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エリゴス・ライン攻略戦 ②

 胸に冷たいナイフを突き入れられたような感覚だった。脳裏にはいつかの光景が蘇っている。次々に撃破されていく僚機のM4中戦車。被弾し、走るストーブのようになった鋼鉄の馬。弾薬庫を誘爆させられた僚機は一瞬でスクラップになり、足回りを破壊されたM4は、打ちのめされたように大きな車体を傾かせて立ち往生している。その様子を、砲塔側面に黒豹をペイントしたゲ二アのⅣ号戦車が静かに眺めている。

 死神だ、と私は思った。陰口のように死神と呼ばれる私とは違う、自らの手で命を刈り取ってゆく本物の死神だ。戦場を駆け抜け、喉笛を噛み千切って死を量産する黒い獣――。


 ゲ二アがアルテミスの名を恐れているように、連合軍の兵士たちにも戦場で出くわす事を恐れているゲ二アのエースたちがいる。彼等の多くは、自らの存在を誇示するかのようなエンブレムを、戦車の車体や航空機の機首や翼にペイントしていた。それは長い牙を生やした象や、クロスした長柄のハンマーに黒いチューリップなど様々であったが、とりわけ砂の大地を這いずり回る陸軍兵士の間で恐れられたのが、咆哮する黒い獣を砲塔側面にペイントした〝黒豹のⅣ号〟であった。


 戦闘機などと違い、戦車は数人で操る兵器だ。それぞれが、その者だけの役割を持っている。一人の才覚が優れていたからといって、それだけでは特別な成果には繋がりにくい。更にいえばゲ二アは戦車を集団で運用する為、その中の一両が極端に際立つという事は少ない。

 それでも〝黒豹のⅣ号〟は特別だった。黒豹は千五百メートル以上の距離から正確に砲撃を命中させ、死の山を創り上げる。そして、不死身だった。野性染みた勘でこちらの攻撃を回避し、たとえ部隊が壊走しようとも最後まで戦場に留まり、その牙を突き立てた。どうにか黒豹を撃破することができても、数日後には再び戦場に姿を現した。

 何度撃破しても再び現れる黒豹に、兵士たちは恐怖した。黒豹のⅣ号は複数いるのではないか? という噂も流れたが、あの驚異的な砲撃の腕前は真似のできないものだ。そんな砲撃手が何人もいるのであれば、とっくに連合軍は敗北している。

 黒豹のⅣ号の名を初めて聞いたのはシルバースター勲章の授与式の為にファルレ・リードに赴いた時だった。街の兵士たちは興奮した様子でアルテミスの名を語っていたが、その底には黒豹のⅣ号に対する恐怖が横たわっていた。アルテミスが憎き黒豹のⅣ号を葬ってくれるのではないか、という期待が透けて見えた。


 私は黒豹に突きつけられた、砲口の暗い穴を思い出す。シンプルに、そして強烈に死を叩きつける凶獣の牙。それが今、ルディたち砲撃部隊に向けられている。

 シボレートラックは泥を巻き上げながら雨の中を駆けていく。しかし柔らかい泥はタイヤに絡みつき、まるで川の中を行くように動きはのろかった。遠くではオリオンの三号車が泥濘にトラックの鼻先を突っ込ませ、立ち往生していた。他の車両も似たような状況だろう。

 私たちは直進する事すらできなかった。辺りには撤退に取り残されて放棄されたゲ二アの対戦車砲や小火器、手榴弾、鉄条網、そして戦士たちの遺体や、助けを待つ負傷兵が横たわっている。

私は焦る思考を必死に押さえつけ、脳を回転させる。

 黒豹の部隊がルディたちを射程に収めるまで、何分だ? 砲撃部隊の操る十インチ榴弾砲の有効射程は二十六キロ。実際の砲撃距離は遠くても二十キロ程だ。彼女たちならば砲弾が最大射程――砲弾がどうにか届くか、どこに飛んでいくか解らない距離――の三十キロの距離からでも砲撃を命中させることができるのだろうが、そこまで離れてはいないはずだ。


 雨音に混じって、遠くからの聞き慣れた砲撃音が耳朶を叩いた。反射的に顔を上げると、少ししてはるか上空を砲弾が雨の尾をなびかせて空を切り裂いていった。砲撃音から砲弾が私の頭上を通り過ぎるまでの時間が、やけに短いように感じられた。

「ニーナ! ルディたちの位置は!?」

 私は唸るエンジンと雨音に負けないように声を張る。何秒か経って、ニーナは絶望したような表情になった。

「近いです。十キロ程度しか離れていません!」

 予想した通りの、最悪の回答だった。最も身動きがとりにくいのは、車重の大きいルディたち砲撃部隊だ。黒豹との距離が離れていれば逃げるだけの時間も稼げたのだろうが、彼女たちは攻撃部隊の進攻に合わせて前進していた。前進し過ぎていた。砲撃の精度を高める為と、素早く前線を支援する為なのだろうが、その選択は完全に裏目に出ていた。


 私は無線機に飛びついた。目を丸くしているプリムラに気を使う余裕すらなかった。

〈ルディ、なぜ逃げていない? 無線は聞こえているだろう〉

〈逃げて、どうすると言うのです? 今撃たずして何の為のアルテミスですか。何の為の機甲砲科特務隊だというのですか〉

〈何を――〉

 馬鹿なことを、とは私は言えなかった。彼女らが、そして私自身も、そういう生き物であることは良く知っているはずだった。私は小さく溜息を吐いた。せめて彼女らがもう少しでも臆病であってくれたなら、どれだけ気が楽であるか。

〈すぐにそちらに行く〉

 無線機のダイヤルを捻る。甲高い不協和音が私の耳を傷めつけた。

〈作戦本部へ。ベーカーより出現した敵部隊の目標はアルテミスだ。援軍を向かわせてくれ〉

〈貴殿の氏名、所属、階級を伝えられたし。繰り返す――〉

 私は思わず舌打ちをした。本部というものはいつもこうだ。同じ戦いをしているはずなのに、こいつらだけはいつものんびりとしている。自分たちだけは安全な場所に居るのが解っているからだ。

〈第三十七機甲連隊、第一大隊所属、機甲砲科特務隊のサミュエル・ウッド大尉だ。急いでくれ、時間が無いんだ!〉

 ザ、ザ、とノイズが走った。本部の無線手が回答に困っているのが感じられた。

〈そのような部隊は存在しない。敵部隊の向かう先に、アルテミスなどという部隊も存在しない。要請には応じられない〉

 湧き上がる怒りを抑えることができなかった。マイクを握りしめる手に力が籠り、爪の先が真っ白になった。

〈見捨てるというのか。散々無茶な作戦をさせて、年端も行かない少女ばかりに頼り切って、最後には斬り捨てるというのか〉

〈言葉の意味が理解できない。君の言う部隊は存在しないんだ。たとえ部隊の一部でも、下げさせるわけにはいかない〉

 私はありったけの罵声を浴びせる為に息を吸い込んだ。だがそれが果たされる前に、プリムラの小さな両手が、握りしめられた私の手を包み込んだ。プリムラは小さく首を振る。感情的になっても仕方が無いと言おうとしているのが解った。私はすっかり恥ずかしくなる。頭に昇った血は急速に落ちて行き、冷静になることができた。

〈よくわかった。もうお前たちには期待しない〉

 そう言いながらも、今や私は本部の立場や考えというものを理解していた。エリゴス・ラインの攻略には全力を持って臨む必要がある。腹の中に現れた黒豹の部隊に翻弄されて部隊を割るようなことになれば、ゲ二アの思うつぼだ。それにこの様な地形状態では、せっかくの援軍も間に合う可能性は薄い。


 プリムラに強襲偵察隊の各車と連絡を取り続けるように指示をし、私は装備を確認する。機甲部隊に対する火力不足という戦訓から、私たちは新たにM1バズーカを各車に搭載していた。M1バズーカより発射されるM6対戦車ロケット弾は七十六ミリから八十九ミリの装甲板を貫通する事ができる。欠点としては、射程距離の短さがあげられる。弾道が安定せず、百メートル程の距離まで近づかなければまともに命中させる事はできなかった。もちろん、これは大変に危険な距離である。攻撃を外せば即座に反撃を受け、こちらの命を散らす事になるだろう。反動や発砲炎の大きさも問題だ。だがそれらの不利も、歩兵が機甲車両に対抗するだけの火力を持つ事ができるというメリットに比べれば小さいものだ。


 やがて、雨霞みの向こうにⅣ号戦車の一団を確認する事ができた。彼らはまだルディたちに指先を届かせてはいなかった。だが、間に合ったとは言い難い。私は迂闊に近づくことができなかった。黒豹に気付かれれば、M1バズーカの射程に近づく前にこちらがスクラップにされてしまう。

 黒豹たちは何の妨害も受けていなかった。周囲のそう遠くない場所にアルストロ軍の兵士たちの姿はあるが、まるでサーカスの一団を見送るように視線を向けるだけだ。理解が追いついていないのだろう。後方に下がった彼等にとって、エリゴス・ライン攻略戦は既に終わった事なのだ。まさか敵の決死隊に腹を裂かれている最中だとは、考えられないようだった。


 私は歯噛みした。黒豹は目の前に居るのに、遮蔽物の無いこの戦場では何かに身を隠して近づく事もできない。先回りして待ち伏せるだけの時間も速度も無い。奴らの進攻を少しでも遅らせる為に、一体私はどうするべきだ?

〈ありがとうございます、サミュ。そこまで近づいてくれれば十分です。もうこちらからも良く見えます〉

 無線機からルディの声が響いた。水平射撃だ、と私は直感した。女神たちの十インチ榴弾砲ならば、最速で相手に砲弾をお見舞いする水平射撃でも、かなりの射程距離がある。黒豹の車列が開けた場所に達した瞬間、遠くで巨人の咳払いのような砲撃音が響いた。私は黒豹が不死身と呼ばれる所以を目の当たりにした。彼等には騒音で砲撃音は聞こえていないはずなのに、ぐりん、と進行方向を変えたのだ。

 立て続けに四発の通常榴弾が着弾したが、そこには既に黒豹部隊の姿は無かった。榴弾の炸裂によって泥が塔のように跳ね上げられた。泥は滝のように黒豹の部隊に降り注いだが、装甲が汚れた程度で、損害は受けていないように見えた。今や彼等は回避行動を取り、ジクザグに走行している。これが黒豹の野性染みた勘という奴だろうか? 私は少なからずショックを受けていた。砲撃部隊の攻撃が何の成果も生み出さない瞬間を、初めて目の当たりにしたのだ。

〈やりますね。流石はゲ二アのエースです〉

 深刻そうにつぶやくルディの声で、私は正気を取り戻した。私が今するべき事は、ルディの眼として黒豹たちに張り付き、しかし砲撃の邪魔にならないように適度な距離を保つ事だ。


 〝グレープスカッシュ〟や〝ビックアップル〟は使えない。それらの広域制圧を目的とした砲弾は、主に歩兵や非装甲車両などのソフトターゲットに対する打撃を目的としたものだ。それにビップアップルの生み出す強力な衝撃波は、黒豹の近くにいる私たちや、そう離れていない兵士たちにも被害を及ぼすかもしれない。

 ルディたちは回避行動を取る走行中の戦車に対して偏差射撃を行い、通常榴弾の直撃、あるいは至近弾によって黒豹たちに損害を与えなければならない。しかし、それは未来予知の能力を持つ砲撃部隊の砲手たちにとっても、簡単な話では無い。彼女たちの未来予知は、撃った砲弾が〝どこに飛んでいくのか〟の一点に絞られており、砲撃の〝結果〟を予知するものでは無い。基地などの動かない目標や、進行方向の予測しやすい敵部隊などには初撃から効力射を得ることができるが、自分たちに向かってくる――しかも明らかに砲撃されると解っている――敵車両に打撃を与えるのは容易では無いのだ。


 再び砲撃音が響く。動きの遅れた黒豹部隊の一両が足回りを破壊されて停車した。次の砲撃ではもう一両が直撃を受けて車体の面積が半分になった。不利な状況であっても、やはり女神たちの砲撃精度は驚異的だった。私は彼女らの砲撃の腕前に、能力を超えた才能を感じていた。しかし、未だ危機を跳ねのけるには至らない。

「二両撃破。だけど、まだ四両残っています」プリムラが言う。

 強襲偵察隊の他の車両も集結しつつあったが、ルディと黒豹の対決に手を出す事はできなかった。これは通常の機甲戦闘とは大きくかけ離れた代物だ。一言でいえば、次元が違う。

 複数の砲撃音が同時に響く。私にはルディの意図が読めた。砲弾を横一列に、黒豹の鼻先に落とすつもりだ。しかし黒豹はその上を行った。ガクン、と車体を急停車させたのだ。黒豹の鼻先に、泥の塔が立ち昇る。塔の数は、三つだった。

 再び砲撃音が響く。足を止めた黒豹にアルテミスの矢が迫る。黒豹の四号のすぐ隣に着弾した砲弾は、派手に泥を巻き上げたが、炸裂する事なく沈黙したままだった。不発弾だった。

〈くっ――〉初めてルディの口から悔しそうな声が漏れる。彼女にしてみても、必殺の一撃だったのだろう。〈黒豹には、幸運の女神が味方しているようですね〉


 それ以上彼女たちは砲撃を続ける訳にはいかなかった。今や黒豹たちは救護所のすぐそばを走り抜けている。そうすればアルテミスが砲撃を続ける事ができない事を、黒豹たちは理解しているのだ。私はそれを卑劣とは思わない。

 覚悟を決めるべきだろう。黒豹たちを止めることができるのは、もはや私たち強襲偵察隊だけになってしまった。テントやトラックなどの陰に身を隠しながら、黒豹に接近するしかない。それがどれだけ危険な行為であろうとも。

 意を決し、指示を出そうとしたところで、専用無線機が意外な声を吐き出した。


〈あー、あー。アルテミス、聞こえるか?〉

 聞く者に野卑な印象を与える、中年男性の声だ。一体何者だ? アルテミスの使用する無線周波数は極秘のはずなのだ。

〈あれ、返事がねぇぞ? おいチェスター。煙草三カートンでガセネタを掴まされたんじゃねぇだろうな〉

〈マジかよ。くそ、ミリンツの野郎。帰ったらケツにコークの瓶を丸ごと捻じ込んでやる〉 

 私が黙っていると、まるで緊張感の無い会話が繰り広げられ始めた。プリムラは困ったように眉尻を下げ、イリスは目を閉じてため息をつき、ラナは苦笑いを浮かべ、ニーナは完全に無視をして双眼鏡を覗き込んでいる。私は小さく首を振り、マイクを手に取った。


〈こちらアルテミス。君たちが何者かは知らないが、私たちは作戦行動の真っ最中だ。それもかなり絶望的な。邪魔をしないで頂きたい〉

〈おっ、繋がったぞ。チェスター、お前は良い買い物をしたようだ。それにしても、その声はーー〉

 私は呆れを通り越して、怒りを覚え始めていた。一体何なのだ、こいつらは? 強い言葉で彼らに抗議をしようとしたところで、無線機から流れてくる声が私の名を呼んだ。

〈お前、もしかしてサミュエル・〝マッド〟・ウッドか?〉

 警戒しながら〈そうだ〉と答えると、男は豪快に笑った。〈そいつは良い。死人に借りを返す事ができるとは、夢にも思っていなかった〉

 どういう意味だ、と問う前に、いくつもの砲撃音が轟いた。私は咄嗟に身を屈めたが、それはⅣ号戦車の七十五ミリ砲では無く、もっと軽い三十七ミリ戦車砲の砲撃音だった。砲弾は黒豹たちにただの一発も命中はしなかったが、挨拶としての役割は十分に果たしていた。四両のⅣ号戦車がぐるり、と砲弾の飛来した方向へ砲塔を旋回させる。私もそちらに目を向ける。三両のスチュアート軽戦車が高速で近づいてくるのが見えた。

〈第七十七機甲連隊、第三大隊、第十七機甲中隊所属、アルフ・ハリーズ中尉以下十二名。月と狩猟の女神たちへ借りを返すために参上した〉


 Ⅳ号戦車がスチュアート軽戦車に向けて反撃を開始した。逸れた砲弾が、いくつもの泥柱を立ち昇らせる。いかに黒豹といえども初撃から、それも行進間射撃での命中は難しいようだった。だが、次は当ててくるだろう。スチュアートは快足を生かし、進攻するⅣ号戦車の前に出ようと加速した。黒豹がその進路に榴弾を撃ち込み、破片を浴びたスチュアートはバチバチと火花を散らせながら大きく減速する。出鼻をくじかれたスチュアート隊は距離を取り、仕掛けるタイミングを見計らう。

 二つの戦車隊は並走するように駆けていく。進路上のアルストロ兵士たちは怯えた表情で逃げ出そうとしたり、ゲ二ア兵の残した塹壕に飛び込んだり、二つの戦車隊に挟まれる形になった兵士たちは、泥に顔を突っ込んで地面に伏せたりしている。私たちは更に距離を取り、付け入る隙を伺っていた。私は強襲偵察隊の各車にM1バズーカの準備をさせる。

〈そこのスチュアート。第十七機甲中隊だと? 虎狩りの時に壊滅したと聞いていた。生き残りがいたとは驚きだ〉

 マイクに向かって私がそういうと、再び豪快な笑い声が聞こえてきた。

〈それはこちらの台詞というものだ。私たちの間では、君は死んだことになっていたよ〉


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