エリゴス・ライン攻略戦 ①
夜明け前から降り続けている雨のせいで、目に映る景色は霧が掛かったようになっていた。私たち強襲偵察隊の七両は一塊になり、レインコートや防水シートの上で雨粒が弾ける声を聴いていた。砲撃部隊の女神たちは二十キロ程離れた場所で、砲弾運搬車と共に出番を待っている。
空から垂れる白灰色が大地まで続き、遠くでは名も知らぬ友軍が作戦前の支援砲撃が続いていた。弾幕射撃を行っている重砲が放つ砲火が、黄色く滲んで列を作っている。重砲の咆哮はたっぷりと水分を含んだ大気に吸収され、まるで大きなハンマーをマットレスに叩きつけているかのようだった。
不意に密やかな歌声が私の耳に届いた。誰かが口ずさんだメロディーは波のように広がり、雨に濡れたシボレートラックの荷台は、小さなコンサートホールになった。
アメイジング・グレイス。アルストロ国民ならば誰もが知っている歌だ。〝神は私にすばらしい恩寵を与えてくださり、救い、導いてくださる〟。私は神という存在に対して少しも親しみを感じてはいないが、しかし彼女らの為になら、祈ってみるのも悪くない。私は彼女らと共に神への愛と感謝を歌いながら、マーテルがこの歌をよく好んでいたのを思い出す。
〈作戦開始予定時刻まで、約五分。準備は万全ですか?〉
讃美歌が終わるのを見計らったように、無線機がルディの声で囁く。
〈ちょうどお祈りも終えたところだ。そちらこそ、もう無線機をおしゃかにしないようにな〉
〈もし何かしらの不運でそうなったら、今度こそ神様に抗議のお手紙を書こうと思います〉
やがて砲兵隊の弾幕射撃が止むと、恐る恐るといった様子で戦いが始まった。今頃は最前線で兵士たちが塹壕や個人用の蛸壺壕から顔を出し、腰をかがめ、這うように歩き出しているのだろう。ゲ二ア兵は霞む景色に目を凝らし、息を飲んで引き金を引くその時を待っている。
映画では屈強な男たちが雄叫びを上げ、銃を抱えて敵陣に勇敢に突撃し、果敢に戦いを繰り広げる。だが実際の戦争はそうではない。普段は踏みつけるだけの大地に身を伏せ、地面の僅かな起伏に命を預け、ろくに敵の姿も見ずに引き金を引く。私の知る限り、狙撃手や戦車の砲手以外の兵士は、狙いすました一撃で相手の命を奪う事は少ない。銃弾と共に理性や意識を吐き出すような、半ばトリップしたような感情で手当たり次第に命を散らせるばかりだ。
そして戦いが終わった後には、物語では人の形をした、明らかにそれと解る人影が横たわっている。それも現実とは違う。残るのはズタズタの肉片ばかりだ。殺傷能力を追及され続けてきた数々の兵器の前では、人体など紙切れに等しい。
一度戦いが始まれば、後は流れ落ちるようなものだ。早く終わってほしいと願いながら、引き金を引き続ける。ただ敵がいて、やるべき仕事がある。戦場における目的とは、相手の命を奪う事だ。そうなる前に、こちらが先に相手の命を奪う。これ以上に解りやすい理屈は無い。
〈作戦開始。幸運を〉
〈ええ、お互いに。サミュ〉
ラナがゆっくりとアクセルを踏み込み、他の車両もそれに続いた。私たちの仕事は抵抗する敵防衛線の様子を観察し、ルディたち砲撃部隊の〝眼〟として役割を果たすこと。しかし戦場では予定していた通りに物事が運ぶことは一切ない。状況に合わせ、私たちは自身の力が最も発揮される仕事をする。
臨機応変。いつも通りだ。
心配事はといえば、昨日の夜中から降り始めたこの雨は、如何にもまずかった。
砂漠の砂の大地は、雨に降られるとあっという間に泥沼のようになる。足に纏わりつく泥は兵士の歩みを阻害し、車両は深く沈み込む。その度に戦車やトラックは剣先スコップを用いて、履帯やタイヤから泥を削ぎ落さなければならない。何よりも問題なのは、敵の姿が良く見えないことだ。それは相手からしても同じことだが、目の届くすべてに神経を尖らせなければならない私たちと違い、ゲ二アはただ待ち構えていればいい。いまや地形に加えて、天候までがゲ二アに味方していた。この不利を跳ね返せるとすれば、それは女神たちの放つ矢だ。
〈支援砲撃準備、通常榴弾装填。……敵と味方の距離が近いですね〉
〈撃てるか?〉
〈ええ。だけど私の〝眼〟では区別がつきにくい。味方を巻き込むのはごめんです、観測をよろしくお願いします〉
私たちと同じように、味方の部隊も臨機応変に行動する。居ないはずの場所に味方がいて、それを砲撃に巻き込む。特にその事をルディは危惧していた。そしてゲ二アも状況に合わせて最適な行動を取ろうとする。雨霞に隠れ、縦横に張り巡らされた塹壕を伝ってこちらの裏をかこうとするだろう。目を光らせ、そういったものから味方を守るのも私たち強襲偵察隊の重要な仕事だ。
機関砲の銃声が響いた。それに呼応するように、あちこちで壮絶な打ち合いが始まる。三つの攻撃ライン、エイブル、ベーカー、チャーリーは今やその全てが、ポップコーンのように死が弾ける地獄と化している。
〈敵火力集中! 頭を上げられません、援護求む!〉〈戦車はどうした。なぜ前に出てこない!?〉〈前方に装甲車。突破するぞ。ノーマン、M1を持ってこっちにこい〉〈機銃陣地を何とかしろ! 行けドニー、男を見せろ!〉〈被弾、被弾! ルイスの戦車が炎上している!〉〈あれはどこの奴らだ? 先行しすぎだ〉〈やめろジェンキンス! お前の部隊は味方を撃っている!〉
ルディたちや強襲偵察隊内で連絡を取り合うための専用無線とは別の、共通無線機から戦場の混乱がそのまま吐き出されてくる。戦火はあっという間に私たちを飲み込み、掻き混ぜる。
オリオンとアルカディアは二手に分かれ、戦場を見渡せる場所を目指して走る。アルカディアにはもう敵の位置を察知する共感覚能力者は居なかったが、これほどの乱戦では重要な事とは言えなかった。殺意と害意が嵐のように吹き荒れる最前線では、己の目と耳と、天啓のような〝戦場勘〟に頼るしかない。
〈アルカディア各車、ポイントに到着。予定通りベーカーとチャーリーを見渡せます〉
〈了解。報告を怠るな〉
無線機からサヴィナの声が響く。戦場は広い。各車両は広く散開し、戦いの様子を観察している。今や私たちのトラックの全てに無線機が搭載されている。
〈こちらオリオンⅢ。エイブル、ポイント144―369、M4二両が撃破され攻撃部隊が釘付けにされています。支援の必要を認める〉
〈アルカディアⅠ、支援砲撃要請。チャーリー、ポイント189―773。ゲ二アは岩山を要塞化しています。機関銃、迫撃砲多数。対応が必要です〉
遥か背後から、巨人が咳払いをする様な聞き慣れた音が聞こえてくる。ルディの千里眼と砲手たちの未来予知により放たれる砲弾は、ピンポイントで敵に打撃を与える。着弾観測射撃が必要な通常の砲兵部隊とは違い、彼女たちは敵に逃げる隙を与えない。
グレープスカッシュ――収束爆砲弾――の、大地を沸騰させるかのような独特な着弾音が轟き、塹壕に潜んだゲニアの兵士を一掃した。次いで金切り声を上げて飛翔する砲弾が空中で炸裂し、要塞化された岩山を、ビックアップルの猛烈な炎が飲み込む。濛々と立ち昇る黒煙は、遠く離れた私にも見逃しようがなかった。
〈アルテミスだ! アルテミスが来ているぞ!〉〈なんて威力だ。ゲ二ア野郎どもが陣地ごと消し炭だ〉〈良いぞ、まさにご加護だ! 奴らが怯んでいるうちに負傷者を下がらせろ!〉〈突っ込め、恐れるな! 女神とダンスだ!〉
無線機から歓声が響く。味方の戦意は一気に高揚し、敵が浮足立つ気配が空気を伝ってくる。
私の車両は斜面を登り、断層崖の天辺に居た。周囲にはどちらの軍勢のものともつかぬトラックや、兵士たちの遺体が散乱していた。
私は荷台の上に立ち、双眼鏡を覗き込む。視線の先に、攻撃部隊を迎え撃とうとしている戦車が見えた。地面に大きな穴を掘り、そこの車体を沈めて砲塔部分だけを露出させている。
ダグインと呼ばれる、拠点防御に戦車などの機甲車両を用いる際に用いられることのある戦法だった。敵戦車は車体を隠しているので被弾面積を小さくでき、頑丈な砲塔部分だけを露出して攻撃ができる。トーチカのように開口部が無いので梱包爆弾を投げ込む事もできない。特に歩兵などに対しては、非常に有効な防御戦法だった。
周囲には、巧みに隠された機銃銃座も見える。ガッチリと戦車の側面をカバーしていた。
戦車のハッチからは乗員が顔を出していた。車長だろう。双眼鏡を覗き込み、空に吸い込まれていく黒煙の柱を見つめている。そして車内に向かって何事かを叫ぶと、戦車のエンジンが唸りを上げた。
私には彼らの動揺が手に取るようだった。彼らは悠然と構え、鋼鉄と大地に守られながらこちらの進軍を阻止するつもりだったのだろう。だが、今や自分たちは女神に狩られる獲物であるという事を理解していた。もちろん私としても、彼らを逃がす訳にはいかない。
〈オリオンⅠ、砲撃要請。エイブル、ポイント232―354。ダグインした戦車に機銃銃座。敵は後退しようとしている。即応求む〉
ほとんど間を開けずに、死の矢が飛来した。初めに私の頭上を通過した通常榴弾は敵戦車に直撃し、その重量と爆圧で戦車は巨大なスクラップになった。次いで飛来した砲弾は空中で炸裂し、機銃銃座から逃げ出そうとしていたゲ二ア兵の上に炸裂する子弾を降らせた。大地は沸騰したように弾け、泥が高く跳ね上げられる。煙が風に攫われた後に残ったのは、徹底した破壊の爪痕だった。
地獄の中に、蠢く影を見た。一人の兵士が幸運にも生き残り、泥に塗れながら雨の中を泳ぐように逃げ出すのが見えた。イリスに声を掛ければ、間違いなく彼を仕留めるだろう。以前の私なら間違いなくそれを命じたはずだ。だが今の私には、その案に全く魅力を感じることはできなかった。
〈こちらオリオンⅠ、ポイントクリア。索敵を継続〉
戦闘開始から数時間が経過していた。エリゴス・ライン攻略戦におけるアルテミスの活躍は圧倒的であった。女神の矢は次々にゲ二アの陣地を破壊し、アルストロ軍の猛攻はエリゴス・ラインを激しく揺さぶった。ハードポイントが役目を果たせなくなり、ゲ二ア北アリウム軍団は物量差に押し負けて後退を続けている。無線機からは大勢は決したという、楽観的な言葉も聞こえ始めていた。
だが、私の胸は暗雲のような不安があった。このままで終わるはずが無い。そう思った。
次の瞬間、不安は現実のものとなった。
〈こちらレヴィック第一分隊、G―Ⅲ! 四号戦車が突然地中から飛び出してきた。奴ら、本隊が通り過ぎるのを待っていやがったんだ!〉
〈ベック隊Y―Ⅱだ。我々でもこちらの後方へ突っ込んでいく敵戦車を確認している。ベーカー、ポイント599―273付近からⅣ号戦車六両が出現〉
無線機が不吉な知らせを吐き出す。私は頭から血の気が引いていく音を聞いていた。ゲ二アにとってアルテミスの存在は圧倒的な脅威であり、今や連合軍にとっては勝利の象徴に近い存在となっている。敵がこれをどうにか叩こうとするのは当然といえた。
しかし前線から遠く離れた深い場所に居るアルテミスを攻撃しようにも、制空権を連合軍が握っている状態では偵察機も飛ばせない。そこで奴らは女神たちの大まかな位置を砲撃音などから推測し、前線を後退させ、隠れていた部隊がタイミングを見計らって飛び出す。明らかに無謀な策だが、それでもゲ二アはそれを実行した。対アルテミスの決死隊だ。
〈こちらオリオンⅠ。強襲偵察隊全車両に告ぐ、全速力で女神たちの元へ戻れ! 少しでも奴らの到着を遅らせるんだ!〉
雨に塗れながらも、頬を冷汗が伝うのが解った。早鐘を打つ心臓を抑えようとしている私の耳に、更なる不吉な報告が飛び込んできた。
〈後方へ突撃する敵戦車隊の先頭車両に、黒豹のエンブレム。繰り返す、敵は黒豹だ〉




