嵐と崖越え
枯れ谷を這い出し、ガガ・メニスの北北西、約七十五キロに位置する断層崖を目指す。ゲニアの追撃部隊に抑えられた街道からは遠く離れ、メッサーシュミットの目も届かない場所だ。
強い雨は私たちを守る神の薄衣だった。雨音はエンジン音を掻き消し、白くけぶる景色は私たちの姿を覆い隠した。たとえ岩山の陰で雨宿りをしているゲニア野郎の五キロ隣を通り過ぎても、奴らは気が付くことができなかっただろう。
それでも我々は慎重に足を進めた。視界が利かないのはこちらも同じなのだ。共感覚があるとはいえ、万が一敵部隊と鉢合わせでもするようなことがあれば、とても面白くないことになるだろう。
四十キロほど進むと、足場は砂利の砂漠へと変わった。これで足跡を残さずに進むことができる。これまで私たちの前に立ちはだかる壁でしかなかった広大な砂漠が、今だけは心強く感じられた。
車両の状態は良くはなかったが、応急処置が功を奏していた。アクセルの踏み込み加減を調整して乏しい燃料を節約し、それでも日没前に断層崖に辿り着く事ができた。私は崖を見上げる。高さはおよそ二十メートルといった所だ。左右に切り立った灰色の壁が何キロにも渡って続いている。とても車両が通行できるような地形ではない。念動力能力者が居なければ。
日没までは三時間と少し。ゲニアの意識から離れているこの場所は、この上なく安全といえるだろう。ここで野営し、明朝に改めて崖越えに挑んでも良い。しかし私は直ぐにこの難所の攻略に取り掛かることにした。こんな場所で時間を無駄にすることには、意味を見出せなかった。
「役割分担が必要ね」
イリスが提案し、私を含めて皆がそれに同意した。プリムラは車体を持ち上げることだけに専念し、他の念動力能力者がそれを補助する。車体を壁にぶつけたり、地面に落とさないようにだ。体力の残っている者は、念動力能力者の負担を減らすためにロープを用いて自力で崖を上る。他の者は周辺警戒だ。
「急ぐ必要はない。ゆっくり、慎重にだ」
「まっかせてください!」
プリムラは元気そうにそう言うが、疲労が既に限界を超えているのは誰の目にも明らかだった。それは全員が同じ状況だったが、最年少のプリムラよりも先に弱音を吐くことは誰にもできなかった。プリムラはそれを理解していた。だから、誰よりも明るく振舞おうとするのだ。健気な姿は仲間たちの尊敬を集めた。
プリムラの念動力は強力だ。シボレートラックを二十メートルも持ち上げても、どうということもない。だが細かい調整はできないので、岸壁に車体をぶつけたり、車体を地面に降ろす際に足回りを痛めたりする可能性があった。その穴を他の念動力能力者たちがフォローする。
先に崖上に運んでもらった者が、ロープを結び合わせて崖下へ垂らす。幸いにしてロープは十分な長さに達していたが、雨の吹き付ける中で二十メートルの崖を登るのには大変な労力を要する。
二時間を費やして五台目のトラックが崖上へと降ろされた。隊員も半分以上が崖を登り切り、崖越えは半ばを超えた。ラストスパート前に一息つこうとした時、アルカディアの共感覚能力者、クレア・カンバーが崖下からヒステリックな声を上げた。
「十一時方向より航空機! 数分で到達します!」
「見つかったのか!?」
私が問うと、クレアは曖昧に首を振った。「敵意や害意は感じませんが……」
ニーナも同意見だった。つまりは、最悪の偶然という訳だ。私たちの不運を奴らの幸運にしないために、取るべき行動は一つ。小動物のように身を潜めてやり過ごすのだ。
頭上に迫るのがヘンシェルであれシュトルヒであれ、機関砲弾の雨を降らせる恐ろしいメッサーシュミットであれ、見つかれば我々はお終いだ。私は大急ぎでシボレートラックに偽装網をかけるように命じ、崖下のトラックには岩壁に張り付かせてから偽装網をかけさせた。
混乱が収まる前に、遠くから唸るようなエンジン音が聞こえてきた。機種は判別できなかった。私たちは息を潜める。肩を擦り合わせた互いの心臓の音が聞こえるかと思う程に。
エンジンの唸り声はしつこく轟き続けた。航空機は遠いのか、それとも近いのか? 数は何機だ? それすらも良く解らなかった。エンジンの唸りと、雨音と、私たちの息遣いだけが世界の全てだった。息を潜めていたのは実際には数秒のことだったのかも知れないが、私には気が遠くなるほど長い時間のように思えた。
不意にエンジン音が大きくなった。航空機は確実に近づいている。突然、ラナが怒る犬のような声を上げてブローニングM2重機関銃に飛びついた。ラナが何をしようとしているのかは考えるまでも無かった。
「よせ、ラナ!」
「やらせてください! 必ず仕留めます!」
そういう問題ではない、と私は叫んだ。もしその試みが上手くいったとしても、戻らなかった航空機を探して、明日には十倍の数の航空機が私たちの頭上を飛び交うだろう。それは部隊を危険に晒す行為だ。
ラナは私の制止を聞かず、ブローニングのレバーを引いた。ガシャッ、と弾丸が薬室に送り込まれる音が響く。私は反射的に腰の拳銃を抜いていた。照星の向こうに動きを止めたラナの背中が見えたとき、自身の行為に気が付いた。だが、銃を下すわけにもいかなかった。
イリスが素早く反応を示すのを視界の端で捉えた。スプリングフィールドの引き金に指をかけ、しかし銃口は向ける先を決められずに、中途半端に下げされたままだった。
「やめて、くださいよ、二人とも……」
絞り出すような声でイリスが呻く。いつも飄々としている彼女からは想像しがたい、苦しみながら祈るような声だった。
「ラナ。私はお前たちを望む場所へ連れて行く。戦場へ。次の戦場へ。また次の戦場へだ。だが、それは今ではない。ブローニングから手を離せ」
胃を締め上げるような、緊迫した空気が流れていた。見守ることしかできない者たちは、息を吐く音一つで誰かの引き金が引かれてしまわないかと、震える唇を固く引き結んでいた。
背中を向けたままのラナは何も語らない。ラナが抱えているゲニアに対する憎悪を言葉にすれば、一言で済む。しかしそれを語り終えることはない。
薄氷のような空気の中を滑るように、ラナの背後へ忍び寄る影があった。
「ラ~……ナっ!」
と小さな子供が姉に甘えるように、プリムラがラナの腰に飛びついた。ラナの肩が大きく震え、私たちも息を吞んだ。
「ラナはいつもみんなの怪我を治してくれますから、今度は私の番です。痛いの痛いの飛んでいけ、ですよ」
「……なによ、それ」
「どこかの国のおまじない、みたいなものらしいです。どうですか?」
ふっ、とラナの肩から力が抜けた。最悪の事態は脱したようだった。
「……ありがとう、プリムラ。もう、大丈夫だから」
ラナはその場で腰を下ろし、プリムラの髪を指で梳く。そしてチラリと私を見遣った。
「すみませんでした、サミュ。罰は覚悟しています」
立場上、命令違反の部下を放免するわけにもいかない。私たちのような非正規な部隊にこそ、規律が求められるのだ。しかし、常に厳格である事だけが良い指揮官の条件であるとは私は思わない。
「お前はブローニングの整備をしようとしていただけだ。私も、日の出ているうちに拳銃の手入れをしようと思っていた。砂粒一つで誤作動を起こしかねんしな。イリスも、そうだな?」
視線を向けると、イリスは呆れたように笑って肩を竦めた。
「もう少し気の利いた言い訳はできないんですか? つまらない男ですね」
頭上の危機は未だ去ってはいなかった。エンジン音は更に近づき、雨霧の向こうに機影が浮かび上がった。
「……ハリケーン。二機。リナリア空軍機です」
双眼鏡を覗き込んだニーナが声を上げる。私たちはもう少しで、壮絶な同士討ちを演じるところだった。リナリア空軍のハリケーンは旧型であり、航空機同士の格闘戦を行う戦闘機としては一線を退いているが、度重なる改修により地上目標に対して多大な損害を与える優秀な攻撃機として生まれ変わった機体だ。
たとえ友軍機とはいえ、大変な脅威であることに変わりはない。戦場で遭遇した所属不明部隊には、誰もがとりあえず攻撃を仕掛けてくるからだ。目の前の兵隊が、敵か味方かを確認している余裕はない。ましてや、ここは敵地のど真ん中だ。ハリケーンに攻撃を控える理由はない。万が一発見されてしまえばハリケーンの装備する十二門もの七・六九ミリ機関銃に蹂躙されるか、戦車にも致命的な損害を与える〝缶切り〟こと、四十ミリ機関砲の餌食になってしまうだろう。
そして何よりも最悪なのは、相手に同士討ちをしたという感覚は無く、私たちの死はゲニア兵の死としてカウントされてしまうことだ。どうしても、それだけはごめんだった。
私たちは息を潜めて、大空の猛獣たちが飛び去るのを待った。




