エリゴス・ライン攻略戦 ④
生き残っている黒豹ともう一両のⅣ号戦車は横並びになり、距離を取る。黒豹は砲口をスチュアートへ、もう一方のⅣ号戦車は私たちへ狙いを定めていた。Ⅳ号戦車が砲弾を放つ。空気を切り裂く一瞬の甲高い音の後、私の後方で榴弾が炸裂した。破片をまともに浴びたシボレートラックはライトが砕け散り、フロントタイヤは弾け、ボンネットやラジエーターが穴だらけになった。車体が横滑りし、半回転しながら停車するのが見えた。榴弾という種類の砲弾が恐ろしい点はこれだ。たとえ相手に直撃させる事ができなくとも、炸裂と共に飛び散る鋭い破片は広範囲に被害を及ぼす。特に私たちのような、小型で素早い相手にはうってつけだった。
彼女たちに動揺が広がるのが解った。私もそうだ。今すぐ被弾した車両に向かい、彼女らを助け出したい。しかし、目の前の黒豹とⅣ号は部隊を割って相手をできる程、甘い相手でも無かった。
一両のシボレートラックがスピードを上げた。アルカディアの二号車だ。砲弾の装填時間の合間を狙っての事だろう。だが、それは焦りだ。あまりにも迂闊だった。戦車の武装は対戦車砲だけでは無いのだ。
砲身の近くに据え付けられた同軸機銃が銃声を響かせる。二号車は驚いたようにハンドルを切るが、銃弾が車体を捉える方が先だった。火花を上げて脇へ逸れていく二号車を追って、Ⅳ号戦車の砲塔が銃弾を放ち続けながら旋回している。
ラナがアクセルを踏み込んだ。隣ではイリスがロケット弾の装填を終えている。他にも周囲で複数のエンジンが唸りを上げるのを感じられたが、結局一台も近づくことはできなかった。こちらの動きを読んでいたかのように砲塔がこちらを向き、砲弾を放ったのだ。各車は大慌てでハンドルを切り、榴弾の殺傷範囲から逃れる。狙いなど付けていない攻撃だったが、それでも私たちの動きを封じるには十分だった。
「挟み込みますか? 先ほどのように」
ニーナが提案するが、私は首を振った。もはや彼らは、その程度の策で倒せはしないだろう。仕掛けるならば、スチュアートと呼吸を合わせる必要がある。私はプリムラに、ハリーズ中尉を無線で呼び出すように指示を出した。
その時だった。Ⅳ号戦車と黒豹が同時に何かを打ち出した。煙幕弾だ。白煙は瞬く間に大きく広がり、私たちを飲み込む。視界は完全に奪われた。眼に刺すような痛みが走り、誰もが咳き込んだ。堪らずゴーグルを装着し、そして息を飲んだ。白煙の向こうにうっすらと見えた影は、横向きに停車したⅣ号戦車だった。
「避けろラナ!」
ラナが猛犬のような唸り声をあげながらハンドルを切る。私たちはギリギリの所で激突を回避したが、隣を走っていたアルカディアの一号車は避けきれなかった。何十倍もの重量差であるⅣ号戦車との衝突は、シボレートラックに致命的な破壊をもたらした。私はぬかるんだ足場にタイヤを取られて世界が回転する一瞬に、車外へ大きく弾き出されたサヴィナの姿を見た。
次に、砲口の暗い穴が目に飛び込んできた。Ⅳ号戦車は、私の車両に狙いを定めていた。背筋が凍る思いがした。いまだ車両はコントロールを失っている。避ける術は無い。
瞬間、砲塔を炎が包み込んだ。ラナの発火能力によるものだと理解すると同時に、砲撃の衝撃波がそれを吹き飛ばした。砲弾は地面をスケートリンクのように滑る私たちの、半秒前まで居た地点の大地を吹き飛ばす。
ラナのおかげで直撃こそ免れたが、炸裂した砲弾の破片が、嵐のように私たちを襲った。私たちも車体も傷だらけになった。ボロボロになって停車した私たちの隣を、再び走り出したⅣ号戦車が私たちにとどめを刺す時間も惜しいというように走り去っていく。後に続く仲間のシボレートラックたちがこちらの様子を伺うように速度を落とす。私は彼女たちに〝構わずに行け〟と身振りで示し、「すぐに追う!」と声を張り上げた。
ラナがエンジンに火を入れ直すと、シボレートラックは勇ましく嘶いた。エンジンはまだ生きていた。タイヤもパンクしていない。走行能力が失われなかったのは幸運だが、荷台に倒れ込んで動かないイリスを助け起こした時、それ以上のとんでもない不幸が降りかかっている事に気が付いた。イリスには、いくつもの榴弾の破片が食い込んでいた。特に胸とわき腹の破片は大きく、激しい出血は荷台に貯まった雨水を瞬く間に赤く染めていく。
「イリス!? イリス!! ああ、なんてこと!!」
ラナが声を上げながら荷台に飛び込み、代わりにニーナが運転席についた。有事の際に、あらかじめ決められていた配置だった。ラナは素早く応急処置を開始する。イリスは何かを喋ろうとしたが、震える唇は荒い息を吐き出すだけだった。例えようのない恐怖が私の身体を貫いた。プリムラは血の海に沈むイリスを見つめ、どうする事もできずに青い顔をして震えている。
車両が再び走り出す。ニーナは細心の注意を払っていたが、それでも悪路に車体が跳ねるたびに、イリスが苦痛で顔を歪ませた。しかし止まったままでいる訳にはいかない。ラナがイリスにモルヒネを打つ。
「傷は深いのか」と私が問うと、ラナは「戦闘が一秒長引けば、それだけイリスに死が近づきます。私にできる事は多くありません」と止血処置をしながら呻くように答えた。
「いつもこうだ」と、ラナが呟く。「私には、何もできない」
噛み破られた唇から、一筋の血が流れた。
前方で信号弾が打ち上げられた。雨空に光を灯す信号弾は、Ⅳ号戦車から放たれたものだった。低い雨雲が赤く滲んでいる。私はそれどころでは無かったが、それでも信号弾の意味を考えずにはいられなかった。ニーナの呼び声に見上げていた視線を降ろすと、女神たちの姿が遠くに滲んで見えた。黒豹たちはもう、かなり近い。
タイムアップだろうか? いや、これは最後のチャンスだ。まだ私たちは全滅してはいない。まだ奴らに食らいつく事ができる。黒豹たちの最優先目標は、あくまでもルディたちアルテミスだ。私たちに意識を割く余裕は無くなるだろう。乱戦になれば勝機は見える。イリスの容態は心配だが、私の成すべきことは、彼女の隣で膝をつくことでは無い。
世界を砕くような砲撃音が轟く。激しい発砲炎に雨空が煌めいた。ルディたちは一歩も引かず、前線への支援砲撃を続けていた。彼女たちも、自らの成すべき事を成している。黒豹とⅣ号戦車が更に速度を上げる。彼等もまた、成すべき責任を果たそうとしていた。
スチュアートが先に仕掛けた。二発の砲弾が装甲を削り、黒豹の車体から火花が上がった。黒豹の砲塔がぐるり、と旋回し、榴弾を放つ。鼻先に榴弾を撃ち込まれたスチュアートは減速し、破片を避けるようにハンドルを切る。その背中を徹甲弾が貫いた。追いついたⅣ号戦車が減速したスチュアートに噛みついたのだ。スチュアートは車体後部のエンジンから炎を上げながら停車する。飛び出してくる人影を、Ⅳ号戦車の機関銃が撫でた。〈くそったれ!〉とハリーズ中尉の熊のような声が無線機から溢れ出す。
次に黒豹たちは、残ったハリーズ中尉の乗車するスチュアートの息の根を止めようとしていた。今しかない。彼らの意識がこちらに向いていない今がチャンスだと思った。私はプリムラに「全車攻撃」というが、彼女は反応を示さなかった。名前を二度呼び、ようやくプリムラは目が覚めたように無線機に飛びついた。
二両のシボレートラックがブローニングの銃弾を撒き散らしながら、急速に黒豹たちに接近する。出遅れている私の車両はまだ遠い。彼女たちが黒豹とⅣ号戦車をM1バズーカの射程に収めようという瞬間、二両の戦車はぐるり、と方向転換をした。砲塔だけではなく、車体ごとを急旋回させたのだ。通常なら履帯が切れるところだが、ぬかるんで抵抗の少ない足場だからこそできる荒業だった。シボレートラックから驚いたように放たれたロケット弾が二両の戦車の脇を通り過ぎたり、手前に墜ちて地面を破裂させた。黒豹たちはそれぞれが彼女たちに向けて砲弾を放つ。二つの死の牙は破片で一両の車両を穴だらけにし、直撃を受けたもう一両は火の玉になった。
生き残っているのは、もはやアルカディアの三号車と私のオリオン一号車だけになってしまっていた。しかし、アルカディア三号車はさらに遠く離れている。何かしらの車両トラブルか、あるいは負傷者が出ているかだろう。
「あいつにギリギリまで近づいて!」
ラナがニーナの肩を掴み、Ⅳ号戦車を指さした。
「でも、それは――」
「良いから、早く!」
イリスは止血を施され、包帯を巻かれ、曇天を見上げて微睡んでいるように見えた。ラナに打たれたモルヒネで意識が朦朧としているのだろう。逆に言えば、戦闘状態にある車両の荷台の上でできる処置など、それくらいしかなかった。ニーナがアクセルを踏み込む。車体を旋回させている最中の黒豹とⅣ号戦車に追いつくことは容易だった。ぐんぐんと迫るⅣ号戦車を目端に捉えながら、私は「何をするつもりだ」とラナに問いた。
「イリスを救いたい。その為に、一秒でも早くこの戦いを終わらせたい。それだけです」
手を突きながら立ち上がったラナの服は、真っ赤に染まっていた。初めはイリスのものかと思ったその血液は、間違いなくラナの身体の中から溢れ出したものだった。彼女もまた砲弾の破片を受けていたのだ。私はラナが何をしようとしているのかを悟った。
ハッチから身体を乗り出させている車長が何事かを叫ぶと、Ⅳ号戦車が砲塔を旋回させて同軸機銃を放った。死の指先が群れを成して襲ってくる。私は頭を低くしながら「馬鹿な真似はよすんだ。イリスもそんな事は望まない」と言った。しかしラナは「殺す技術ばかり磨いてきた私が人の命を救うには、やっぱりこれくらいしかないんですよ」と悲しそうに微笑む。
ラナの瞳がきらりと光ると、炎がⅣ号戦車の砲塔を包み込んだ。再び脈絡なく現れた炎にⅣ号戦車は動揺し、攻撃の気配が霧散した。車長も驚いたように砲塔内に引っ込み、Ⅳ号戦車は一時的に私たちに対して盲目になった。ニーナはその隙を突き、車体を横並びにさせる。
「待て……!!」
私は手を伸ばすが、その指がラナに届く事は無かった。ラナは大振りのナイフを咥え、手投げ弾を握りしめて荷台の端を蹴り、猫のような俊敏さでⅣ号戦車に取り付いた。そしてロックの掛かっていなかった車長ハッチから内部に滑り込む。くぐもった怒号と悲鳴、そして拳銃の銃声が鋼鉄の箱から溢れ出した。
私は何度もラナの名を叫ぶが、声が返る事は無かった。ニーナがハンドルを切り、シボレートラックはⅣ号戦車から離れていく。やがて、戦車の内部から手投げ弾の爆発音が響いた。Ⅳ号戦車は完全に動きを止め、二度と動き出す事は無かった。




