2、消えた
「大変ね」
妻の通子が、そう言って、緑茶を出す
しかし、それはいつも出されているどの緑茶とも違う事に、溜息は気が付いたが
疲れのせいで、特に気にしない事にしようとも思うが、案外こう言う事は、重大だったりするかもしれない
女性の思惑とは、何時も謎なのだ
「ああ、事件が立て続けだ・・帰る日が少なくて、きみには心配かけるよ・・ただ、少し良いかな」
「あら、何です」
長い髪を垂らして、首を傾ける通子
「この緑茶は・・・」
「あらいけない」
通子は、話の途中で、立ち上がると、背後の扉を開けた
どうやら、料理の途中だったらしく、ここからでも、何かが煮えている音が聞こえた
「今日は、鍋かい」
溜息は、少しうきうきした声で、扉の向こうに声を変えた
「えっ、何」
台所の雑音が、声を妨げてしまったようだ
「いや、いいや」
溜息は、そう言うと、巡回に次ぐ巡回の疲れか
事件の後にもかかわらず、あまり新品とは言い難い畳に寝転ぶと
いつの間にか寝息を立てていた
「あなた、あなた、起きてください」
何時も無口な、エリート先輩こと青目高が、どう言うわけか、女性の声で、自分を起こしている
果たしてどう言う事だろうか
机に横には、いつものしかめっ面をした、あいも変わらない仏頂面が、溜息を、見下ろしているが
その口から珍しくはっしられている言葉は、いや、声は、女性のそれだ
しかも、どこかで聞いたことがある
いや、そんな曖昧な物ではない
それだ、断固たる、事実により、確信できるが、かなり親しい人だ
そこまで、考えて、それが、妻だと分かったとき
気色悪さが、体中をめぐる
それは、妻が実は、先輩の変装だったと言う、とても、受け入れがたい・・・
「起きてください」
その時、主に肩を揺らす、巨大な地震が起こった
「どっどいうことだ、地震なのに、地面が揺れず肩が揺れている」
先輩を見ると、いつの間にか妻の姿が、そこに、あり、不気味な、高笑いまで発している
「どっ、どうしたんだ通子」
「あなた、本当に起きてください」
「?」
世界が、何重にもぼやけ、目をこすり、しっかりと、前を、見たとき
いつの間にか、十メートルほど離れた所に居た妻が、真横から、自分を、覗きこんでいた
妻は、重力を無視できる宇宙人もしくは、超能力者だったのか
そのあまりに、急なショックに、驚いていたが
妻が差し出した、緑茶を、飲んだ頃には、夢のことなど大半は、忘れ、どうでも良くなっていた
「行って来る」
この家の朝食は、いつも、和食だ
おにぎりを、和食と言うのは、間違いでは無いだろうが
いささか、疑問が残りそうな物であるが、溜息は、そのおにぎりを、口にくわえると
外に飛び出した
制服の隙間から、夜風が舞い込む
まだ春先のせいで、冬までとは行かなくてもかなり寒いことに変わりはなく
自分の住んでいるアパート沿いの桜が、寒々しくきょうぎょうしく、地面に落ちている
その中を、溜息は、走った
途中、重なった薄ピンクの花びらに、足をとられそうになるが、それを何とかこらえられず
軽くこけながらも、川沿いを、走り抜けた
「・・・・・・」
よう、お疲れ
そんな言葉をかけることなく
先輩は、紙を一枚、後輩に、付きつけた
派出所は、だるまストーブにより、ある程度、歪にあたたかく、温められているが
そこで、キーボードと、向き合って居たであろう青目高先輩の額には、汗一つ浮かんでいない
実に、無表情で、あり、あいも変わらない
「・・・・」
紙に目を通すと
驚くべきか、恐れるべきか
そこには、部長の写真
そしてその無残な絵の下に「検死解剖」の文字が見えた
「・・・・これ」
僕は、先輩を見た
しかし、あいも変わらず、無表情でありクールである
「先輩」
弩音
床を蹴るのが、ある意味では、先輩の会話法とも言えたが
その時先輩は、机の横を、蹴っ飛ばした
恐ろしいほどに、片づけられた先輩の机の上の物が、特撮映画の街のように、一瞬に、爆破されたように、飛び散る
「・・・・・」
その表情は、いつものと変わらない、しかし何処か、何かをため込んでいるような気もした
「あのー」
突然その沈黙を破る声がした
それは、風が吹けば、隙間風の80%は、防いでくれる、扉を、横に開くと
ひょうきんとも取れる顔を、覗かせた
「検死解剖の末、白川派出所部長 偏狭 トモエ(ヘンキョウ トモエ)警部補だと、分かりました
なお、これに付きまして、県警本部により、特別強化捜査及び大規模パトロールを、実施します
なお、これから、わたくし、警察庁 特別対策課 鍋頭が、皆さんの上司になりますので
以後よろしく」
「ちょっと、待ってください」
僕は、頭の禿げた、小男を、見下ろす体勢であったが、精一杯階級を、意識するようにして
軽く腰を曲げて、言う
「なぜ、僕たちだけ別行動なのでしょうか」
「・・・・」
軽く、顎を撫でる小男鍋頭であったが、その小柄に、灰色のよれたスーツが、何とも、独特の雰囲気を、醸し出す
「つまり」
細い目で、こちらを見て、言う
「つまり」
僕は、聞き返す
相変わらず、やはり先輩は、変わらない
「・・君達は、捜査本部からしてみれば、邪魔者だ」
「どうしてです、我々は、ここら辺の土地勘もあって、お役にたてるはずです」
「いや、それが邪魔らしい」
「どうして」
その時、後ろで声がして振り返ると、先輩であった
「俺が、出世する機会を、奴らは、邪魔でしかない、だから、だから、俺が、犯人をすぐさまに・・・見つけて・・」
「違いますよ、単純に、僕が声をかけてしまったからです」
「どう言う事ですか」
珍しく、ボケとも本気とも取れる良く分からない事を言う先輩であったが
それを、いきなり出てきた特別何とかの所属の人が、ついやしてしまう
「これはつまり、僕が、警視庁の人間だからと言う事です、お分かりですか」
酷く、殺人とは、不釣り合いな、奇妙な笑顔をする鍋頭であった
「・・・僕たちは何をすればいいでしょうか」
そう聞く僕は、実にしつこいのかも知れない
「単純ですよ、犯人を見つけてもらえばいい」
「無理だ」
先輩が叫んだ
「どうして」
「たった三人で、何が出来る」
「三人だからできることが、あるんじゃないのですか」
二人が、僕を除いていう
「じゃあ、示して貰おう、どうやるんだ、部長さん」
「どうして僕の階級を」
鍋頭の胸元の名札を示す、青目高に、対して鍋頭は
「ほう、実にありきたりな理由ですね・・・しかし、あなたぐらいの人は、僕がここに来る前から
知っていると思いましたが、僕の期待のしすぎでしょうか」
僕は、この時始めて、先輩が、驚く顔をした
それがどう言う事を示していたのか、その時の僕は、あまりに無知だった
「ありえない、絶対にありえない」
先輩は、先ほどから、そんな事ばかり呟いている
何時も、巡回している道を、外れ鍋頭が、示した巡回路を、僕たちは、進んだ
その途中、明らかに警察関係者であろう人間に、幾度もであう
ただ、それだけならまだしも、報道関係者と思わしき、マイクやカメラを、手にした人物も
同じくらいいるようにも感じられ
妙な、緊張感とお祭りの最中のような何とも言えない浮遊感が漂っている
果たしてこれは、人が醸し出しているのだろうか
それとも僕がそう感じているだけだろうか
昔、小さな頃、万引きをした後、いつも楽しく見ていたテレビのアニメが
どう言うわけか、ひどく、怖く感じた
そう言う事なのだろうか
気持ちの問題だけで、周りはすべて変わらない
知らなければ、事故物件でも・・・
「ありえないありえない」
先輩は、まだ隣で、呟いていたが、目的地に着いたようで、立ち止まる
「本当にやるんでしょうか」
僕は、先輩に聞いた
「やるしかないんだろ」
これから僕たちは、死ぬのかも知れない
偏狭 トモエは、最強の女性と言うか、生物に思われた
おおよそ、弱みも無く
かといって、平凡に、無難な性格をしているかと言えば
それは至ってNОと言わずには、いられない
されば、ものすごく強いかと聞かれれば、それも良く分からない
子供には容赦なく閲するくせに、老人には、弱く
クマを、鉈一本で倒すと言うくせに、カエルに弱かったり
ごちそうには、目が無いくせに、カップラーメンでも大差はない舌の感覚をしている
おおよそ、最強だと言われても、最強だとは思わない風であるが
何か、何か、最強だとは思わずにはいられない
そんな人間が、後頭部を、切断される
後ろに第三の目が留女と言われた人である
ワイヤーで首をくくられたが、30分しても、死んでなどおらず
いびきをかいていたと言う、嘘のような本当をやってのける人が
どうして、いや、どうやって、それは、とてもではないが、信じられない事態だ
無いと思っていた、大型地震が、自分の身に降りかかるいくらいに
魚が、海で、おぼれるくらいに
ただ、この殺害に関して、唯一、今までと違う事があった
それは、完全に顔が持ち去られていなかったと言う事
それはつまり、わざとと言う事も、有り得なくは無いが、トモエ部長が、強すぎたせいで、完全に、犯行を、遂行できなかった可能性だ
「どうした」
先輩は、靴を鳴らして、そんな感じで、僕を見た
僕は、いつの間にか泣いていたらしい、先輩の顔が、にじんで見える
急いで、ハンカチで目元をぬぐうと、それはある失敗を、していたことに気が付いた
先輩は「どうした」ではなく
「お前がやれ」と、鍋頭が、指定した道を歩けと僕に指示しただけなのである
「そう言えば、先輩、ハッキングでもしているんですか」
僕は、先輩に、そう言う
作戦は結局、失敗に終わった
途中、タコ焼きの店以外、全部閉店している商店街を、二人で並んで歩いた
「・・・・」
横を見ると、こちらを睨むような顔をして、先輩が見ている
「・・・・」
僕は、それを、睨み返すわけでもなく、見つめた
「お前、正義なんてものがあると思うか」
「さあ、正直分かりません、僕は、正義なんて大っ嫌いですから」
僕の答えに、先輩は、意外そうな顔をした後、自分を納得させるように頷くと
「俺は、違う、だから、許せない」と、ぼそっと言った
それだけで、きっと先輩は、何か正義のために、よからぬことをしているような気がした
「何もありませんでした」
派出所に、帰ると、だるまストーブの上に、真っ赤に、煮えたぎっている、鍋が目に入った
「やあ、ご苦労さん」
膝の上に、青い不純物が混じった、まん丸のたぶん水晶を、撫でながら、鍋頭部長が、こちらを見て
言った
「・・・」
先輩はいつものように、自分の机に座ると、パソコンではなく、都心の高層ビルのような正確さのある机を再構築し始める
しかたなく、僕は、作戦の経過を、報告した
「まず、二人で・・・・」
「いや良いよ、君達の胸元のペンに、監視カメラを、設置させてもらったからね
大体把握して居るよ」
「っえ・・え」
目を丸くして、僕は、部長を見たが
向かいに机のある青目高先輩の方位からは、ミサイル張りの速さで、シャープペンシルが、ステルス機のように、僕の目線をかいくぐり、壁際の鍋頭の頭があったはずの壁に、突き刺さる
「まあまあ、そう怒らないで」
シャーペンで人を殺そうとする方も相当であるが
それを後ろから、軽く横にそらす方は、もっと異常である
平凡普通の僕は、それを、目撃する事が出来ず
壁のシャーペンを見てようやく
それを推理し始めたに過ぎない
二人は、互いに、見ている
一人は、殺気を目に宿し
もう一人は、爪切りで切った爪ほどに、細い目を、微笑むように笑い
相手に向けている
「まあ、まあ、先輩、鍋頭さんにも何か理由が、あったんでしょ
ほら、僕たちじゃ気が付かなかったことなんか」
「プライバシーの問題だ」
靴を、モールス音で、鳴らす青目高
「君は、本当に面白いね
市民のためになるのに、それでおこるなんて、そんなに自分が好きなのかい」
「ああ、俺は、一億人の人間を救う男だ、まだ、三人しか死んではいない
釣り合わない」
「・・・それはすごいねー」
「はいはい、二人ともやめましょう、あっ、そうだ、先輩、鍋頭さんが作った、この鍋を、食べましょう」
そう言って、僕が鍋を覗き込むと、血の池ともマグマともさも言わんや、鍋が、こちらに、おどろしい姿を見せつけていた
「先輩大丈夫ですか」
どう言うわけか、先輩は、マグマのような、ドロドロで、目の錯覚か、ところどころ発光している
その流動体を、口に運んでいる
その顔からは、普段、一粒も垂れる事の無い汗が、流れ落ち
それだけでも、鍋がやばい代物だと証明する
「なんで」
どう言う気か、先輩は、一人、黙々と
鍋を食べている
僕が食べようとするものを、すべて
一体どう言う事か
手作りと言うだけで、吐き気を催す先輩が、あって間もない人物の
それこそ意味不明の鍋を食べているなんて
それも、その勢いは、全て食べ切るつもりだ
「大丈夫ですか」
それは、誰に、言っているのだろうか
先輩、それとも自分自身に
「先輩」
鍋は、半分も減っていないように見える
鍋の中に、地獄の亡者が、茹でられて要るのを見た気がする
鍋は、狂気に、あふれかえり
僕に幻覚を見せたのだろうか
何だ、最近おかしなことが多い
犯罪が起こったからか
それとも、おかしな事が重なっているだけか
または、そう思っただけなのだろうか
ただ、目の前には、汗を拭くこともなく
食べ続ける先輩が確かにそこにいて
最強生物と言われたトモエさんは、死んでいて、代わりに、おかしな小男が、ただ、そこにたたずんでいる
「先輩、僕、見てきます」
僕は、どうしようもなく、外に出たかった
こんなところで、こんなものを見ている場合ではない
寒い、外に出た瞬間、寒さが、肌から今の時間帯を、教える
その瞬間、どうしてか、妻の顔が、僕の目の前に浮かんだ
あの温かい空気が、脳内にあふれ出した瞬間
それに反比例すかのように、数々のグロテスクな殺害現場の写真や風景が
脳内に、フラッシュバックした
不味い
僕は、そう思った瞬間
任務も忘れ走り出した
街灯がいくつも通り過ぎる
記者たちが、僕を見つけ、取り囲もうとする
それを、押しのけて、行こうとしたが、うじゃうじゃと、虫の死体に群がる蟻のように
きりが無く押し流された
「ただいま」
僕は、部屋の中に飛び込んだが
そこは暗く
誰かがいる気配はない
いや、大体、部屋の扉が、開けられたままであった
つまりは、今この部屋にいない可能性が高い
それが、遠くまで出かけたのか
それとも、近所にちょっと買い物に、行ったのだろうか
ただ、事件が起きている今である
それにもかかわらず、外に出るとは、思えない
そう、思いたくはない
僕は、部屋から、飛び出した
いない いない いない いないいないいないいないない居ないいない いない
何処にもいない
制服のままスーパーに行って、店の客や店員に驚かれるのも構わず、僕は、妻が通っていた近所の店を、走り回る
されど妻の姿は、見当たらない
本当は、彼女なんて居なかったのでは無いだろうか
そう思ってしまうほどに
逃げていたのかもしれない
居ると言う現実から
居たと言う幸せが、無くなるかもしれない事に
それで、僕は、人に会いたくて、誰かに、怒られても良いから
だから、派出所に向かった
任務中に私情を挟んだ
そんな僕を、殴って貰いたくて
居なかった
いや、実際には、そこには、居た
存在していた
ただ、それは、床に、重なるように、死んでいた
いつか見た、皮を剥がれた鶏のように
その首から先は、相も変わらず
もう、当然とでも言いたそうに
消えていた
無かった
鍋の中からも、汁が無くなり
金色の鍋の底が見えていた
「食べたんだ」
僕は、小柄で、灰色のスーツを着たものと
高そうな皮の靴を履いた死体を
当然のように見ていた
何かが落ちる音がした
僕が、それを見ると
それは首だった
チェシャ猫のような、不気味な目をした
灰色の顔
最近見た顔だ
僕はゆっくりと振り返った
そして僕は言った
「やっと会えたね」
先輩の顔を、右手に、持った彼女が
僕を見ていた