表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

うえの人

作者: 前田剛力

「いろいろありましたけど、引っ越すことにしました」

  挨拶にやってきたその男は、サッパリした様子だった。

「そうですか。引っ越しますか」

 僕は無関心な風を装っていたが、内心やれやれと思っていた。うるさい男がいなくなるのはありがたい。僕はこのところ、ずっとこの男の騒音に悩まされていた。


「夜中にステレオをボリューム一杯で聞くのはやめてください」

「もっと静かに歩いてくれませんか」

「床の上に何をどしんどしん、落としているんですか」

「真夜中に仲間を呼んでどんちゃん騒ぎをするのはやめてください。少しは下に住むものの身にもなってくださいよ」


 僕は毎日のようにそんな文句、そう、僕に言わせればこれこそ騒音、を下に住むその男に言われ続けていたのだった。

 勿論、僕にはそんな苦情を言われる理由はない。たまたまマンションの上と下になった住民同士、都会で生活するためには、お互い我慢しなければならないことも沢山あるのだ。


「自分のライフスタイルについて他人に干渉されるのは真っ平」

「文句があるならあんたが引っ越せばいいじゃあないか」

  僕がそう言ってクレームに反発するたびに、下の階の男は呆れたように肩をすくめた。


「あなたの生活に干渉するつもりはないんです。もう少しだけ、静かにしてくださいとお願いしているだけなんです」

「よそへは引っ越しできないんです。ここが仕事に一番都合いいんです」

 男は悲しそうな顔で訴えるように言った。


「こっちは普通に生活しているのに、それであんたが言うほどうるさいとしたら、それはこのマンション自身の防音材の欠陥じゃあないのか」

「…………」

 僕はうるさい男を追っ払う為に口からでまかせを言ったのだが、この男は急に黙って考え込んだ。そしてしばらくしてようやく口を開いた。


「初めてあなたから意味のある言葉が聞けました。工事の欠陥という線も押してみましょう。でも、たとえそうだったとしても、私はあなたのこれまでの非常識な態度を忘れませんよ」

 男は最後に憤然とそう吐き捨てた。

「ああ、忘れないほうがいいぞ。これが都会で生き抜く智恵だ」


自分が引っ越しするのが嫌だから静かにしろだって。自分勝手なやつだ。確かにこのマンションの最大のメリットはロケーションがいいということだ。もちろん、僕も動きたくない。

 驚いたことにやつはそれから、「欠陥マンションを何とかしてくれ」と施工会社に掛け合ったのだ。近所に新しいマンションを建てる計画のあったその会社は、評判を落とすのを恐れて、話し合いの道を選んだ。そして住人に慰謝料を払うことで和解したのだった。


 おかげで我々マンションの住人は皆、その恩恵にあずかれることになった。ぼくも有益な指摘をしたことで感謝こそされても、怨まれる筋合いはない。

 それなのにやつは、ぼくの態度をずっと根に持っている。見当違いもいいところだ。


「普通ならお互いさまなんだから、下の階にも気をつけてくれますよ。マンション会社のほうがよっぽど親身になってくれました。これまでのあなたの対応は決して忘れません」

 

 確かにぼくはボディビルをやっているので器具を時々、床に落とすこともあるさ。音楽を聴くにもスタイルがある。なんてったって静かな夜中にボリューム一杯でガンガンというのが一番だ。仲間と騒ぐのも大好き、これらは個人の自由の問題だ。

 実際のところマンションの欠陥だったんだろう、補償をもらったんだろう、それでいいじゃあないか。

 私はそのままドアをしめようとしたが、下の男はまだ何か言うことが残っているのか、その場を動かなかった。


「何かほかにあります? いそがしいんだけど」

「実はですね。こんどの引っ越し先ですが……」

「引っ越し先がなにか?」

  私がうるさそうに尋ねると男は答えた。

「この上の階に引っ越すことにしたんですよ。和解金が入ったので、もう一部屋借りる余裕が出来ました。それで今の部屋には故郷から母親を呼んで、住ませようと思っています。えーと、母親は耳が遠いので苦情はもう、こないと思いますよ。それだけです。ではまたよろしく」


そう言うと男は初めてニヤリと笑みを浮かべて、エレベーターのほうに消えていった。

しばらくすると、真上で部屋のドアを開ける音が響いた。そしてバタンと閉まる音、誰かが部屋の中を騒がしく歩き回る音、何かをドシンと落とす音……。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ