うえの人
「いろいろありましたけど、引っ越すことにしました」
挨拶にやってきたその男は、サッパリした様子だった。
「そうですか。引っ越しますか」
僕は無関心な風を装っていたが、内心やれやれと思っていた。うるさい男がいなくなるのはありがたい。僕はこのところ、ずっとこの男の騒音に悩まされていた。
「夜中にステレオをボリューム一杯で聞くのはやめてください」
「もっと静かに歩いてくれませんか」
「床の上に何をどしんどしん、落としているんですか」
「真夜中に仲間を呼んでどんちゃん騒ぎをするのはやめてください。少しは下に住むものの身にもなってくださいよ」
僕は毎日のようにそんな文句、そう、僕に言わせればこれこそ騒音、を下に住むその男に言われ続けていたのだった。
勿論、僕にはそんな苦情を言われる理由はない。たまたまマンションの上と下になった住民同士、都会で生活するためには、お互い我慢しなければならないことも沢山あるのだ。
「自分のライフスタイルについて他人に干渉されるのは真っ平」
「文句があるならあんたが引っ越せばいいじゃあないか」
僕がそう言ってクレームに反発するたびに、下の階の男は呆れたように肩をすくめた。
「あなたの生活に干渉するつもりはないんです。もう少しだけ、静かにしてくださいとお願いしているだけなんです」
「よそへは引っ越しできないんです。ここが仕事に一番都合いいんです」
男は悲しそうな顔で訴えるように言った。
「こっちは普通に生活しているのに、それであんたが言うほどうるさいとしたら、それはこのマンション自身の防音材の欠陥じゃあないのか」
「…………」
僕はうるさい男を追っ払う為に口からでまかせを言ったのだが、この男は急に黙って考え込んだ。そしてしばらくしてようやく口を開いた。
「初めてあなたから意味のある言葉が聞けました。工事の欠陥という線も押してみましょう。でも、たとえそうだったとしても、私はあなたのこれまでの非常識な態度を忘れませんよ」
男は最後に憤然とそう吐き捨てた。
「ああ、忘れないほうがいいぞ。これが都会で生き抜く智恵だ」
自分が引っ越しするのが嫌だから静かにしろだって。自分勝手なやつだ。確かにこのマンションの最大のメリットはロケーションがいいということだ。もちろん、僕も動きたくない。
驚いたことにやつはそれから、「欠陥マンションを何とかしてくれ」と施工会社に掛け合ったのだ。近所に新しいマンションを建てる計画のあったその会社は、評判を落とすのを恐れて、話し合いの道を選んだ。そして住人に慰謝料を払うことで和解したのだった。
おかげで我々マンションの住人は皆、その恩恵にあずかれることになった。ぼくも有益な指摘をしたことで感謝こそされても、怨まれる筋合いはない。
それなのにやつは、ぼくの態度をずっと根に持っている。見当違いもいいところだ。
「普通ならお互いさまなんだから、下の階にも気をつけてくれますよ。マンション会社のほうがよっぽど親身になってくれました。これまでのあなたの対応は決して忘れません」
確かにぼくはボディビルをやっているので器具を時々、床に落とすこともあるさ。音楽を聴くにもスタイルがある。なんてったって静かな夜中にボリューム一杯でガンガンというのが一番だ。仲間と騒ぐのも大好き、これらは個人の自由の問題だ。
実際のところマンションの欠陥だったんだろう、補償をもらったんだろう、それでいいじゃあないか。
私はそのままドアをしめようとしたが、下の男はまだ何か言うことが残っているのか、その場を動かなかった。
「何かほかにあります? いそがしいんだけど」
「実はですね。こんどの引っ越し先ですが……」
「引っ越し先がなにか?」
私がうるさそうに尋ねると男は答えた。
「この上の階に引っ越すことにしたんですよ。和解金が入ったので、もう一部屋借りる余裕が出来ました。それで今の部屋には故郷から母親を呼んで、住ませようと思っています。えーと、母親は耳が遠いので苦情はもう、こないと思いますよ。それだけです。ではまたよろしく」
そう言うと男は初めてニヤリと笑みを浮かべて、エレベーターのほうに消えていった。
しばらくすると、真上で部屋のドアを開ける音が響いた。そしてバタンと閉まる音、誰かが部屋の中を騒がしく歩き回る音、何かをドシンと落とす音……。