えているのだ。トリガーに指を掛け、必殺の一瞬を待っている。
突然、聞き慣れたブローニングM2重機関銃の銃声が轟いた。不意の攻撃を受けたスツーカは機首を上げ、私の頭上スレスレを通り過ぎていく。私は巻き起こる爆風で息ができなくなる。すれ違う一瞬に、スツーカの主翼から黒い煙が上がっているのが見えた。
「ニーナ!? プリムラ!!」
銃声の方向へ目を向けると、ニーナが特殊車両の上部に据え付けられたブローニングを構えているのが見えた。プリムラは隣で補佐をしている。
「何をしている! 隠れていろ!!」
私が叫ぶ間にも、別のスツーカが私たちを見つけていた。ニーナが向かってくるスツーカに銃口を向け、引き金を引く。ブローニングから放たれた銃弾は、驚くべき命中率を誇った。ほぼ全ての弾丸が吸い込まれるようにスツーカに殺到する。十二・七ミリの死はプロペラを砕き、主翼に風穴を開け、風防を貫いてコックピットを紅く染め上げる。パイロットを失ったスツーカは大きく右に傾き、悲鳴のような断末魔を上げながら、遠くの地面に吸い込まれて爆炎を上げた。
プリムラだ、と私は直感した。彼女が弾丸の軌道を念動力で捻じ曲げ、誘導したのだ。カップマフィンのような部隊のマスコットは、今や並ぶ者の居ない戦士へと成長を遂げていた。
サイレンのような音が、黒い雲の垂れこめる空に響く。また別のスツーカが、ニーナとプリムラの直上から急降下攻撃を仕掛けようとしていた。ニーナは殆ど倒れ込むようにしてブローニングを頭上へ向けようとするが、銃座は真上を向くようには造られてはいない。
二人へ迫るスツーカは、爆弾を吊っていなかった。既に全て女神たちへ投下し終えていたのだろう。主翼の前縁で二つの炎が瞬き、ニーナとプリムラへ銃弾が嵐のように降り注いだ。殺到する銃弾が鋼鉄製の屋根の上で激しく火花をまき散らし、身を屈める二人を紅に照らし出す。まるで炎に包まれているかのようだった。
「逃げろ! 逃げてくれ!!」
私は懇願するように叫んだ。頭の中には、イリスと交わした最後の約束の言葉が響いていた。二人を失うという事は私にとっても全く耐え難く、また彼女との約束も反故にするという事であると思えた。
「行ってください! 相手が私たちに気を取られている間に、早く!!」とプリムラが叫び「これが私たちの役割です。サミュは自分の使命を果たしてください!!」とニーナが続いた。
降り注ぐ殺意の中で、彼女たちは少しも逃げ出そうとはしなかった。ニーナが片膝をついてM1バズーカを持ち上げ、大きく背中を逸らせて砲口を真上へ向ける。大きくしなった背中をプリムラが支えていた。大きな発砲炎を巻き上げて、M6対戦車ロケット弾が放たれる。ロケット弾の弾道はぶれて曲がり、あさっての方向へ飛び去るかのように思えた。しかしロケット弾は大きく弧を描き、吸い込まれるようにスツーカに命中し、機体の後ろ半分を吹き飛ばした。
スツーカは火の玉のように燃え上がりながら、落下してくる。パイロットが脱出をする様子はない。コックピットで操縦桿を握り、真っ直ぐに機体を保とうとしている。ニーナとプリムラに機体ごとぶつかるつもりだ。
一瞬、落下するスツーカの機体が減速したように見えた。だが、自由落下する鋼鉄の塊を支え切るほどの力は、もはやプリムラの小さな身体には残されてはいなかった。
私が駆け寄る間もなく、二人は爆炎に包まれた。
私は張り裂けそうになる胸を必死に抑え込みながら、転がるように走り出す。彼女たちとは別の方向へ、二号車に向かって。
辿り着いた二号車は、大きく傾いていた。タイヤは破裂し、重量に耐えきれなくなったリムは潰れて、車体は後ろ半分が左曲がりに、不格好に沈み込んでいる。私は一瞬たじろいでしまった。まるで廃墟を眺めているような気持になったからだ。
私は破裂したように裂けた戦闘室に身体をねじ込み、砲に取りつく。そして薄暗がりの中で、女神の弓が使用可能な状態にあるのかを確認した。あちこちが砂とオイルの交じったものに覆われて泥の塊のようになっていたが、ルディのいう通り大きな損傷は受けていないようだった。しかし、車体の方はダメージが大きい。砲架を固定している車両の床には大きな亀裂が走っていた。もしこのまま砲撃を行えば、車体ごと崩壊しかねない。そうなれば、私も巻き添えだ。だがそんなものは、ジャム瓶の蓋が開かない事と同じくらいに、どうでも良い問題だった。
私は撃発レバーを握り、思うように力が込められない事に気が付いた。一体いつからだろうか、右手の人差し指と親指が根元から千切れかけていた。僅かな皮膚と、赤黒い数本の筋で繋がっているだけだった。左腕の肉は新聞紙のように捻じれ、隙間から骨が覗いている。
私は肝心な時に役目を果たせない自身の身体に、激しい怒りを覚えた。ありったけの力を込めて腕を振るい、邪魔な指を引きちぎる。撃発レバーを諦め、拉縄を腕に巻き付ける。そのまま車外へ飛び出て、残された力の全てを振り絞り、拉縄を引いた。
轟音と共に発砲炎が辺りを染め上げ、砲口から迸る衝撃波が雨粒を円形に弾き飛ばした。放たれた圧力は難なく私を押し倒し、私は尻もちを付くように地面に仰向けになる。地面に倒れ込む一瞬、崩れ落ちる二号車の車両と、前線へ向かって飛翔する砲弾が見えた。
大粒の雨が頬を打つ。数秒後、最早聞きなれつつあるサイレン音が雨空を震わせた。一機のスツーカが私へ――正確には、突然砲撃を行った二号車の残骸へ――急降下攻撃を仕掛けようとしている。主翼からは黒煙が上がっていた。先ほどニーナとプリムラから一撃を頂戴したスツーカだ。まだ逃げ出してはいなかったのだ。
彼もまた、矛盾を抱えて戦う戦士なのだろう。私たちと同じように。
私は腰から拳銃を抜き出し、直上から迫るスツーカへ銃口を向ける。
一発、二発。私は銃弾を放つ。それは私の魂だった。
やがてスツーカから黒点が切り離される。五十キロ爆弾だ。小型だが、女神の残骸と私にとどめを刺すには、十分過ぎる威力だ。
私は迫る五十キロ爆弾に向かって、ぎこちない左手で銃弾を放ち続けた。北アリウムの大地に散った、数多の命に対する弔砲のように。
そして銃弾が尽きると同時に――
私の意識も光に呑まれ、そこで途切れた




